2006/08/06

06/08/06 神を愛し、人を愛す 橋本神学生

神を愛し、人を愛す
橋本いずみ神学生
マルコ12:28-34
瀬戸キリスト060806

「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか?」この律法学者が主イエスに問うた問いです。
この問いは、私たちに、とっても切実な問いであると思うのです。キリストを信じるというときに、何を一番大切にしなければならないのか。キリスト信じるとは、結局そうすればよいのか。という問いを持つのではないかと思うのです。

「どの掟が第一でしょうか?」という問いに対して、主イエスは、お答えになります。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい』この二つにまさる掟はほかにない。」

主イエスは、申命記とレビ記に記された二つの掟をお答えになります。さらに第一の掟として引用した「神を愛せよ」との掟に先立つ言葉をマルコだけが、記しています。それは、「聞け、イスラエルよ」という呼びかけです。「聞け、イスラエルよ」という言葉から始まる、「神を愛せよ。」という掟を第一の掟として命じられました。

『聞け、イスラエルよ、私たちの神である主は、唯一の主である。』この言葉は、おそらく、当時のユダヤ人なら誰でも知っている言葉であったと思います。来る日も来る日も、この言葉を暗誦し、この言葉を記したものを手や額に結び付けて持ち歩いたりしていました。さらには、家の門にこの言葉を書き記していました。ですから、「聞け、イスラエルよ、私たちの神である主は唯一の主である」この言葉は誰もが、覚えている言葉として、知られていたはずです。

さらに、「聞け、イスラエルよ、私たちの神である主は、唯一の主である」と聞けば、必ず思い出すであろう、一つの出来事がありました。それは、出エジプトの出来事です。この言葉を聞くと、当時の人たちは、主なる神の大きな御業を思い出したことでしょう。主なる神が、エジプトの国、奴隷の家から、イスラエルの民を導き出された。その出来事を、神様がイスラエルの民のために為してくださった偉大なみ業を、思い出したのです。

主イエスは、掟に先立って、神さまの大きな御業を思い起こさせます。

「第一の掟は何か?」という律法学者の問いに対して、主イエスは、「主なる神を愛する」という掟と、「隣人を愛する」という掟を紹介されました。ここでの問題は、私たちが愛することです。

私たちが、神を愛すること、そして、人を愛することが命じられています。

しかし、私たちが愛することに先立つものがある。それは、かつて主なる神が、イスラエルの民をエジプトの国から、導き出したということです。神様が、愛するイスラエルの民のために、御業をなしてくださったということ、どれほどにイスラエルの民を愛して、守り導いたかということを思い起こさせるのです。

当時のユダヤ人たちは、確かに出エジプトのあの出来事を思い出したでしょう。しかし、愛することをお命じになった主イエスは、もう間もなく人々の罪を担って十字架にお架かりになります。私たちの罪を担って十字架にかかってくださるお方が、神を愛すること、人を愛することを私たちにお命じになります。

主イエスは、十字架の上で、私たちのために血潮を流し、肉を割いてくださいました。私たちの罪を贖う犠牲になってくださいました。この十字架の出来事にまさる愛はありません。

主イエスは、私たちのために、命を棄ててくださいました。それは、私たちを神の御許に帰すためです。神さまの御許から離れようとする私たちのために、主イエスは、この世に来てくださり、私たちのために命を棄ててくださいました。このことが、主の愛のしるしです。

私たちが、神様のもとに立ち返るために主イエスは、命を棄ててくださった。神の御元に帰るために、犠牲になってくださったのです。

私たちを愛するゆえに、命まで惜しまずお棄てになった、そのお方が、私たちに愛することをお命じになります。命を棄ててまで、私たちを愛してくださるお方が、あなたも私、神を愛すことをお求めになる。

第一の掟として、主なる神を愛することをお命じになられます。しかも、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、」あなたの神である主を愛しなさいと仰っています。
すべての心、すべての精神、すべての理性、すべての能力を用いて、主なる神を愛するようにと命じます。私たちの全存在を持って主なる神を愛する。主イエスが、全存在をもって、父なる神を愛し、神の御旨に従って歩んだように、全存在をもって、主なる神を愛し、全てを神に捧げなさいという掟です。

それでは、愛するとは、どういうことでしょうか。主イエスは、私たちのために命を捧げてくださいました。これが、神のなされた愛のみ業です。

愛するということと献げることは、深く結びついていることであると思います。何かを捧げることで、初めて、愛が分かるのでは、ないでしょうか。心の中で思っているだけのことではなく、愛は目に見える形であらわれてくるのです。
主イエスが、十字架に架かってくださったのは、愛ゆえの出来事です。目に見える十字架に架かってくださったそのことを見て、初めて、神様がどれほどに私たちを愛してくださったかを知ることができたのです。

私たちの神様に対する愛も同様です。神様を愛するときに、それは、目に見える形で現れるのです。礼拝こそが、神さまを愛しているしるしです。この礼拝において、私たちが神様を愛しているということが最もはっきりと現されるのです。神さまを礼拝することこそが、神さまを愛することです。神さまの御前に進み出て、神さまを賛美し、神さまを主とあがめる。礼拝は、心の中の問題ではありません。このように、毎週日曜日に、人々が集う目に見える身体を用いてなされるのです。私たちの神さまへの愛は、見える形で現されるのです。

愛することは、献身するということができます。主イエスは、私たちのために命を捨てて、私たちのために献身してくださいました。献身とは、身体を捧げることです。私たちに身を捧げてくださった主イエスは、愛することを求められます。全身全霊をもって神さまを愛することをお求めになります。
私たちは、主イエスが献身してくださったゆえに、私たちも神様のために身体を捧げて礼拝し、自分の身体を献げることができる。そして、私たちの体も、私たちの思いもすべてを神様の前に差し出すときに、神様は御用のために用いてくださるのです。


「神を愛しなさい」という掟に引き続いて、もう一つの掟を紹介されます。それは、レビ記19章18節に記されている「隣人を自分のように愛しなさい」という掟です。この掟も、主なる神ゆえに命じられている掟です。レビ記の「隣人を自分自身のように愛しなさい」という言葉の後には、「私は主である」と続きます。神様が、主であるゆえに「隣人を自分自身のように愛しなさい。」と命じられているのです。

「隣人を愛しなさい」と言われると必ず、隣人とは誰か?と考えることでしょう。私にとって、あの人が隣人か。この人は、まさか隣人とは呼べないだろう。と考えるかもしれません。旧約時代、レビ記が記され、主イエスが生きておられたときの隣人は、同じユダヤ人のことを指しています。同じように主に救われた人々を隣人と呼んでいます。

では、私たちにとって隣人とは誰でしょうか?それは、主によって受け入れられた人々です。私と同じように、主に受け入れられた人が隣人です。また、これから、主によって受け入れられる人が私たちの隣人です。主イエスによってすべての人が、救われる可能性があるのです。だから、私たちの隣人は、私たちを取り巻くすべての人ということができるでしょう。

しかし、ここで、大きな壁にぶつかると思うのです。本当に私たちは、愛することなどできるか?私たちを取り巻くすべての人を愛せよと言われたら、だれもが、できないと答えざるを得ないのではないでしょうか。「神を愛し、人を愛せよ」という言葉を実行しようと思えば思うほど、神を愛することも、人を愛することもできないと感じるのではないかと思います。

さらに、ここで、隣人を愛すことの前提として「自分自身を愛する」ということ言われています。自分自身のことは、誰もが無意識に愛すことができるということでしょうか。

「自分自身を愛する」ということを深く考えてみますときに、本当に自分自身をゆがみのない形で愛しているでしょうか? 自殺をする人が増えている世の中で、自分自身を愛することは、自明のことであるとは、言えないのではないかと思います。また、自分自身を振り返ってみて、幾度となく他人と比べて、自分には賜物が少ないと思い、どれだけ自分の嫌なことばかりに目を向けてきたかと思います。欠けがあり、弱さがある自分を愛しているとは、言えないと思いました。

私は、神さまに受け入れられているにもかかわらず、自分を本当の意味で受け入れていないのではないかと思わされます。

神さまは、自分を愛するということを否定なさいません。いやむしろ、自分自身も愛すべき存在として受け入れるようにとお命じになります。あなたは、愛すべき存在であると言われるのです。

そして、現に、自身よりも、あなたを愛してくださるお方がおられます。主なる神は、私よりも私のことをよく理解し、私たちよりも、私たち自身を愛してくださっているのです。

主イエスは、私たちの身代わりとなって、十字架にかかり命を棄ててくださいました。そして、私たちに愛を示してくださいました。ですから、もはや、私の主は、私自身ではありません。主イエスこそが、私たちの主になってくださったからです。

その上で、隣人を愛することをお求めになるのです。自分自身を愛することと隣人を愛することが一つのことであるように、主イエスは愛することをお命じになります。

さらに、隣人を愛することと神を愛することを一つのこととして、愛することをお命じになるのです。

神を愛することと人を愛することは、一つのことです。主イエスが、私たちのために命を捨ててくださった。そして私たちは、愛を知りました。だから、私たちは、神様に身を献げるのです。主が愛してくださっている隣人のためにこの身を献げるのです。

神様を愛し、隣人を愛そうとすることは、無駄にはならない。必ず、主なる神様は、喜んで受け入れてくださいます。

「神を愛し、人を愛する」という掟は、私たちがどんなに頑張っても、到達できないような、努力目標のようなものではありません。この掟によって、本来の生き方が見えてくるのです。

神と共にある豊かな、最も自分らしい生き方がここで示される。主イエスは、私たちを愛し、神のもとに立ち返ることを望んでいるから、神を愛し、人を愛することを命じられました。

主が喜んでくださるゆえに、この身を献げて「神を愛し、人を愛する」一歩を踏み出したいと思うのです。

祈りましょう

私たちの真の救い主、主イエス・キリストの父なる神さま。主イエスは、命を棄ててくださいました。私たちはあなたの愛を知しりました。あなたが、私たちの主でありますから、どうかあなたの愛を示す器として、神を愛し、人を愛すことができますように。上よりの力で私たちを満たしてください。
この私たちを御前に差し出しますから、主よ、どうか、私たちを受け入れてください。
この祈り、主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン

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