2006/05/19

06/05/21 恵みを受けて使徒とされた T 

恵みを受けて使徒とされた
2006/5/21
ローマの信徒への手紙1:1_7
 兵庫県内の公立小学校に通っている小学生が、心と体の性とが一致しない「性同一性障害」と診断され女子生徒として通学しているそうです。戸籍上は男子のこの生徒を小学校では女子と見なして出席簿を作成し、身体測定も女子と共に行い、水泳も女児の水着で参加させ、女子トイレも利用させているそうです。この男児は幼児期からぬいぐるみやスカートが好きで、男の子として生活することに苦痛を感じていたそうです。この男児は小学校入学前に大阪府内の病院で性同一性障害と診断され、医師からは「女の子と認めていく方向が望ましい」とアドバイスを受けたと言います。教育委員会は医師のアドバイスに従いこの男児を女児として入学させることを決定したそうです。小学校入学以前の子供の性意識は固定されたものではなく、変わりうるものではないかと思われます。自らの性をどう認識するかは思春期を過ぎてから確定されるものです。思春期以前の性に対する意識は環境の影響に左右されるところが大きいのではないかと思えます。
 ある報告では「6歳前後の男児約70人を追跡調査した結果、成長しても女性と思い続けたのは1人だけで、残りは「男性」に戻った」そうです。ある女性哲学者は「女は女として生まれるのではなく、女として育てられる」と言いましたが、生物学的に言えば、男性の脳と女性の脳との間には機能的に差が見られるそうですが、違いが明らかになるのは第二次性徴が現れる思春期を過ぎてからだそうです。児童に生物学的、精神学的な性別があっても、その違いはわずかで、思春期以前に置かれた環境によって作り替えられる可能性は十分にあります。思春期以前の性認識を医師の判断で固定化すれば、この子供には性転換手術を受け、戸籍上の姓を変える道しか残されないことになります。私たち大人の本人の意志を無視した配慮で、児童の全生涯を文字通り左右して良いのか疑問に思います。
 2004年に施行された特例法では「性別適合手術を受けた独身の成人について、子どもがいないなどの条件を満たせば、戸籍上の性別を変更できるようになった」のであり、成人が自らの意志で性転換手術を受け、自らの責任で肉体的性とは異なる性で生きる道を選択する自由が保障されたに過ぎません。裁判所で本人の意志と、医学的見地とを確認、審査し、戸籍を新しく作成することができるのです。まだ小学校進学以前の子供の意志は法的には無効ですし、倫理上も問題があります。生物学的には肉体の性はY遺伝子があるかないかで決まりますが、一次性徴、二次性徴が必ずしも生物学的な性と一致しない場合は少なくありません。スポーツ界でセックスチェックが厳しく施行されたときに、女性の有名なメダリストたちが男性だと分かって物議を醸したことがあったぐらいです。同性愛者、ホモセクシャルの市民権を認めるのが世界的な流れですが、それはあくまでも自分の意志でホモセクシャルな世界に生きる権利を認めることであり、児童の性を勝手に決めて良いというわけではありません。肉体な性別は遺伝子チャックで明らかにできますが、精神的な性別は心理学的にはまだ未知な領域に属するからです。
 パウロは自らをキリスト・イエスの僕、奴隷であると自己紹介をしています。パウロにとって主人はキリストのみであったからです。キリスト者にとって主の僕は最高の称号、名誉であったそうです。イスラエルの預言者モーセ、ヨシュアが主の僕と言い表したように、パウロもまた預言者の一人としてローマの信徒へこの手紙を送ると宣言しているのです。さらに福音伝道のために生ける主によって選び分かたれたことを証しているのです。パウロは生まれる前から主の選びの中にあり、キリスト者を迫害したのも、ダマスコ途上で復活の主に出会い悔い改めたのも、主の定められた道であることを証ししているのです。パウロは主に召されて使徒となり、異邦人伝道を主から与えられた使命として果たしてきました。
 パウロが宣べ伝えてきた福音は、すでに聖書、旧約聖書ですが、その中で預言者を通して預言され、実現されきたことを証しするものでした。パウロは聖書が預言した救い主、メシアはナザレのイエスであることを証ししたのです。「神の御子、イエスは肉によればダビデ王の子孫としてこの世にお生まれになりました。ナザレ村の貧乏大工の小倅として生まれましたが、ダビデ王の血を確かに受け継いでいました。聖なる霊によれば、十字架で死なれた後、三日目に甦えられました。死者の中から復活された生ける主こそナザレのイエスなのです。私たちの主は生ける神の子として神様から全権を委ねられたのです。この生ける主こそが、私たちが総てをかけて信じている主イエス・キリストなのです」と証ししました。 パウロは生ける主イエス・キリストにより召し出され、主の御名を異邦人に宣べ伝えるために主に選び分かたれたと証ししたのです。パウロは世界の首都ローマにいる信徒たちを訪問するのを熱心に祈り求めていました。パウロがマケドニアで幻を見てヨーロッパに渡る決心をした時には、ローマへ行く計画をすでに胸に抱いていましたが、実行する機会がありませんでした。パウロがコリント教会にいた時、エルサレム教会への献金を携えてエルサレムに上京する折りに、ローマの信徒への手紙が書き記されました。パウロの元にはローマの状況が詳しく伝えられ、ローマから信徒も訪れていました。パウロがヨーロッパの教会とエルサレム教会との和解の使者を勤めようとしていた時に、この手紙は書かれたのです。
 パウロは異邦人のために選び分かたれたと自己紹介しましたが、この異邦人には単にパウロがこれまで伝道してきたエーゲ海周辺地域の教会だけではなく、ローマの教会の信徒も含まれているとパウロは証ししたのです。ローマは世界の首都です。「総ての道はローマに通じる」と言われたように、ローマからローマ帝国の国境地帯にある帝国の防御戦まで石畳で舗装されたハイウェーが網の目状に敷設されていました。パウロの時代はパクス・ロマーナ、ローマの平和が達成されていた時代でした。帝国内の人や物の流れは激しく、乗合馬車や郵便馬車も走っていました。パウロがローマに思いを馳せたのも、単なる憧れだけではなく、伝道の拠点を設置したいという戦略的な思いもありました。さらにパウロはエルサレム上京ではイエス様の死に倣い、殉教の死を覚悟していました。ローマの信徒への手紙はパウロ神学が結実したものであり、見方を変えれば彼の遺言と言えるかも知れません。パウロがまだ訪れたことのないローマの信徒へ出した手紙は単にローマの信徒ばかりではなく、帝国内の教会の信徒にも回し読みされました。
 パウロのローマの信徒への手紙の書き出しは、パウロ自身の自己紹介で始まっています。パウロが強調したかったのはパウロが主に選び分かたれた使徒であることです。当時の常識からすると、使徒は生前のイエス様から直接教えを受けた弟子に限り、生前のイエス様と出会った経験がないパウロには使徒としての資格がありませんでした。パウロはローマを訪問したことがないので自己紹介に最大限の配慮をしました。パウロは自己紹介を先ずキリスト・イエスの僕、奴隷であると宣言しています。パウロが主の奴隷であることは彼が主人である主に総てを献げ尽くすが、他のどの様な人に仕える意志も、義務もないことを明らかにしたものです。主の僕と言う表現は、偉大なイスラエルの預言者モーセやヨシュアも使っていますが、パウロが自らを預言者であると表明したことになるのです。パウロは奴隷という表現をむしろ誇りを持って使っています。彼の歩んできた道は総て主が彼のために用意なされ、彼自身が歩み抜くことを命じられた道なのです。
 次にパウロは福音のために選び分かたれたと表現しています。パウロにとって主からの選びは彼が生まれる前から始まっていたのです。パウロが生粋のユダヤ人でありながらローマの市民権を持ち、エルサレムでファリサイ派のラビ、ガマリエルの門下で学びラビとなり、大祭司の元で教会を迫害したのも主のご計画の中に入っていたと主張するのです。パウロがダマスコの教会を迫害しに行った途上で復活の主に出会い、悔い改め、主の教会のために働くように変えられたのも主のご計画なのです。パウロは主の世界宣教命令のために予め主に選び分かたれ、異邦人伝道を実現するために主が用意なされた器であると強調しているのです。
 パウロの主からの召しはパウロの思いを超えるものでした。パウロ自身はユダヤ人同胞の救いを切実に願っていましたが、ユダヤ人自身がそれを拒否しました。ユダヤ人には自分たちが唯一の主から選び分かたれた特別な民、選民という意識が強烈にありました。ユダヤ人がユダヤ人である徴がこの選民意識です。彼らの選民意識が彼らの目を覆ってしまったのです。聖書が証しする救い主、メシアが聖書の預言どおりに地上に現れた事実を、彼らは認めることができなかったのです。ユダヤ人は割礼と律法の遵守のみが救いに至る唯一の道であることを信じて疑いませんでした。ユダヤ人にはナザレ村の貧乏大工の小倅、田舎者のイエスが救い主メシアであることは想像すらできなかったのです。彼らが期待したのはユダヤをローマの支配から解放してくれる栄光のメシアでした。イエス様の弟子たちですらこの妄想からは解き放たれませんでした。イエス様の十字架での惨めな死、三日目の甦りはユダヤ人だけではなく弟子たちにも大きな躓きになったのです。この復活の事実の証人としてパウロは使徒とされたと証ししているのです。
 パウロの使徒としての信任状は彼自身にありました。パウロがダマスコ途上で復活の主と出会ったことは事実です。彼が異邦人伝道のために様々な試練と出会い、苦労し、それを乗り越えて伝道に励んだのも事実です。エーゲ海沿岸地域のあちこちに教会を建て、さらにヨーロッパに福音を持ち込み、ヨーロッパで最初の教会をフィリピに建てたのも彼の働きです。パウロは彼自身の歩んできた人生こそが彼が使徒である証拠であると主張しているのです。使徒パウロはまだ訪れたことのないローマの信徒たちに、福音の真理を書き残そうとしているのです。
 パウロはエルサレムに上京して主の十字架での死に倣い、殉教の死を遂げる覚悟でした。パウロにはパウロがこれまで説いてきたパウロの福音を形に残す必要がありました。パウロがこれまで関わってきた教会に宛てた手紙では個人に対する配慮が必要とされるので、パウロは敢えて訪れたこのとないローマの信徒へ手紙を書き送ったのです。パウロにはローマの信徒も主の教会に連なる同じ信徒でした。人や手紙がローマとパウロの元を頻繁に行き来していたので、パウロにはローマの信徒たちは身近な存在でした。パウロがこの世に書き残す遺言になるかも知れない手紙を託すのに、ローマの信徒は最適な人たちだと思えたのです。
 パウロの時代には主の兄弟ヤコブや主から教会を委ねられたペトロ、生前のイエス様から直接教えを受けた使徒たちがエルサレム教会を指導していました。エルサレム教会はユダヤの慣習を守りながら、イエス様の教えに従っていました。彼らはユダヤ人としての枠に縛られていました。彼らからすれば異邦人伝道だけではなく、ユダヤの慣習、割礼や律法からの自由を説くパウロは異端者に見えました。異邦人教会の指導者の一人であるパウロは、母教会であるエルサレム教会との和解を勧めるに当たり、福音による自由を書き残す必要に駆られたのです。
 福音による自由、割礼や律法からの自由はユダヤ人にとって理解しづらい教えでした。ユダヤ人ならば割礼を受けており、物心が付いたときから律法を中心とした生活を送っていました。彼らには割礼や律法は絶対的な基準で、疑問を差し挟む余地の無い真理でした。割礼や律法こそユダヤ人がユダヤ人である徴でした。それを根底から否定されたユダヤ人教会の信徒は異邦人教会に対して冷たい視線を送っていました。パウロは福音の真理、律法による義ではなく信仰による義を解き明かし、割礼や律法からの自由をローマの信徒への手紙に書き残したのです。
 私たちは律法主義という言葉をよく使いますが、なぜ律法主義がいけないのかを自覚しないで使う場合が多いように思えます。先ず律法は神様との契約ですからそれ自身が誤っているのではなく、それを運用する人間側に問題があるのです。人間は育ってきた環境の影響を強く受けます。人間には現状維持を最優先する保守的な部分と新しい世界を切り開く革新的な部分とが同居しているのです。両者が均衡のとれているのが理想ですが、現実の人間には偏りが見られます。律法主義者とは保守的な側面に縛られ新しいことを受け入れる余裕がない人を差します。過去の経験の世界から一歩も外へ踏み出す勇気のない人たちを指すのです。
 主の福音は日本人には全く新しい概念です。過去の経験が全く役立たない世界なのです。過去の経験を捨て去らなくては理解できない世界なのです。八百万の神々が支配する世界、多神教の世界、日本に住む私たちには、唯一の生ける主が総てを支配する世界、一神教の世界が理解できないのが当然です。唯一の主、愛、三位一体、あるいは処女降誕、復活、聖霊降臨などは日本人には理解できない表現です。日本人の多くが初めて耳にする言葉なのです。日本古来の慣習を捨て切らなくては理解できない世界です。多くの日本人が律法主義に陥るのはむしろ当然なのです。過去の経験に囚われる人間を律法主義者とも言い表すようになりました。私たちは生ける唯一の主を救い主と受け入れました。日本古来の柵を乗り越えて、全く未知の領域、生ける主が支配なさる信仰の世界に入ったのです。


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2 Comments:

Anonymous 匿名 said...

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7:01 午後  
Anonymous 匿名 said...

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1:42 午前  

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