2006/05/04

06/04/30 何の妨げもなく神の国を宣べ伝えた T 

何の妨げもなく神の国を宣べ伝えた
2006/4/30
使徒言行録28:17_31
 チェルノブイリ原子力発電所の炉心溶融事故、チャイナシンドロームから20年が経ちました。チェルノブイリ原子力発電所の炉心溶融事故の情報は当時のゴルバチョフ書記長の下にすら届いていなかったようです。事故対策は後手後手に回り、文字通り決死隊が原子力発電所の消火に向かいましたが、炉心が溶融した原子力発電所からはすでに大量の放射能が大気中にばらまかれました。原子力発電所は炉心が溶融し始めればそれを消し止める手段はありません。残された手段はただ炉心をコンクリートで覆うだけですが、工事関係者は大量の放射能を浴びてしまいました。当時の旧ソ連では原子力発電所の破壊力、放射能の恐ろしさは理解されていませんでした。ウォッカを飲めばアルコールが放射能を洗い流してくれるいうデモが飛び交い、ウォッカが売り切れたという笑えない話が伝えられています。先ず初期消火に当たって人たちが放射能被爆で急性の原爆症に罹り亡くなられました。次に事態の深刻さを理解できなかった周辺の住民が慢性の原爆症に罹りました。特に子供たちの多くに甲状腺ガンが見られます。被爆後20年を経つ頃からガンの発病率が急激に高まると思われますので、この事故の被害者の総計は推定すら不可能であるそうですが、私たちの常識を越える値であることは間違いありません。現在も京都府ぐらいの広さの土地が立ち入り禁止になっているそうです。現在は巨大な石の棺、鉄板で覆いコンクリートで固めた要塞が炉心を覆っているそうですが、老朽化が進み放射能の漏出も止まらないそうです。 チェルノブイリ原子力発電所の炉心溶融事故で大気圏にばらまかれた死の灰はヨーロッパを襲いました。ヨーロッパは一時パニックに陥りました。直接の死傷者は出ませんでしたが、長期的な放射能による健康被害は否定できません。ヨーロッパはこの事故を機会に、原子力発電所に依存していたエネルギー政策の舵を自然エネルギーに切り換えました。世界は原子力発電所の事故がいかに膨大な被害を引き起こすかを目の当たりにして、原子力発電所の管理に対し厳しい目を向けるようになりました。情報を公開し、原子力発電所の持つ危険性を共有する中で新しい原子力利用の国際協力体制が築かれようとしていますが、各国の思惑が絡み合い、前に進まないのが現状です。日本は電力の40%くらいは原子力発電所から得ていますが、原子力発電所の事故が後を絶ちません。原子力発電所で炉心溶融が起きれば日本は生命を絶たれますが、電力会社のそれに対する危機感が薄いようです。日本の経営者の姿勢に「安全性は絶対で、経済性を問わない」が見られないのが、最近あちこちで起きる企業事故で明らかにされています。地球温暖化、環境破壊、化石資源、特に石油の枯渇を考えれば、原子力の平和利用も一つの選択肢ですが、先立つのは安全性です。原子力は使い方を誤れば日本だけではなく世界を破滅に導きます。原子力の利用は経済性だけで論議されてはいけないのです。先ず安全性を何処までも追求する姿勢がなければ、原子力を平和利用する資格は人類にはないのです。オール・オア・ナッシングの世界だからです。 ローマに上京したパウロは主立ったユダヤ人を彼の家に招きました。パウロは先ず『私は民に対しても先祖の慣習に対しても背くようなことは何一つしなかった』と弁明しました。パウロはユダヤ人には『主の名を汚す者』、ユダヤ古来の慣習の破壊者、割礼、律法、神殿参りなどの否定者として知られていました。パウロはユダヤ人の敵意に対し、先ず身の潔白を証ししたのです。エルサレムでローマ人の手に渡されたこと、死刑に相当する理由がなかったこと、ユダヤ人からの反対があったので皇帝に上訴せざるを得なかったことを弁明しました。パウロはユダヤ人なのにローマの市民権を行使したのは、決してユダヤ人同胞を告発するためではなかったことを弁明しました。パウロがローマの市民権を行使したことはパウロの思いがどうであれ、パウロとユダヤ人との間に越えがたい壁をつくりました。ユダヤ人はローマ世界の中にあっても特異の存在でした。彼らはローマ法ではなく律法に従い生活をしていました。パウロが律法よりもローマ法を優先したことは、ユダヤ人にはパウロがユダヤ人同胞を裏切りローマ世界を選び取った人間としか考えられなかったのです。ローマのユダヤ人はパウロについての具体的な情報を得ていなかったようですが、ユダヤ教ナザレ派として知られる教会については至る所で反対があることは知っていました。ユダヤ人は日を決めてパウロの自宅に集まり、パウロの話を聞きました。パウロは朝から晩まで神の国について力強く証ししました。モーセの律法や預言書を引用し、ユダヤ人を目覚めさせようと努力しましたが、ある者は受け入れ、ある者は信じようとはしませんでした。ユダヤ人は互いに論じ合いましたが意見が一致せず立ち去ろうとしました。パウロはユダヤ人の姿を見ながら、預言者イザヤは実に正しくあなた方の祖先に語った。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない』と。パウロはユダヤ人たちに神の国について十分に証ししたのですが、彼らの心は閉ざされたままでした。神の国に対して心が開かれていない者に福音を語る空しさをパウロは悟らされました。パウロは神の救いがユダヤ人から異邦人に向けられ、異邦人こそ福音に聞き従うことを確信しました。 パウロはローマで皇帝の裁きを受けるのを待つ間、兵営の外に借りた家に丸2年間住みました。保釈中であるパウロは逃亡を防ぐために手を鎖で繋がれていましたが、人々は自由に出入りすることができました。ローマ市民であるパウロはローマ世界では全く自由に過ごすことができました。パウロを訪問する人たちは彼から歓迎されました。パウロは思い切って大胆に神の国を彼らに宣べ伝えることができました。パウロは彼の元を訪れる人々に主イエス・キリストについて教え続けました。パウロはユダヤ人の救いを最後まで望んでいましたが、ユダヤ人が神の国に心を開かなかったのです。福音はそれを信じる者には生きる力を与えますが、それを信じない者にとってはただの絵空事でしかありません。ユダヤ人の神から選ばれた特別な民、選民という意識が主の福音から彼らの耳を塞ぎ、目を覆ってしまったのです。真理から目を反らしたユダヤ人は紀元70年にエルサレムが陥落し、流浪の民、祖国を失った民として2000年間を過ごさざるを得ませんでした。選民としてローマ世界に同化することをあくまでも拒んだユダヤは滅び、ローマ世界の中で生きる決断をした教会は2000年間立ち続けたのです。 パウロはユダヤ人から離れ異邦人伝道に一生を捧げましたが、ユダヤ人である彼の心はユダヤ人同胞が救われることを誰よりも望んでいました。パウロはエルサレムでユダヤ人からリンチを受ける寸前にローマ兵に救われたのにも拘わらず、ローマへ上京しても、相も変わらずユダヤ人に主の福音を証しし続けようとしました。ローマにはパウロが上京するよりもかなり以前から主の教会が形成されていたと思われます。ローマのユダヤ人は教会、ユダヤ教ナザレ派が各地で離散のユダヤ人との間に問題を起こしていることを知っていました。ユダヤ人がパウロの上京について全く情報を持っていなかったとは考えにくく、手ぐすねを引いてパウロの上京を待ち望んでいたと思われますが、ローマではローマ市民であるパウロに対しユダヤ社会は無力でした。パウロがユダヤ人を日を決めて招いたことは、ユダヤ人とパウロとの間で神学論争が公開の場で行われたと考えられます。パウロはユダヤ人との神学論争では彼らとの共通の基盤であるモーセの律法や預言書を元にして激しく論争を挑んだと思われます。パウロはキリスト教独自の概念である『十字架での死と甦り』、『聖霊降臨』について論じるのではなく、先ず共に聖書を信じるユダヤ人に、旧約聖書のことですが、聖書を通して『イエスは主である』ことを証ししようとしたのです。パウロは先ずファリサイ派のラビであった時に戻り、ユダヤ人と聖書を通じて論じ合いました。パウロは聖書が証しする救い主、イザヤ書で預言されている苦難の僕、救い主はナザレのイエスであることを証ししようとしましたが、ユダヤ人はある者は受け入れ、ある者は信じようとはしませんでした。パウロはユダヤ人に対し預言者イザヤの預言『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない』を投げつけました。神様から選ばれた特別な民、選民である意識から逃れられないユダヤ人は『イエスは主である』、真理を目の前にしながらもそれを受け入れることを拒否したのです。結局ユダヤ人は『私は彼らを癒さない』という預言通り、主から見捨て去られてしまったのです。生ける主の福音は救いを激しく求める異邦人にのみ伝わり、現状に満足しきったユダヤ人には伝わらなかったのです。 パウロはローマに上京してもユダヤ人社会に先ず福音を宣べ伝えようとしましたが、ユダヤ人はそれを拒否したので、パウロの目は異邦人へ向けられました。パウロのローマで過ごした丸2年間という年月は、パウロにとっても貴重な2年間でした。パウロは自宅へ異邦人を招き主の福音を宣べ伝えました。パウロは思いきって大胆に主の福音を宣べ伝えました。ローマ市民であるパウロの福音伝道を妨げられる者はいません。むしろパウロを警備した皇帝の親衛隊の兵の中から、パウロをローマまで護衛してきた百人隊長のように、パウロから強い影響を受ける者が出てきたかも知れません。パウロはローマ市民として自由に主の福音を証しし続けることができました。教会もローマ世界の中で生きることを選び取りました。エルサレム陥落を教会が予想していたのではありませんが、帝国の中に教会が散らばっていたので教会は生き延びることができました。パウロの時代の直後、紀元70年のエルサレム陥落で神殿を中心にしていたユダヤ教保守派は壊滅しました。ユダヤ人は流浪の民、難民として祖国を失った苦難の歴史を2000年間歩み続けなくてはなりませんでした。教会の歴史とは反対の道を歩んだのです。 パウロはユダヤ人に向かい『聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない』と言いましたが、これは公正な言い方ではありません。パウロ自身に保守的なファリサイ派のラビとして教会を迫害し続けた過去があるからです。ユダヤ人は生まれついたときから、厳しい宗教教育を受けて育ちます。彼らにとって唯一の主ヤーウェ以外の神はあり得ず、唯一の主はユダヤ人だけの主であったからです。律法は唯一の主とユダヤ人との間に交わされた契約です。ユダヤ人が律法を守るから唯一の主はユダヤ人を特別に選ばれた民、選民として救われるのです。ですから、ユダヤ人の心には子供の頃からユダヤ人としての慣習が刷り込まれているので、それ以外の情報に反応できなくなっているのです。パウロでさえもダマスコ途上で復活の主に出会いながらも、悔い改めるには3日3晩暗黒の中で黙想しなければなりませんでした。況んや、普通のユダヤ人の『心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じていた』のは当然でありました。人は幼児体験として刷り込まれた情報からは解放され難いのです。パウロはユダヤ人の頑なさをローマでも知らされました。パウロがユダヤ人を相手に神学論争を挑んだのは彼らに悔い改めのための最後の機会を与えたかったからです。パウロは「ユダヤ人としての義務は果たした。後は彼ら自身の問題である」そう割り切りました。 開拓伝道は一言で言えば、幼児体験としてキリスト教とは異なる情報、価値観を刷り込まれた人々に、全く新しい情報を提供することです。人が過去を捨てきるのは非常に難しいことです。悔い改めは自分が生きてきた道程を一度否定し、その向こうに新しい生を創造することを意味します。洗礼は水に浸かることで一度死に、水から再び立ち上がることで甦えりを象徴的に表したものです。パウロは『古いものは過ぎ去った、見よ、総てが新しくなったのである』と表現しますが、『外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく』のが信仰の世界です。そのためには私たちは常識に囚われない柔軟な心を持たなくてはなりません。イエス様が『幼子のように』と言われたのは、子供は全く新しい概念も抵抗なく受け入れることのできる柔軟な頭を持っているからです。私たちは常識の世界の中に生きてきました。常識の世界、現代科学が支配している世界では『処女降誕』、『復活』、『聖霊降臨』はあり得ないことですが、信仰の世界ではあり得ることなのです。オカルトの世界は言外ですが、現代科学も私たちの生きている世界の一部を説明しただけなのです。私たちの身近な現象、例えば宇宙の誕生、生命の誕生、生命の進化は現代科学でも説明しきれていませんが、子供の頃受けた学校教育の中で分かったように思わされているだけです。その様な常識の世界に切り込むのが信仰です。私たちが常識の世界の中だけで生きているのならば、ユダヤ人が慣習の世界の中だけで生きてきたのと大差ありません。私たちもユダヤ人同様『聞くには聞くが理解せず、見るには見るが認めない』世界の中で生きているにすぎないからです。私たちは『激しく求めなさい』と言われているのです。私たちは『心を激しく揺り動かさ』なくてはならないのです。『常識の壁を突き破ら』なくてはならないのです。『心の扉を内側から開けた』人が生ける主と出会うことができるのです。主はいつも心の扉の外からノックされています。主と出会うことができるか否かは、人間が心の扉を開くか否かで決まるのです。