2006/07/08

2006/07/02 主なる神が語られた T

2006年7月2日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
主なる神が語られた
アモス書3章1_8節
讃美歌 68,2_154,241
堀眞知子牧師
サマリア陥落まで、もう40年もありませんでしたが、北イスラエルの人々は全くそのことに気付いていませんでした。むしろアモスが預言者として召された時、アッシリアは無力な王のために一時的に衰退しており、北イスラエルと南ユダは領土を拡張し、経済的に豊かな時代でした。北イスラエルはヤロブアム?世のもと、この世的な繁栄を謳歌していました。アモスは「主は言われる」と言葉を繰り返しながら、罪の告発と裁きの言葉を語った後「イスラエルの人々よ、主がお前たちに告げられた言葉を聞け」と命じます。ここはヘブライ語原文では「聞け、主があなたがたに語ったこの言葉を、イスラエルの子供達よ」となっています。まず「聞け」とアモスは語り、人々に注意を促します。何を聞けと言うのか。それは神様がイスラエルに語った言葉です。さらにイスラエルは、神様から「子供達」と呼ばれる特別な関係の中にありました。それは「私がエジプトの地から導き上った」「地上の全部族の中から私が選んだのは、お前たちだけだ」という神様の言葉の中に、はっきりと示されています。
イスラエルという名前は、もともとヤコブに与えられた名前でした。それが民族の名前として最初に記されているのは、出エジプト記1章7節です。エジプトで奴隷状態の中にあった時「イスラエル」という名前が、民族の名前となりました。神様は出エジプトの指導者としてモーセを召し出された時、自らを「私はあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と名乗られました。そしてモーセに「私は、エジプトにいる私の民の苦しみをつぶさに見、彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、私は降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地へ彼らを導き上る。今、行きなさい。私はあなたをファラオのもとに遣わす。我が民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と言われました。モーセは最終的には神様の召しに応え、エジプトからイスラエルを導き出し、シナイ山で「十戒」をいただき、荒れ野の40年の旅を導きました。エジプトからカナンまで、イスラエルの不平に悩まされ、神様の怒りにあいながらも、神様への執り成しの祈りを怠ることなく、自身はカナンの地に入ることなく、その生涯を終えました。彼を支えたのは、燃える柴の間から「私はあなたと共にいる」と約束された神様の御言葉でした。また人間の目から見れば、指導者はモーセでしたが、イスラエルをエジプトの地からカナンへ導き上る、という御業をなされたのは神様御自身でした。
さらに神様は「お前たちだけだ」と言われました。2節前半は原文では「お前たちだけを私は知った。地上のすべての民族の中から」となっています。「お前たちだけ」という言葉が強調されています。神様は地上のすべての民族の中から、イスラエルだけを知ったと言われました。それはモーセを通して言われたように「あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」という御言葉と同じです。そして神様は、イスラエルを御自分の宝の民とした理由として「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」と語られています。イスラエルが選ばれた理由は、神様のイスラエルに対する愛と、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた誓いです。愛も神様の一方的なものであり、誓いも神様の一方的なものです。人間の目からすれば「偏愛」としか言いようのない愛です。けれども逆に言えば、ここにこそ神様の主権性、絶対性が明確に表れています。人間の目からすればはっきりと分からない理由、不条理にさえ思われる理由、それは神様が創造主であり、私達が被造物にしか過ぎないからです。被造物にしか過ぎない私達に、神様の深い御計画、御心を測り知ることはできません。そのようにして神様は「イスラエルだけを知った」と言われました。「知った」という言葉は「選んだ」という言葉よりも、もっと深い人格的関係を表しています。神様は御自分の契約の相手方として、イスラエルを地上のすべての民族の中から選び出されたのです。
イスラエルは、アモスを通して神様が語られた「私がエジプトの地から導き上った」「地上の全部族の中から私が選んだのは、お前たちだけだ」という人間の歴史に現された、神様の御業は認識していました。けれども神様によって「選ばれた」という事実について、その真意、神様の御心を誤解していました。出エジプト、荒れ野の40年を経て約束の地カナンに侵入し、士師の時代を経てイスラエル王国が立てられ、ダビデ・ソロモンによって王国の基礎が築かれました。そのような歴史の中で、イスラエルは神様の守りと導きを経験しましたが、逆に誤った特権意識に陥ってしまったのです。イスラエルは、自分達は神様によって選ばれた特別な民であり、常に神様の守りの中にあり、何をしても罰を与えられることはない、と考えるようになったのです。神様がイスラエルを選ばれた、地上のすべての民族の中から選び出された、そこには目的がありました。選ばれた民としての特権、それは神様から与えられた使命に生きることでした。選びには祝福と共に責任が伴うのです。奴隷状態からの解放、約束の地カナンの獲得、それはイスラエルに対する神様の一方的な恵みであり賜物でした。同時にイスラエルは神様を愛し、神様に仕え、神様の栄光を地上の諸国民に現さなければなりませんでした。その責任を果たさなければ罰が下るのです。アモスを通して神様は言われます。「それゆえ、私はお前たちを、すべての罪のゆえに罰する」と。
「私はお前たちを、すべての罪のゆえに罰する」この厳しい言葉に対して、北イスラエルの人々は反発したでしょう。アモスが預言者であることを疑う者もいたでしょう。そこでアモスは日常的なできごとの中にも、必ず原因や理由があることを語ります。「打ち合わせもしないのに、2人の者が共に行くだろうか。獲物もないのに、獅子が森の中でほえるだろうか。獲物を捕らえもせずに、若獅子が穴の中から声をとどろかすだろうか。餌が仕掛けられてもいないのに、鳥が地上に降りて来るだろうか。獲物もかからないのに、罠が地面から跳ね上がるだろうか」荒れ野では、あらかじめ約束でもしていない限り、2人が一緒に歩くということはあり得ないことでした。また獅子がほえるのは獲物を得た時でした。鳥は餌が設けられていなければ、地上の罠に捕らえられることはありませんでした。同じように神様の御心でなければ、町に災いが下ることもありません。「町で角笛が吹き鳴らされたなら、人々はおののかないだろうか。町に災いが起こったなら、それは主がなされたことではないか」角笛は敵の襲来を知らせる警報でした。角笛が吹き鳴らされたならば、町の人々は敵の襲来におののきます。町に敵の襲来であれ、飢饉のような天災であれ、災いが起こったならば、それは神様の御業です。イスラエルに原因やり理由があるからこそ、神様は災いを下されるのです。「まことに、主なる神はその定められたことを、僕なる預言者に示さずには、何事もなされない。獅子がほえる、誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる、誰が預言せずにいられようか」神様はイスラエルに災いを下す前に、預言者を通して御計画を示されるのです。獅子がほえる声に人々が恐れるように、神様の御言葉にも恐るべき御計画があります。北イスラエルの人々を恐れさせ、不安感を抱かせ、預言者アモスに対する不信感と憎しみをつのらせる御言葉です。けれどもアモスは、この恐るべき神様の御言葉、神様の召しに従っています。主なる神様が示された。主なる神様が語られた。ゆえに神様から御言葉を預けられた預言者として、語られた計画を話さないわけにはいかないとして、御言葉を告げているのです。そして北イスラエルの人々が、アモスの告知を預言者の言葉として受け入れないなら、神様が下される災いを免れることはできません。
9?15節には、サマリアの罪とそれに対する罰が記されています。サマリアは北イスラエルの首都であり、紀元前9世紀前半、アハブの父オムリが買い取った山に築かれた町です。やがて町だけではなく、その周辺の山々、そして地方全体を指す名前となりました。アモスは語ります。「アシュドドの城郭に向かって、エジプトの地にある城郭に向かって告げよ。サマリアの山に集まり、そこに起こっている狂乱と圧政を見よ。彼らは正しくふるまうことを知らないと、主は言われる。彼らは不法と乱暴を城郭に積み重ねている」サマリアは山に築かれた町であり、城壁に囲まれた砦の町であり、オムリとアハブによって築かれた宮殿があり、裕福な民が築いた大邸宅がありました。外見的には堅固な町であり、豪華な町でした。けれども町の中では狂乱と圧政、不正と乱暴が行われていました。神様はアシュドド(ペリシテ)とエジプトの城郭に向かって呼び掛けます。「サマリアに来て、その中を見よ」と。神の民であるイスラエルの狂乱と圧政、不正と乱暴の証人として、異邦の国々であるアシュドドとエジプトが、神様によって用いられます。まことの神様を知らない異邦の国々でさえも、イスラエルの罪の証人として、神様が用いられるのです。そして狂乱と圧政、不正と乱暴に対する裁きが語られます。「それゆえ、主なる神はこう言われる。敵がこの地を囲み、お前の砦を倒し、城郭を略奪する」敵がサマリアを囲んで滅ぼす。アッシリアによって滅ぼされることが予告されていますが、実際に滅ぼされるのは神様御自身です。
おそらくアモスが、ここまで述べてもイスラエルは、まだ神様の裁きを信じなかったのでしょう。自分達は選ばれた民である。神様が、そのような破滅をもたらすはずがない。必ず救い出して下さる。テコアの牧舎であったアモスは、自分の職業に関する律法から語ります。「主はこう言われる。羊飼いが獅子の口から2本の後足、あるいは片耳を取り戻すように、イスラエルの人々も取り戻される。今はサマリアにいて豪奢な寝台や、ダマスコ風の長いすに身を横たえていても」出エジプト記22章によれば、人が隣人から家畜を預かっていて、その家畜が野獣にかみ殺された場合は、その証拠を持っていけば償う責任から免れることができました。ですから羊飼いは、羊が獅子に襲われた時は、残された遺骸や骨などを証拠として持ち帰らなければなりませんでした。「羊飼いが獅子の口から2本の後足、あるいは片耳を取り戻すように、イスラエルの人々も取り戻される」この預言は救いを語っているようですが、実は厳しい裁きを語っています。現在、豪奢な寝台や、ダマスコ風の長いすに身を横たえる生活を送っていても、イスラエルは滅ぼされ、その後、神様によってイスラエルは取り戻されますが、生きた羊ではなく、野獣にかみ殺された証拠として残されるのです。残されたイスラエルは、アッシリアに滅ぼされた証拠としての存在にしか過ぎないのです。
北イスラエルの全面的崩壊について、アモスは語ります。「万軍の神、主なる神は言われる。聞け、ヤコブの家に警告せよ。私がイスラエルの罪を罰する日に、ベテルの祭壇に罰を下す。祭壇の角は切られて地に落ちる。私は冬の家と夏の家を打ち壊す。象牙の家は滅び、大邸宅も消えうせると、主は言われる」13節も1節と同じように「聞け」という言葉で始まっていますが、これはイスラエルに対してではなく、神様がアモスに対して「聞け、そして警告せよ、ヤコブの家に」と命じられています。神様がイスラエルを罰せられる日、その日にはベテルの祭壇に罰が降ります。ベテルの祭壇は、北イスラエルの初代の王ヤロブアムによって、エルサレムに対抗して築かれました。金の子牛像が造られ、これが北イスラエルを主なる神様から引き離す原因となり、この罪から離れることがなかったがゆえに、やがて北イスラエルは滅亡の日を迎えることになります。祭壇の角につかまれば命は保証されることになっていましたが、角が切られて地に落ちれば、もはや助けはありません。冬の家と夏の家、象牙の家、大邸宅は北イスラエルの王や貴族達の贅沢な生活を表していますが、それらも滅ぼされてしまいます。この世の力に頼り、神様に頼ることを忘れたイスラエルは滅びるしかないのです。選ばれた民が使命を果たさない時、神様にあからさまに背いた時、そこには滅びが待っているだけです。
私達もまた、神様によって選ばれた民です。私達の側に、神様から選ばれるのにふさわしい何かがあったのではありません。あるいは選ばれるために、何らかの努力をしたのでもありません。私達は、人間の目からすれば「偏愛」としか言いようのない愛によって、選び出され、召し出された者の群れです。選びの御業は常に神様の側から起こっており、神様の驚くべき恵みに根ざしています。新約の時代に生きる私達にとって、もっとも驚くべき神様の御業は、主イエスの十字架と復活です。イスラエルが、エジプトから導き上った神様の御業を、絶えず思い起こすことを求められたように、私達もまた、イエス様の十字架の御業を、絶えず思い起こすことが求められています。私達は、イエス様が十字架の上で流された血によって結ばれた、契約関係の中に生かされています。契約関係の中に生かされている者として、選ばれた者として、神様に応えることが期待されています。神様から与えられた使命に生きることが求められています。使命と言っても、特別にむずかしいことではありません。神様が語られる御言葉に耳を傾け、神様の招きに応えさせていただく生活です。主なる神様を愛し、神様の御言葉と恵みを人々に伝えることですが、パウロのような、伝道旅行が求められているのではありません。日々の生活の中で、神様から選ばれた者として、自らを誇ることなく、神様の前にへりくだって生きることです。この世的には不幸と思えるような状況の中にあっても、常に神様に希望をもって生きる時、喜びを持って生きる時、そのように生きる私達の姿を、神様が証の生活として、伝道の器として用いて下さるのです。