2006/05/04

06/04/09 神は総てのものをあなたに任せられた T 

神は総ての者をあなたに任せられた
2006/4/9
使徒言行録27:21_26
 民主党の代表に小沢氏が圧倒的多数で選出されました。前原前代表は疑惑メール問題で自滅しました。疑惑メール問題では永野前代議士の情報源に対する調査不足が明らかにされました。情報を持ち込んだ西澤なる者は週刊誌に偽情報を持ち込み週刊誌側が名誉毀損で訴えられて敗訴した経歴があります。業界では誰も相手にしない胡散臭い人物であったそうです。彼から1000万円で民主党が情報を買うつもりであったことも明らかにされました。最初に一言謝ればそれで済んだのに、それができなくて傷口を広げました。今国会は小泉首相の構造改革の総括をする大切な国会でしたが、序盤で民主党が大きく躓きました。政治に及ぼした影響を考えれば前原前代表の辞任はむしろ遅すぎたぐらいです。小泉首相から「少しは長くやってもらいたいねえ。次々に辞めちゃうんだもんねえ」と言われるような民主党は野党としての責任を果たしてはいないと見なされていました。 民主党は党再生を賭けて代表選をしましたが、従来の談合体質から抜け切れていないようです。自民党の幹事長であった小沢代表と官公労を支持基盤とする旧社会党系の横溝氏とが野合したかに見えました。小沢氏の政治理念は小さな政府であり、官から民へ、中央から地方へと言う政治の流れは小泉首相とは変わりがありません。官公労からの支持を逆手に取られて、民主党は抵抗勢力と決めつけられ、総選挙で大敗しました。小沢代表は労組依存体質に国民が拒絶反応を示したのに横溝氏を味方に引き込みました。それから多数派工作が露骨に行われました。政策論議が深まらないままで、代表選挙に突入したというのが現実でしょう。 日本の政治は小泉首相までは談合政治でした。派閥の領袖の談合で首相が決まり、大臣が決まっていました。時代は民主主義なのに自民党の中では全会一致が原則でした。陣笠議員という言葉で代表されるように、新人議員は一票を投じるためだけの投票マシーンでした。役所の利権に群がる人々から政治献金という名の上納金を集めるシステムの要が派閥です。自民党は派閥の連合体であり、利益誘導のためにのみ党が存在していたのです。そこに小泉首相が「自民党をぶっ壊す」と宣言し党総裁になりました。小泉首相の郵政民営化法案で党の総務会での全会一致の原則が初めて破られました。選挙の候補者任命権も党に戻りました。大臣は派閥と無関係で総理総裁が指名しました。構造改革で利権構造も大きく変わりました。談合に対し国民の目が厳しくなり、検察庁、公正取引委員会に摘発される例が後を絶ちません。権力の頂点で自ら権力を手放す例は世界史的にも珍しいといえます。小泉首相の構造改革は歴史的使命を果たしたように思えます。 問題は小泉首相なき日本を誰が何処へ導いていくかです。ポスト小泉、自民党だけではなく民主党も日本の未来に責任があります。おそらく衆議院は任期満了まで解散はされないでしょうから、民主党次第で日本の未来は大きく変わるといえるでしょう。健全な野党があって初めて議会制民主主義は有効に機能するからです。そのためには民主党こそ旧来の談合体質から脱皮する必要があります。 パウロが皇帝に上訴したので彼の身柄は皇帝直属部隊の百人隊長ユリウスに引き渡されました。パウロはアリスタルコと共にアジア州沿岸の各地に寄港する船にカイサリアから乗船し、翌日シドンにつきました。百人隊長はパウロを親切に取り扱いました。パウロは友人たちの所で送別会を持つことができました。海岸沿いに船は進み、小アジア半島南岸のミラからイタリアへ向かう船に乗り換えました。船足を妨げられながらもクレタ島の陰には入り、南岸の『良い港』につくことができました。パウロは航海の危険性を指摘しましたが、百人隊長は船長や船主の言うことを信用し、クレタ島西部の港で冬を過ごすことに決めました。 南風が静かに吹いてきたので静かに船出しましたが、『エウラキロン』と呼ばれる暴風に巻き込まれました。船は積み荷、船具を投げ捨てることで沈没から免れましたましたが幾日もの間太陽も星も見えず、助かる望みは全く消え失せようとしました。人々は飲まず食わずで幾夜も過ごしましたが、パウロは人々の真ん中に立ち、『神は一緒に航海している総ての者を私に任せてくださった』と言われたので必ず助かります。元気を出しなさい。『私は神を信じています。私に告げられたことはその通りになります』と船に乗っていた人たちを励ましました。 アドリア海を漂流して14日目の夜、船は陸地に近づきましたが、暗礁に乗り上げるのを恐れて船尾から錨を4つ投げ込み夜明けを待ちました。ところが船員が小舟を使い船から脱出しようとしたので、綱を断ち切り小舟を流れるに任せました。夜が明けかけた頃、パウロは一同に食事をするように勧めました。パウロは『今日までの14日間不安な中で飲まず食わずにいましたが、生き延びるために何かを食べましょう。あなた方の頭から髪の毛一本もなくなることはありません』と言ってから、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りを捧げてからそれを割いて食べ始めました。一同は十分に食事を取ったので元気を回復し、荷物を海に投げ捨てて船を軽くしました。船に残された人々は合計で276名になりました。 朝になり、何処であるかは分かりませんでしたが、砂浜のある入り江を見つけたので船をそこに乗り入れることに決まりました。錨を切り離して海に捨ててから、舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進みましたが、深みに挟まれた浅瀬に船を乗り上げてしまいました。船首がめり込み、船尾は激しい波を受けで壊れ出しました。兵士たちは囚人たちが泳いで逃げ出さないように殺そうとしましたが、百人隊長はパウロを助けたいと思いそれを止めました。ローマでは囚人に逃げられればその囚人の罪を護衛した兵士が負わなくてはならなかったからです。百人隊長ユリウスは泳げる者を先ず飛び込ませ陸に揚げました。残りの者には板切れや乗組員に捕まって泳いでいくように命じました。ローマの人たちは海辺に育った人を除きほとんど泳げなかったからです。このようにして百人隊長の適切な指揮の下で、難破船に残されていた人々は全員助かりました。 パウロのカイサリアからローマへの船での旅は、クレタ島を過ぎてから暴風『エウラキロン』に船が巻き込まれ、船は難破、漂流をし始めました。パウロは船の人たちに『神が総ての者をパウロに任された』ことを証しし、人々を励ましました。14日目になり船は陸地に乗り上げ、兵士たちは囚人が逃れるのを恐れて殺そうとしましたが百人隊長が止めました。彼の指揮の下で全員が助かりました。 ユダヤ総督フェストゥスはパウロがローマ法では無罪であると思いながらも、パウロが皇帝に上訴したので、彼の身柄を皇帝直属部隊の百人隊長ユリウスに引き渡しました。パウロが皇帝に上訴する権利を行使した時点で、彼の身柄は皇帝の支配下に移されたからです。パウロは百人隊長に好意を持って受け入れられました。百人隊長はパウロに最大限の便宜を図りました。彼はパレスチナを離れる日にシドンでパウロの友人たちが自宅でパウロの送別会を開くのも許しました。さらにパウロにはアリスタルコが同伴することも認められました。アリスタルコはパウロの奴隷として同乗を許されたのでしょう。クレタ島の『良い港』までは航海は順調でしたが、クレタ島を過ぎてから暴風『エウラキロン』に船は巻き込まれ、難破し、漂流し始めました。暴風の中で食事も喉を通らす恐怖におののいていた人々に対して、パウロは主が彼に『神は総ての者をパウロに任せられた』と言われたことを証ししました。ローマ時代にはコンパスはなく、航海は海上から山並みを見て位置を知り、太陽や星を見て方角を定めました。陸から離れ、太陽も星も見えなくなれば船の流されている方角すら分かりません。帆も一枚帆で自由が効きませんでした。両側から突き出た水かきで舵を取っていました。船自体の大きさは長さ40mくらいで幅が10mくらいありましたが、強い風が吹けばたちまち航行不能となりました。嵐に遭えば帆を下ろし荷物を投げ捨てて身軽になり漂流するしか方法はありませんでした。荒れ狂う嵐の中で人々は疲労困憊し、前途の希望を見失っていました。その人々たちにパウロは主が総てをパウロに委ねられたことを証ししたのです。人々は漂流している船の中で不運を嘆きオリンポスの神々に祈りを捧げることしかできかったのですが、パウロは主が必ずローマへの道を開いてくださることを確信し、嵐の中でも平安な心でいられました。 14日目の夜に暗礁に乗り上げたので、船員たちは自分たちだけでも助かろうとして小舟で逃げようとしましたが、百人隊長はそれを察知し小舟を切り離しました。パウロは陸が近いことを知り、取りあえず全員に食事を取ることを勧めました。パウロはパンを主に感謝して裂き、全員で食べ始めました。船の上の人々もお腹が満たされ、漂流が終わりに近づいたことを悟り、元気を回復しました。 朝になって見えてきた入り江に向かい船を進めましたが、座礁し、船が壊れそうになりました。兵士たちは囚人たちが泳いで逃げ出すのを恐れ、殺そうとしました。囚人に逃亡されれば厳罰が待っていたからです。百人隊長はパウロを助けようとして兵士たちを止めました。百人隊長は先ず泳げる者を先に陸に上がらせ、残りの者は板きれや船の乗組員に掴まったりして全員が無事上陸しました。百人隊長には皇帝に上訴したパウロをローマまで無事に護送する任務が与えられていましたが、それ以上にパウロに対する個人的な好意を感じられます。人間にはその人が放つオーラのようなものがありますが、信仰に生きるパウロが放つ強烈なオーラは百人隊長を理屈抜きに虜にしたに違いありません。百人隊長は戦場では最前線で兵を指揮します。彼は本能的に人間の軍人としての素質を感じ取ることができました。彼は主のために働く戦士、いかなる艱難・試練にも耐え抜いてきたパウロに信仰を越えて一人の軍人として尊敬を抱いたのかも知れません。パウロが放つキリストの香りは異教徒のローマ軍人をも魅了したに違いありません。 パウロはエーゲ海沿岸で彼の果たすべき任務を果たし終え、ローマへ旅立ちました。パウロは主が彼に使命を与えられた以上、主が使命を果たさせて下さることを確信していました。エルサレムからローマへの道は何度も絶たれようとしましたが、パウロはそのたびに主に励まされ、新しい道を切り開いてきました。彼の最後に切ったカードが皇帝に対する上訴です。皇帝に対して上訴したローマ市民は総督が速やかにローマまで護送しなければなりませんでした。パウロの護送を命じられた百人隊長にはパウロを安全確実にローマへ護送する義務がありましたが、彼らの間には義務以上の友情に似たものが芽生えたようです。パウロのカリスマ、神の賜物の意味ですが、その圧倒的な存在感が異教徒のローマ軍人の心を捉えたのでしょう。パウロが放つキリストの香りは彼のエーゲ海沿岸での伝道でも大きな働きをしました。漂流していた船の上でも、囚人が逃げ出すのにおびえた兵士が囚人を殺そうとした時にも、百人隊長に正常な判断を下させました。14日間漂流した船の上にいた200人を超す人々の心を絶望が支配していたでしょうが、パウロの心は主にある平安で満たされていました。パウロの伝道の旅は彼の持つカリスマに負うところが多かったに違いありませんが、パウロが開拓伝道した地には必ず教会が建てられました。開拓伝道は一人のカリスマの力によってできますが、教会を立て続けさす力は一人一人の教会員の信仰の力なのです。 私たちは「伝道、伝道」と簡単に言う傾向がありますが、教会が主の教会として相応しい教会であるか、どうかが先ず問われているのです。一人一人の信徒が喜びを持って集える教会であるか、否かが問われているのです。瀬戸キリスト教会では信徒が喜びを持って集う場、疲れた心が癒される場を提供していると思います。主に生かされている喜びをお互いに分け合うことができています。その点では瀬戸キリスト教会は誇りを持っても良い教会であると思います。教会は信徒の数が多いから良いというわけではありませんし、少ないからと言って卑下する必要もありません。主の御言葉が生きて働いている教会、主の御言葉に耳を傾ける信徒が集う教会は、いかに小さくても、主に連なる枝である教会なのです。 しかし、主の生ける御言葉に反応しなくなった教会は死んだ教会です。主が種まきの喩えで、『茨の中に蒔かれたものとは御言葉を聞くが世の心遣いと富の惑わしとが御言葉を塞ぐので実を結ばなくなる人たちのことである』と言われました。私たちの教会もいつ茨が生える地になるかも知れません。御言葉を聞き、理解し、批判ができるからと言って御言葉が身につかなければ御言葉は空しいものでしかありませんし、それらの能力が落ちるからと言って卑下する必要もありません。御言葉は理性で聞くものではなく、感性で聞くものだからです。教会を成り立たせるのは『信仰のみ』です。教会が経済的に豊かであるか否かは問題ではありません。豊かな地に蒔かれた種は、『百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである』と主は言われたからです。瀬戸キリスト教会では2005年度に3人の受洗者が与えられました。2006年度は瀬戸の地の伝道に集中し、瀬戸の地に立ち続ける教会としての基礎を固めたいと思います。10年前はこの会堂が広いと感じられましたが、今では狭く感じられる時もあります。会堂建築が必要になるのもそう遠くない未来かも知れません。その準備も必要なのかも知れません。

3 Comments:

Anonymous 匿名 said...

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Anonymous 匿名 said...

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Anonymous 匿名 said...

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