2006/06/26

06/06/25 不信心と不義 T

2006/6/25
ローマの信徒への手紙1:18?23
 自衛隊のイラク駐屯部隊への撤退命令が発動されました。イラクでの2年半にわたる自衛隊の任務は無事終了しました。小泉首相は日本の単独撤退も辞さない覚悟でいたようですが、政治状況が急変し、国際社会と連動して撤退できるようになりました。これで小泉劇場は事実上幕を下ろしました。カーテンコールとして日米首脳会談がセットされているだけです。小泉首相により日本は日米同盟に大きく梶を切りました。ブッシュ大統領との個人的信頼関係が日米関係を濃密なものへと変えました。日米同盟の証しとしてなされた自衛隊派遣も無事終了しました。政治家小泉純一郎は、良くても、悪くても、稀代の政治家でした。彼の評価は歴史が定めるところですが、彼の出現で日本の政治は確かに代わりました。
 イラク戦争は、今から振り返れば大儀のない戦争でした。アメリカはイラクが大量破壊兵器を保持し、それを使用する意志を持つと国際社会に説明し、イラクに侵入しましたが、大量破壊兵器は発見されませんでした。ホワイトハウスが情報操作をした可能性も排除できません。しかし、イラクでは憲法が制定され、国会も招集され、政府も樹立されました。ムサンナ州では治安が保たれ、自衛隊は一人の負傷者を出すことなく、一発の実弾も発射することなく任務を終えることができました。自衛隊の派遣部隊は安全を最優先にし、設営された陣地に籠もり、人道支援が十分になされたとように見えませんでしたが、現在の日本ができる具体的な支援としては限界でした。自衛隊派遣を積極的に支持する人たちから見れば、不満の残る自衛隊派遣でしたが、日本の法体系からすれば、グレーゾーンだったと思えます。日本の得意な分野は、自衛隊派遣よりも経済的な支援だと思えます。ムサンナ州も日本に期待するのは雇用の拡大とインフラ整備です。特に、発電所建設に期待が寄せられています。深刻な電力不足の解消と失業対策を望んでいるようです。これからは自衛隊ではなくODA、政府開発援助の出番です。自衛隊派遣では国論が二分されましたが、ODAについては異論は少ないと思います。日本の得意とする分野ですから、早急に発電所建設やインフラ整備に取りかからなければならないと思えます。自衛隊の人道支援からODAに速やかに切り換え、日本からの援助を滞らないようにするのが日本に課せられた課題です。
 自衛隊派遣は現在の法体系からすればグレーゾーンで 法を整備する必要があるのですが、憲法改正論議を含めて、次期総裁に引き継がれることになりました。日本は法治国家であるはずですが、現実に合わせて法を拡大解釈する傾向があります。平和憲法、憲法9条についても、自衛隊の存在が先にあり、自衛隊を合法化するために、憲法を無理に拡大解釈したとしか思えません。憲法改正論議は民主党の代表が小沢代表に代わり下火になりましたが、私たちの望むこの国の未来像を、国民の間で幅広く討議する必要があります。自衛隊の海外派遣を是とするか非とするかは憲法改正論議の本質に関わります。憲法改正は身近な生活とは関係ないと錯覚しがちですが、社会生活そのものが根本から変えられるのです。
 人間の不信心と不義は福音の真理、『神は神であり、人は人である』を悟る目を曇らしてしまいます。人間は終わりの日、最後の審判の時に神の前に立たされますが、その時に総ての人間は神様の怒りの前に立たされます。なぜなら、神様について知りうることは人間に明らかにされているからです。人間は天地創造の時、アダムとエバが神様を欺こうとした時から、神様の意志に背いて生き続けてきました。神様は預言者を通して、何度も人間に自らの姿を啓示なされましたが、人間は悔い改めませんでした。人間は自らの力に頼り、何度も滅びの道を歩んできました。イスラエルの民は出エジプトの旅、バビロン捕囚などの国家的危機を何度も味わってきましたが、それでも悔い改めようとしませんでした。彼らは異教の神々、豊饒の神々に心を奪われ、唯一の主をないがしろにするばかりでした。イスラエル民族、ユダヤ人の歴史は、唯一の主から離れ、異教の神々を崇める王や民衆と『主に帰れ』と悔い改めを迫る預言者との歴史です。ユダヤ人には律法が与えられていましたが、律法は神様がイスラエル民族、ユダヤ人の神となり、ユダヤ人が神様の民となる契約の徴です。十戒で『私は主である。私をおいて他に神があってはならない』と唯一の主は宣言されていますが、『神は神であり、人は人である』のはこの契約からも明らかです。イスラエル民族、ユダヤ人は神様から選ばれた民であるのは、神様との間に結ばれた契約、律法があるからです。
 一方パウロはユダヤ人以外の人間にも、天地が創造されてから、目に見えない神の性質、永遠の力と神性が被造物の中に現されていると主張しています。自然の摂理、自然界の移ろいの中に、神様の天地創造の御業が明らかにされているのにも拘わらず、神様を崇めることも感謝することもしない。空しい思いにふけり、心が鈍く暗くなっている。と言葉を連ねています。パウロはギリシア人に対し、あなた方も森羅万象の中に神様の姿を見ることができるのに、知恵があると吹聴しながらも愚かになっている。ギリシア人の誇る知恵は、神様の真実の姿を見ないで、人間や鳥や獣、這うものなどに似せた像、空しい偶像を崇めることをしている。あなた方は神の栄光を偶像と取り替えてしまっていると主張しているのです。あなた方は『人間を神の座に押し上げているが、人間は神ではない』、この矛盾を知るだけの知恵がないから、偶像礼拝、被造物を崇めてしまうのだと論じています。パウロは人間には神の摂理が被造物、自然界を通して明らかにされているのに人間はそれに気づかないほど愚かである。神様のことを知りながらも神様として崇めることすらしない。知恵があると思い込みながらも神様の栄光すら理解できないほど愚かである。だから偶像礼拝に走るのだと主張しているのです。
 ユダヤ人は、子供の時から律法と共に育てられ、唯一の主を知らされてはいますが、唯一の主から離れてしまうのがユダヤ人の歴史です。ギリシア人の歴史は、人間だけではなく、様々な被造物を拝む偶像礼拝の歴史です。いずれにしても、不信心と、不義の歴史です。人間は謙虚に自然界の移ろいを眺めていれば、そこに創造主、生ける主の御手が働かれていることを感じ取ることができるはずですが、創造主なる唯一の主を崇めずに、被造物である偶像を崇めている人間の愚かさをパウロは指摘しているのです。人間の不信心や不義、人間が神様から背いてしまう愚かさ、それに対する神様の怒りをパウロは厳しく指摘しているのです。
 パウロは『唯一の主、神の力と神性は被造物に現れている』と主張していますが、ギリシア人や日本人はむしろ被造物に宿るのは、様々な神々と思うでしょう。ユダヤ人には宇宙の万物を司っているのが唯一の主ですが、森羅万象にはそれぞれ神がいると考えるのが多神教の世界に生きる人間です。人間の本姓からすると多神教の世界が普通であり、一神教の世界の方がむしろ例外なのです。人類の誕生からの歴史を考えると、身の回りのものを神様とする世界、豊饒の神々が支配する世界、妖精が飛び交う世界がむしろ人間の親しんできた世界です。世界史を振り返れば、イスラエル民族以外は、偶像でできた神々を崇めていました。なぜかイスラエル民族のみが唯一の主、ヤーウェを信じる特異な民族でした。イスラエル民族を侵略したアッシリア、バビロニア、ペルシャなどはそれぞれの神々を崇めていました。ギリシアの都市国家もローマも多神教の国です。ローマは多宗教、多民族、多文化のコスモポリンタンな国家でした。ローマは勢力を伸ばした国々の神々を取り入れてきたので、神様の数があまりにも多くなり、神様の名を記した辞典がいるくらいでした。オリエントの国々は王様が支配していたので、それぞれの国々には王様を支配者とする神々がいました。戦争はそれぞれの国の神々との間の争いを意味し、戦争の勝ち負けは神々の勝ち負けを意味しました。勝者の神々が敗者の神々に勝利したので、敗者の神々を破壊しつくしました。
 例えば、イスラエル民族、ユダヤ人のバビロン捕囚では、唯一の神ヤーウェがバビロニアの神々に負けたのですから、敗者であるユダヤ人は勝者であるバビロニアの神々を崇めることを求められたのです。ユダヤ人は唯一の主がバビロニアの神々に負けたから国を奪われ、異国の地に連れ去られてきたのですから、信仰の大きな危機でした。その時にユダヤ人は自らの神、唯一の主はどういうお方であるかを真剣に問い直したのです。絶望の中にあって生ける主を探し求めたのです。その時に編纂されたのが創世記だと言われています。自分たちの信じる主は天地を創造なされた主であり、人間を創造し、その他の被造物を創造なされた主であることを証ししたのです。唯一の主はバビロニアの神々に取り囲まれた時に、イスラエル民族、ユダヤ人に生ける唯一の主であることを啓示なされたのです。
 イスラエル民族、ユダヤ人はモーセが出エジプトの旅の中で唯一の主から十戒を授けられました。このときからユダヤ人は唯一の主のみを信じる民とされたのですが、約束の地カナンの周囲の民は豊饒の神々を信じていました。イスラエルの歴史は異教の神々を拝む王や民と、悔い改めを迫る預言者との歴史でした。唯一の主を生まれながらに教えられているのに人々は異教の神々を信じてしまうのです。人間の習性からすればいかに唯一の主は信じがたく、異教の神々が信じやすいかをイスラエルの歴史は証明しています。パウロの時代では異教の神々を信じる民族が普通で、唯一の主を信じるユダヤ人はむしろ例外的な世界に生きる民でした。ユダヤ人であるパウロには自然の総ての営みを司るのは唯一の主であると思えたのですが、ギリシア人にはそうは思えませんでした。パウロはギリシア人に対し、知恵があると自惚れながらも、心が鈍く暗くなったいる人と非難しているのですが、ギリシア人からすれば心外と思えたかも知れません。いずれにしろ、パウロは偶像礼拝に励むギリシア人を愚かだと決めつけているのです。
 ユダヤ人であったパウロは自然の営みの中に唯一の主、創造主なる神様の御業を感じ取ることができましたが、ギリシア人はむしろ様々な神様の存在を感じました。人間は本質的にはギリシア人のような多神教の世界、様々な神様が混在する世界に生きるのが普通であり、ユダヤ人のような一神教の世界、唯一の主が総てを司る世界に生きるのは例外なのです。偶像を崇めるのは人間の本質に適ったことであり、むしろ偶像の存在を許さないユダヤ教が特殊な宗教なのです。
 世界史的に見れば、アジアの西南部、オリエント地方の片隅、パレスチナでイスラエル民族、ユダヤ人により細々と守られてきた一神教、ユダヤ教からキリスト教が分かれ、さらにユダヤ教からイスラム教が分かれました。離散のユダヤ人は世界各地に散らばりました。現在は一神教が世界人口の半数を占めていると言われています。ユダヤ人が陰の力として世界を動かしているのは周知の事実です。
 多神教の世界であったローマは4世紀に入ると、コンスタンティヌス大帝によりキリスト教へと大きく梶を切りました。中近東では7世紀にムハンマド、マホメットによりイスラム教が始められました。17世紀になるとヨーロッパからの移民と共にキリスト教がアメリカに渡りました。日本には明治維新に宣教師がキリスト教を伝え、太平洋戦争後、進駐軍と共に宣教師が大勢やってきました。
 一神教の世界は『私は主である。私をおいて他に神があってはならない』ですが、『隣人を自分のように愛する』世界でもあります。隣人に対する愛を見失えば、宗教の押しつけになります。これが極端になると十字軍のようにキリスト教国とイスラム教国との闘いに発展してしまうのです。あるいは、植民地の人々を人間と見なさなかったかつての宗主国、ヨーロッパ諸国、奴隷制を合理化したかつての教会のようになってしまいます。『神はご自分にかたどって人を創造なされた』のですから、基本的人権、信教の自由も保障されなくてはならないのです。
 私たちは多神教の世界、日本で生活しています。クリスチャン人口は1%程度と言われています。多神教の世界では唯一の主イエス・キリストを信じていても、それほど異端視されるわけではありませんが、一神教の世界で生きる私たちにはそれなりの工夫が必要です。日本の慣習の中で信仰的に受け入れられないものと受け入れることができるものとを整理する必要があります。冠婚葬祭に関しても、例えば死者を拝まないこと、お花代とすること、記念会は死者ではなく家族への慰めのためにあることなどを理解する必要がありますが、敢えて事を荒立てる必要はないと思います。お目出度い席では共に祝い、共に喜べばよいと思います。
 信仰生活の基本は唯一の主イエス・キリストのみを主とすることであり、その他のことは応用問題です。私たちはキリスト教原理主義に陥らないように気をつけなくてはならないと思います。証しの生活では原理原則は譲れませんが、柔軟に応用問題を解く姿勢が大切です。なぜなら、社会の中で生活することが伝道に繋がるからです。修道院の中で信仰を守る生き方もあるでしょうが、私たちは現実の社会の中で生きているのです。日本に主の福音の種を蒔き、それを育てるのが私たちの使命だからです。瀬戸キリスト教会は伝道の最前線に位置しているのです。私たちの日々の信仰生活が福音伝道を進める力として働くのです。主にある兄弟との交わりを求めながらも、堅く信仰に立ち、孤立を恐れてはなりません。

1 Comments:

Anonymous 匿名 said...

僕が習った教科書では、キリスト教の伝来は、安土桃山時代ではなかったでしょうか?イエズス会が確か来ていたような気がします。僕は、ヒトラーになると幼稚園で先生ぐるみでいじめられたのでナチスドイツにそれなりに調べました。まず、ヒトラーは熱心なキリスト教徒だったことです。だから、ユダヤ人を迫害し、ホロコーストがあったのです。戦後のご都合教育と知識には、うんざりです。さらに、新約では、イエスを信じれば神の子とされるとありませんか?ユダヤ人を迫害したヒトラーは神の子ですか?イエスはなぜ救われたのか新約をしっかり解読するべきです。そこに、創造主である神の意思があります。ユダヤ人は、ホロコーストで神に祈り誓ったことを実行するべきです。
小松 利行

9:07 午後  

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