2006/05/04

06/04/23 ローマに着いた T 

ローマに着いた2006/4/23
使徒言行録28:1_10
 富山県射水市の市民病院で外科部長が入院患者の延命措置を中止した事件がありました。院長は外科部長が安楽死をさせたと言いますが、外科部長は延命治療の中止だと反論しています。安楽死は積極的に患者を死に至らしめるものですが、延命治療の中止は治療を中断し、死にいたらしめる消極的な手段です。延命治療の中止でも判例では複数の医師で治療中止の判断をしたか、患者あるいは家族の意思表示があったか、 脳死に近い終末期であったかが条件とされています。安楽死は日本では原則として認められず、耐え難い苦痛に苦しんでいる、死が避けられず死期が迫っている、肉体的苦痛を除くために手段を尽くした、安楽死を望む患者の明確な意思表示がある場合にのみ認めらると言う判例があります。 今回の事件は終末医療に光を当てました。自宅で最後を迎える人たちが多かった時代には終末医療はそれほど大きな問題になりませんでしたが、病院で最後を迎える人が圧倒的に多くなってきた現代では終末医療をどの時点で終えるかの明確な基準がないのです。人の生をどの時点で終えるか、明確な指針がないのです。個々の医者の判断に終末医療が委ねられているのです。医者によって患者の最期を看取る基準は異なります。医者にとって最も非難を受けない方法は、スパゲッティ症候群と言われるそうですが、患者に人工呼吸器を付け、体中にチューブを取り付けて生かし続ける方法です。それに対して尊厳死を主張する人々も出てきました。人間としての尊厳を保ちながら死ぬことは、現在の日本の医療制度では非常に難しく、予めリビングウィル、明確な遺言を残しておく必要があります。 人は必ず老い、死にます。人間の寿命には限りがあります。おそらく現在の日本の平均寿命、女性85歳、男性80歳ぐらいが人間としての生物学的な限界なのでしょう。もちろん100歳でも元気な人もいますが、115歳を超す人はほとんどいません。もちろん平均寿命まで生きられない人もいます。これは自然の摂理なのですから、私たちも寿命の尽きる時に備えて人生を生きることが必要なのです。人生において次の瞬間に何が起きるかは全く予想ができません。突然の事故や発作で生命を奪われる人もいます。例え生命を長らえても、人の肉体は必ず老い、脳も老います。望まぬ老後を送らざるを得なくなる人もいます。しかし、主を仰ぎ見て人生を送ることが必要なのです。例え目がかすみ、耳が遠くなったとてしても、主を賛美することはできます。例え御言葉を聞き取ることができなくなったとしても、礼拝の中で生ける聖霊の交わりの中に入ることが主を賛美・礼拝することになるのです。私たちも年を重ねれば体が不自由になり、主を忘れ去る時が来るかも知れません。私たちの誰にも礼拝に集えなくなり、主を忘れ去る時が来る可能性はありますが、主は私たちを忘れ去ることはありません。人が老いることはそれだけ神の国に近づくことを意味するのかも知れません。私たちはキリストの誕生・昇天により神の国はすでに来たが、終わりの日は未だ到来しない世界を生きています。肉体が滅びても、終わりの日に神の国に移されるのです。 パウロたちはクレタ島の南の沖合で遭難し、エーゲ海を西に漂流し、地中海に入り、イタリア半島の南にあるマルタ島に漂着しました。島の住民はギリシア語を話さない人々、バルバロイと聖書には書かれていますが、アフリカとローマの間にあるマルタ島の住民はギリシア語を理解する能力はあったと思えます。彼らはパウロたちに非常に親切にしてくれ、たき火をたいてもてなしてくれました。パウロが枯れ枝を集めて火にくべた時、1匹の蝮がパウロの手に噛みつきました。島の人々はパウロが人殺しの罪人であり『正義の女神』がパウロを生かしておかないのだ言い合いましたが、パウロは何の害も受けませんでした。住民はパウロを『神様だ』と言い合いましたが、住民の信じいたのはこの世の神々です。パウロたちを島の長官プブリウスが歓迎してくれ、3日間手厚くもてなしてくれました。その時プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていましたので、パウロは父親の家に行って祈りをし、手を置いて癒しました。島の他の病人たちもやってきて癒してもらいました。おそらくパウロに同行していた医師ルカが島の人たちを治療したというのが実情ではなかったかと思われます。現代でも盛んに行われている医療伝道の先駆けとも考えられます。島の人々はパウロ一行を非常に尊敬しました。パウロ一行の船出の時には必要な物を色々と持ってきてくれました。 パウロたちはマルタ島で3ヶ月間、冬を過ごした後でエジプトから小麦をローマへ輸送するアレキサンドリアの船に乗ってマルタ島を出航しました。ギリシア神話に出てくる双子の神ディオスクロイの彫刻が船首に掲げられた船でした。マルタ島から北上し、シシリー島の東岸シラクサに立ち寄りました。3日間そこに滞在し、それから海岸沿いに北上し、イタリア半島の南端、靴の爪先にあたるレギオンに着きました。そこから南風が吹いてきたのでに風に乗り北上し、2日間でプテオリに入港しました。プテオリはローマの南方にある港町です。プテオリからアッピア街道を200km北上すればローマに至ります。パウロの足ならば5日間の行程にすぎませんが、パウロたちはプテオリの信徒たちに歓迎され、7日間プテオリに滞在しました。プテオリから連絡を受けたローマの信徒たちは代表をローマから65km離れた宿場アピイフォルム、49km離れた宿場トレス・タベルネまで派遣し、パウロを出迎えました。『出迎える』という言葉は市の代表が征服者を迎える時に使われる言葉ですので、ローマの信徒はパウロをローマからギリシアの神々を追放し、神の国にする征服者として期待を込めて迎えました。パウロのカイサリアからローマへの旅はパウロ一行が乗船した船がクレタ島沖で難破・漂流し、マルタ島に漂着するという事故に遭いましたが、パウロ一行は奇跡的に救われました。パウロのローマ上京は生ける主がなした奇跡です。パウロはローマから迎えに来たローマの信徒たちを見て大いに勇気づけられました。 ローマに入ってもパウロにはローマより番兵が一人付けられただけでした。ローマ市民として皇帝に上訴したパウロは法的には罪人ではありません。パウロの手首には鎖が付けられていましたが、兵営の外にある普通の民家を借りて生活をすることが許されていました。パウロの行動は誰からも束縛されることはなく自由に振る舞えました。パウロの家には信徒たちが自由に出入りできました。パウロは彼を訪問する者を歓迎し、神の国を宣べ伝え、行ける主を証しし続けました。 パウロはローマの信徒たちからあたかも征服者を出迎える市民のような歓迎を受けました。主の福音は既にローマにまで届いていたのです。世界の首都ローマから高速道路にも匹敵する石畳で舗装された街道が帝国内の隅々にまで張り巡らされていました。情報は瞬く間に帝国内に行き渡りました。教会のネットワークもエルサレムからギリシア世界、首都ローマにまで張り巡らされていたのです。パウロの伝道の旅はエルサレムから始まり、小アジア半島、ギリシアを経てついにローマにまで達したのです。主が命じられた世界宣教命令『総ての民を私の弟子としなさい』はパウロがローマに上京したことで大きく前進したのです。パウロの時代にはキリスト教はローマ当局からはユダヤ教ナザレ派だと理解されていました。ユダヤ教はローマから公認されており、キリスト教は後世のように迫害の対象にはなっていませんでした。おそらく、信徒たちはローマの人々とは違う慣習の中に生きていましたから、教会を中心にした小さな共同体の中で生活していたと思われます。帝国内の諸教会は地域社会の中では孤立していたかも知れませんが、教会のネットワークを通じて支え合っていました。パウロの書いた書簡や、パウロの名を付けた書簡が聖書に残っていろことを見れば、教会間の交わりは極めて密であったと思われます。パウロが世界の首都ローマへ上京することはローマ帝国内に散らばったいた諸教会の多くの信徒たちが心待ちしていました。 パウロは帝国内の情報が集まり、帝国内から多くの旅人が集まるローマで活動の拠点を得ることができました。パウロはパウロ自身が借りた借家で自由に伝道をすることができました。福音は世界の首都ローマにパウロがいることでさらなる前進を遂げました。教会のネットワークの中心にパウロが座ることで、世界伝道の道が広がったのです。当時のローマはパクス・ロマーナ、ローマの平和と呼ばれる時代で、ローマ帝国は極めて安定していました。後世「総ての道はローマに通じる」と言われたように、ローマを中心とした帝国内の人や物の流れは極めてスムーズに行われていました。ローマとアフリカのアレキサンドリアが帝国内の物流の拠点でした。ユダヤ人が早くから移り住み、ユダヤ人の共同体が発達していました。教会もペンテコステからそう遠くない時期に形成されていたのではないかと思われます。エーゲ海沿岸と地中海を挟んだ対岸のアレキサンドリア、そしてローマと教会のネットワークは帝国内に張り巡らされていきました。教会の勢力は微々たるものでしたが、ネットワークは大きな広がりを持っていました。パウロの時代は教会が面的な広がりを持つことに力を注いでいたときでした。ローマ世界が安定し、帝国内の隅々まで人の行き来のある時代は、教会の開拓伝道には最も相応しい時代でした。伝説ではパウロは現在のスペインまで伝道の旅をしたと伝えられていますが、それが決して不可能ではない時代でした。主の教会の形成のためにも『時が満ちた』のです。歴史は単に偶然の積み重ねではなく、神の必然の積み重ねなのです。主がこの世に来られたのは『時が満ちた』からです。教会がエルサレムからローマ帝国内に散らばったのも『時が満ちた』からです。パウロの時代の後にエルサレムはローマに滅し尽くされます。ユダヤ人は『流浪の民』難民になってしまいました。エルサレムの最後が教会の事実上の始まりなのです。歴史の主は人の歴史を用いられ、教会の歴史をつくられたのです。 パウロはダマスコで復活の主に出会い、暗黒の世界の中で3日間黙想し、彼は悔い改めました。それからアラビアに一時退いて充電期間を持ちました。パウロは彼を捜しに来たバルナバと共に小アジア半島の付け根にあるアンティオキアに出てきました。アンティオキアからパウロの伝道の旅は始まりました。パウロはパレスチナからエーゲ海沿岸地域、エルサレムから小アジア半島を経てギリシアに至る地域で3回にわたる伝道旅行を行いました。パウロは小アジア半島、エーゲ海沿岸地域に異邦人教会を建て続けました。さらにパウロはローマへの最後の旅を成し遂げました。パウロの伝道の旅は離散のユダヤ人社会と激しい摩擦を生みました。ユダヤ人はパウロを『主の名を汚す者』異端者と決めつけ、激しく迫害しました。パウロの目はユダヤ人から異邦人へ向けられました。パウロは宗教に寛容であったローマ世界の中に教会を建てる道を選びました。パウロの時代にはローマの平和が確立されていました。ローマ帝国内にはハイウェー、街道が網の目のように張り巡らされ、情報網が整備されていました。パウロは教会のネットワークを造り上げ、ローマ世界における主の教会の基礎を造り上げました。パウロのローマ到着は教会のネットワークの頂点に彼が着くことを意味しました。 イエス様の誕生、伝道の旅、十字架での死、3日目の甦り、昇天、聖霊降臨、教会の誕生、ヨーロッパ伝道は生ける主が歴史の主であることを私たちに明らかにしてくれます。現代の私たちが歴史を振り返るときに、まさしくあの時代、ローマの平和が確立されていた時代でなければ教会はこの世に存在し続けることはできなかったと思われます。パウロの異邦人伝道、教会のネットワークが確立されていなければ教会はエルサレム陥落と共に地上から消え去っていました。 私たちは教会の歴史の中で生きています。主が誕生なされた日に神の国は到来しました。主が再臨なさる日に神の国は完成するのです。歴史には始まりがあり、終わりがあるのです。歴史は単なる偶然の積み重ねではないのです。生ける主が歴史を支配なされているのです。人間の偶然は神の必然なのです。自然科学は確率論の世界です。コインの裏表が出る確立は1/2なのです。サイコロの目が出る確立は1/6なのです。カエサル・シーザーはルビコン川を渡るときに『賽は投げられた』サイコロは振られたと言いました。もしシーザーがルビコン川を渡らなければローマ帝国は成立しませんでした。一人の英雄の決断が歴史を変えたのです。歴史に『もし』はないと言いますが、歴史の主が歴史を動かすからです。 瀬戸キリスト教会も歴史の大きな流れの中に立っているのです。瀬戸の地に教会を建てたのは人間の力であったかも知れませんが、主は人間の力を用いられて歴史をつくられるのです。教会の歴史、日本の伝道にとって瀬戸の地に教会が必要であったからです。逆に言えば教会が使命を果たせば歴史から消え去ります。私たちには偉大な英雄だけが目に付きますが、歴史を造り上げるのは名もない人たちなのです。使徒パウロは偉大な伝道者でしたが、教会のネットワークを支え続けたのは名もない信徒たちなのです。歴史の彼方に消え去った多くの教会、多くの信徒たちが主の福音を現代まで伝え続けてきたのです。私たちの小さな営みも歴史に必要な営みなのです。私たちも私たちの信仰生活のみを考えるのではなく、主の福音を次の世代に伝え続けることを考え続けなくてはならないのです。

3 Comments:

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Anonymous 匿名 said...

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