2006/07/16

06/07/16 情欲に任せられた T

情欲に任せられた
2006/7/16
ローマの信徒への手紙1:24?31
 世界第2位の富豪で投資家のウォーレン・バフェット氏が世界第1位の富豪でマイクロソフト社創業者のビル・ゲイツ氏が経営する財団、ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ基金に約4兆の財産を寄付することにしました。
 バフェット氏は金融投資の世界、M&Aで成功し、一代で世界2位の富豪になりましたが、生活は質素なものだそうです。彼は富める者が子孫に遺産を遺すことに批判的で、ブッシュ政権の相続税軽減政策に反対しています。彼は富める者が財産を子孫に残すのは、2006年度のW杯出場者の子供に、20030年のW杯を争うようなものだと批判しています。バフェット氏は「税金を払って財務省に任せるより、ビル・ゲイツ夫妻の財団の方がお金の効用を最大化してくれる。私が投資の能力で他人より優れているように、社会還元ではゲイツ夫妻の財団が優れている」と言っているようです。 
 ビル・ゲイツ氏もウインドウズシリーズを開発し、世界標準OSソフトにしました。マイクロソフト社の創業者として世界一の金持ちになりましたが、彼の大好物はハンバーグで、ジーパンを愛用しています。ビル・ゲイツ氏も第一線から引退することを既に決めているので、 世界第1位と2位の富豪、アメリカンドリームの体現者が財産を社会に還元することに決めたのです。
 キリスト教国であるアメリカでは人は「神の栄光を地上に現すために働き、死ねば地上で得た物を神の元へ返す」ことを信じている人は少なくありません。西郷隆盛が「児孫のために美田を買わず」と言い残したのは有名な話ですが、彼らが財産を子孫に残すよりも、社会に還元する道を選んだのとは意味が違います。彼らがキリスト者であるかどうかは分かりませんが、地上で得た富を社会に還元するのはアメリカではスマートな生き方とされるのでしょう。
 アメリカでは多くの財団が設立され、富の社会還元の一翼を担っています。慈善事業、教育事業、文化事業などを各種の財団が支えています。社会還元は税制面でも優遇され、社会にもバックアップ体制が整備されています。例えば、ハーバード大学を始め私立大学の運営費は寄付で賄われています。税金が運営費の多くを占めている日本の私立大学とは性格が根本的に違います。
 ホリエモンに代表されるヒルズ族は、お金を稼ぐのを自己目的化してしまい、何のためにお金を稼ぐのかが分からなくなっていたのではないでしょうか。勝ち組になった彼らは持ちなれないおもちゃを与えられた子供と同じで、財産を使いこなすための想像力が欠如していたように思えます。
 オウム真理教に走った有名大学出身の科学者にも感じられたのですが、想像力の欠如した人間、デジタル思考しかできない人間からは人間としての潤いが感じられません。現代の知識偏重の教育は子供から想像力を奪ってしまったのではないでしょうか。子供の時から文芸作品に親しませ、幅広い教養を身につけさすことが必要だと思います。教会学校も幼い心を育てるためにあるのです。
 パウロは神様は人間に自由を与えられたが、その自由を人間は濫用していると主張しています。人間の欲望に従えば不潔なこと、性的な乱れがローマ世界の中で蔓延していると指摘しているのです。さらに、ローマ世界の中では偶像礼拝が盛んに行われ、多くの人々が神の真理を疎かにしていると嘆いているのです。パウロは、例えギリシア人でも森羅万象の中に創造主なる唯一の神ヤーウェを見ることができるのに、悔い改めのために足を踏み出さない人々を糾弾しています。
 多宗教、多民族、多文化社会に生きるローマ世界の人たちに、一神教の世界、唯一の神ヤーウェのみを崇めて生きるユダヤ人は受け入れられていないように、キリスト者も唯一の主のみを信じ、多神教の世界、偶像礼拝の世界から離れて生きようとしているので、ローマ世界では異分子として扱われていました。
 一夫一妻制のキリスト者はローマ世界に満ち溢れている性的な放縦から背を向けて生きていました。性的な放縦の根源にはローマ世界各地にある豊饒の神々を祀る神殿、民間信仰の拠点が大きな役割を果たしていました。巫女と交わることにより霊験が分け与えられると信じていました。ローマ市民の間では一夫一妻制は事実上崩れており、離婚、結婚の繰り返しがむしろ普通になっていました。
 神様はその様なローマの現状を放置なされたのです。人々の情欲が赴くままに生活することを放任なされたのです。人間はますます恥ずべき行為にのめり込んでいきました。男も女も自然の関係、男女の正常な交わりを捨てて、同性愛、小児愛など異常な性愛にうつつを抜かしていました。皇帝、貴族から市民に至るまで絢爛豪華たる公衆浴場で淫らな行為に耽ったと言われています。道徳的、倫理的な逸脱は彼ら自身を貶めることになりました。彼らは無価値な思いに渡され、してはならないことをするようになったのです。神を認めない彼らが払うべき当然の報いを受けたのです。神の裁きは彼ら自身の行いに現れているのです。
 パウロは不義、悪、貪り、悪意、妬み、殺意、不和、欺き、邪念、陰口、誹り、神を憎悪、侮り、高慢、大言壮語、悪事、親不孝、無知、不誠実、無情、無慈悲、と悪徳表を掲げています。これはパウロの独創ではなく、広くヘレニズム世界に行き渡っている悪徳を取り上げたものですが、心の問題に集中しており、宗教の領域というよりはむしろ社会生活の領域にまで踏み込んだものです。彼らは悪を行う者が死に値するという神の定め知りながらもなお悪から離れられないのです。異邦人は唯一の神ヤーウェを知る機会が与えられていながらも、主を認めることを拒否し、道徳的にも倫理的にも乱れた生活を送っているのです。特に性的な乱れは彼ら自身の欲望をさらにかき立てるだけではなく、人間の本能に逆らう愚かな行動の行き着く先は自滅しかないのです。異邦人は主を知りながらも彼らの情欲のおもむくままに悪を行っているのです。それだけではなく、他人が悪を行うのも是認しているのです。異邦人の根本的な問題は、悪を悪として認識できず悪を行ってしまうのではなく、悪を悪として認識できるのにも拘わらず悪を行う点にあります。彼らは確信犯ですから、彼らには弁解の余地はないのです。
 ローマ世界の人々にも森羅万象を通じて唯一の神を知る機会が与えられているのにも拘わらず、まるで神がいないかのように、死に値する行動を平然と行っている異邦人には弁解の余地はありません。なぜなら彼らは確信犯であるからです。
 パウロはローマ世界の人々が、偶像礼拝に陥っている現状を鋭く批判しています。厳格な一夫一妻制のユダヤ人やキリスト者にはローマ世界に住む人々の性的な乱れは目に余るものでした。豊饒の神々はローマ世界の至る所に祀られたいました。豊饒の神々は地の実りが豊かであり、子供が多く生まれるように祈りを捧げた神々なので、本質的に性に対し大らかでした。乳房が一杯あるような豊満な女性像が発掘されています。神々の神殿では犠牲が捧げられると共に、男女の淫らな交わりもあったようです。巫女と交わることにより神の力、霊験が与えられると信じられていたからです。神殿娼婦による売春も元来は宗教的な儀式でした。
 ローマ人は入浴の好きな民族でした、帝国内の至る所に豪華絢爛たる大理石造りの公衆浴場がありました。男女が浴場で淫らな行為にふけることも珍しいことではなかったようです。ローマでは結婚、離婚も単にパートナーを取り替える感覚で行われ、男女を問わず一生の間に何回も結婚を繰り返すのが普通でした。子供は女性の家で育てられ、父親が違う子供が何人もいるのが普通であったようです。一人のパートナーと生涯を共にするのは、変人の部類に入ったと思えます。
 パクス・ロマーナ、ローマの平和と言われる時代で、防衛戦で前線勤務をする兵士を除き、ローマでは平和が続きました。世界中の富がローマに集中しました。世界各地から山海の珍味が集まってきました。ローマ版バブルが起きていました。平和が続き、市民は労働、兵役から解放され、奢侈な生活を楽しみました。飲めや歌えの生活が続き、円形競技場でも様々なイベントが繰り広げられました。皇帝や貴族は競って公衆浴場や円形競技場を建設し、イベントを主催しました。
 ローマは内部から崩壊しつつありました。人々の止めどもない欲望を満たすために、あらゆることが試みられました。道徳感、倫理感は人々の心から失せていきました。「何でもあり」の世界の中で人心は荒廃してきました。豊饒の神々は人々の心から欲望を解き放ちました。ブレーキを失ったローマは繁栄の絶頂にあるかのように見えましたが、坂から転がり落ち始めていたのです。帝国の防衛戦、国境を東方ではパルティアが西方でゲルマニアが犯し始めていたのです。
 一方、教会はバブルで浮かれているローマ帝国内の各地に静かに進出し始めていました。人と物の往来が頻繁になると共に、教会は各地に進出していきました。異教の神々は供え物をし、礼拝をするだけで、教義と言われるものはなかったので、教典と言われるものはありませんでした。それに引き替え、教会は文書の交換が盛んでした。3世紀まで、教会は独自の建物を持たず、有力者の自宅を解放して礼拝を守ったと思われますが、礼拝の中で様々な文章が読み上げられたと考えられます。それらが取捨選択されて聖書が定められたのは後世のことです。
 文字が読める人は非常に限られていましたが、礼拝の中で有力者が文章を読み上げ、会衆、文盲の社会的身分が低い人がそれを聴いていたのでしょう。パウロが書いた手紙以外にも多くの手紙や福音書、四福音書以外にも多くの人が書いた福音書が知られていますが、それらが教会間で回し読みされました。ユダヤ教、教会の信仰は文書で裏打ちされた信仰である点で、異教の神々への信仰とは根本的に違います。文字で表される信仰には理性が伴います。道徳、倫理にも厳しくなります。人間の欲望を反映しただけの偶像礼拝とは質的な違いが見られます。
 パウロは唯一の神は森羅万象を通して自らを啓示なされているのにも拘わらず偶像礼拝が横行しているローマ世界の現状に怒りを覚えています。神様を知りながらも神様から離れていく異教徒は、道徳感、倫理感に反し、死に値する行動を感情のおもむくままに行っているのが、神様からの怒りの表れだということを知らないのです。特に性的な乱れは、ローマ帝国を根本から腐らせていきました。
 神様を知らないから善悪の区別が付かないのではなく、神様を知りながらも死に値する行動を行うだけではなく、他人の行いも是認してしまう異教徒には弁解の余地がありません。その報いを既に受けているとパウロは強調するのです。
 ローマ帝国は多宗教、多文化、多民族国家でした。一神教であるユダヤ人は紀元70年エルサレムが陥落し、イスラエル共和国が建設されるまで2000年間、離散のユダヤ人として過ごしました。教会は4世紀、コンスタンティヌス大帝の時代までは、帝国内で静かに勢力範囲を広げていきました。ローマの偶像礼拝は神々を崇める時代から皇帝を崇める時代に変わりましたが、教会は立ち続けました。
 ローマ帝国が衰退して原因の一つには、道徳観、倫理観の衰退がありました。人々は教会に道徳、倫理の基準を求めたのです。神の律法の実現を求めたのです。教会にも「この人のようになりたい」と思わせる人材が輩出しました。パウロや四福音書の著者以外にも多くの人々が手紙や福音書を書き記しました。それらは何度も書き写され、各教会で回覧されました。多くの信徒は社会的弱者で文盲でしたが、礼拝で教育のある有力者がそれらを朗読しました。伝道の主体となったのは名もない人々でした。彼らの証しの生活こそが伝道への力となったのです。
 私たちは高度な情報化社会に生きています。日曜日の礼拝で語られることが唯一の情報源の時代とは違います。様々な雑音が入ってきます。御言葉に集中できない環境の中で、主の福音を聞き分ける賢さが求められるのです。伝道の基本は昔も今も変わりません。証しの生活こそが人々を主の福音に向かわせるのです。
 日本ではクリスチャンには良いイメージ「道徳的、倫理的な規範が高い」、が定着していますが、パウロの時代の教会もそうでした。社会の道徳的、倫理的な規範が崩れてくると、危機感を抱く人も出てきます。その様な人々に向かって教会は神の律法を説かなくてはならなかったのです。形式的な律法に拘ったユダヤ人ではなく、私たちは神の愛、神の律法を証ししなければならないのです。
 神の律法を解くキーワードは愛です。いかに高邁な理想も愛がなければ空しいのです。パウロはコリントの信徒へ『愛がなければ、私たちは騒がしいどら、やかましいシンバル』と書いた手紙を送っています。様々な書物が出ていますが、愛の裏付けがない知識をいくら貯め込んでも、血となり肉となる事はないのです。
 ギリシア人は哲学で真理を究めようとし、ローマ人は法学を行動原理にしました。ユダヤ人は神学が総てでしたが、真理に到達することはできませんでした。プロテスタント教会は宗教改革の三原則『信仰のみ、聖書のみ、万人祭司』の上に立っていますが、教会は主が再臨なさる日まで主を待ち望み続けるのです。
 教会で最も必要とされるのは愛です。『自分を愛するように隣人を愛せよ』が教会の行動原理です。視点がここから離れなければ、後は応用問題です。礼拝に集い、御言葉に耳を傾け、祈りを合わすのもこの原理を再確認するためです。

2 Comments:

Anonymous 匿名 said...

権威は、いかなるものか?この問題は学校の先生によく考えてもらいたいです。神となったイエスはなにを権威としていかに示し行動したかです。神となったイエスも十字架にかけられた最後で”主よ、なぜお見捨てになられたか?”と言ったと思われると4つ福音書の中で書かれているものがあります。僕はそこに創造主の本当の愛があると思います。自分も性欲に駆られDVDのポルノ画像(市販されたもの)で満たす堕落のときがあります。
でも、神となったイエスが救いの方向を示し、生きることの大事さと正しものへ導いてくださる気がします。ヒトラーになると言って、幼いとき先生の権威でノケモノされていじめられたときでもです。
小松 利行

3:40 午後  
Anonymous 匿名 said...

聖書の旧約で、最初に”言葉は神であった”と定義されています。創造主は、くすせしお方だと思います。
小松 利行

5:02 午後  

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