2006/07/11

06/07/09 神と出会う備えをせよ M

2006年7月9日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
神と出会う備えをせよ
アモス書4章12_13節
讃美歌 20,340,385
堀眞知子牧師
4章も3章と同じように、ヘブライ語原文では「聞け、この言葉を」という言葉で始まります。そして3,5,6,8,9,10,11節は「主は言われる」という言葉で終わっています。さらに6,8,9,10,11節は、その前に「しかし、お前たちは私に帰らなかった」という言葉が繰り返されています。北イスラエルの退廃した姿、そして裁きの言葉が記されています。「聞け、この言葉を」の第2部は、サマリアの女性達への非難から始まります。アモスは「サマリアの山にいるバシャンの雌牛どもよ」と呼び掛けます。バシャンはガリラヤ湖東岸の肥沃な平原で、牧畜に最適な場所です。申命記32章に「彼らは、牛の凝乳、羊の乳、雄羊の脂身、バシャンの雄牛と雄山羊、極上の小麦を与えられ、深紅のぶどう酒、泡立つ酒を飲んだ」と記されているように、バシャンの牛や山羊は肥え太っていて、極上のものでした。同時に詩編22編に「雄牛が群がって私を囲み、バシャンの猛牛が私に迫る」と記されているように猛々しくもあり、力のある敵をも象徴する言葉でした。サマリアの裕福な女性達の姿は、バシャンの雌牛にたとえられています。彼女達は弱い者を圧迫し、貧しい者を虐げていました。もちろん女性が直接、公の場に出ることはありませんが、彼女の夫や父親が、弱く貧しい者から搾取した金銭によって、贅沢な暮らしを送っていました。また夫に対し「酒を持ってきなさい。一緒に飲もう」と言うことができる、つまり働くことなく酒を飲める生活を送っていました。これは女性達が一方的に悪かったというのではなく、北イスラエルという国そのものが悪事を働き、怠惰な生活を送ることができる社会構造になっていたのです。
悪徳が栄えている状況に対し、神様の裁きの言葉が語られます。しかも神様は「厳かに誓われ」ます。弱い者を圧迫し、貧しい者を虐げることは、彼らを傷つけることですが、それ以上に神様の前に人間の力を誇ることです。弱者を守ろうとしない者、財力を自ら得たかのように振る舞う者は、自分を中心に生きていることであり、神様に対立する生き方です。神様に背く者として、裁きの言葉が語られます。「見よ、お前たちにこのような日が来る。お前たちは肉鉤で引き上げられ、最後の者も釣鉤で引き上げられる。お前たちは次々に、城壁の破れから引き出され、ヘルモンの方へ投げ出される」サマリア陥落の日、アッシリア捕囚の日のことが語られています。「最後の者も」と語られているように、今は裕福な生活、贅沢な生活を送っている女性達が一人残らず捕虜となり、アッシリアに連れて行かれる惨めな姿、徹底した敗北の姿が明らかにされています。捕虜となった女性達は、アッシリアが破壊した城壁から引き出され、バシャンの北に位置するヘルモン山、アッシリアの支配する土地へ連れて行かれるのです。神様に背いて、貧しい者を犠牲にし、贅沢な生活を送ってきた人々は、神様の裁きを受けることになります。
次にアモスの言葉は、形式的な礼拝に向けられます。そして今まではサマリアで語られていましたが、ここでアモスは、ベテルへ移動したと考えられます。祭りのために集まった人々を前にして、彼は語ります。そこには大勢の人々が集まり、いけにえをささげる煙、パンを焼く匂いが満ちていました。「ベテルに行って罪を犯し、ギルガルに行って罪を重ねよ。朝ごとにいけにえを携え、3日目には10分の1税を納めるがよい。感謝の献げ物に酵母を入れたパンを焼け。大声で、随意の献げ物をする、と触れ回れ。イスラエルの人々よ、それがお前たちの好んでいることだ」ベテルは北イスラエルの最初の王ヤロブアムが、金の子牛を置いて聖所とした場所です。またギルガルにも聖所がありました。聖所に行く、それは礼拝のためです。ところがアモスは「ベテルに行って罪を犯し、ギルガルに行って罪を重ねよ」と言いました。前回も申しましたように、アモスが預言者として召された時、アッシリアは無力な王のために一時的に衰退しており、北イスラエルと南ユダは領土を拡張し、経済的に豊かな時代でした。北イスラエルはヤロブアム?世のもと、この世的な繁栄を謳歌していました。彼らは豊かな財力に従って、神殿へ十分な献げ物をしていました。彼らは朝ごとにいけにえを携え、3日目には10分の1税を納め、感謝の献げ物に酵母を入れたパンを焼き、随意の献げ物をしていました。朝ごとのいけにえとか、3日目ごとの10分の1税などは、聖書に規定がありません。規定がないから献げ物をしてはいけないというのではありませんが、彼らは熱狂的に献げ物をしていました。またレビ記7章に感謝の献げ物として、酵母を入れて作った輪型のパンをささげることが記されていますが、焼いてささげる物ではなかったようです。さらに随意の献げ物をする時、大声で「随意の献げ物をする」と触れ回るような、人目に立つ行動を取っていました。
イスラエルは、神様に対する心からの感謝からではなく、人に注目されたい、人から称賛を受け社会で認められ、自己満足を得たいという思いから、献げ物をしていました。神様は「イスラエルの人々よ、それがお前たちの好んでいることだ」と、彼らの心を見抜いて語られました。彼らは神様ではなく、人間を中心にして礼拝をしていました。アモスは、人間が神様に対していかにあるべきか、その基本を問い質すように厳しい言葉を述べました。礼拝は他人に誇るものでもなければ、自己満足に終わるものでもありません。また献げ物によって神様を味方に付けるもの、いわゆる御利益宗教ではありません。絶対者であり、主権者である神様の前に、私達が畏れをもってひれ伏し、すべてを神様に委ね、神様を賛美する、それが礼拝です。けれどもアモスの時代、イスラエルは神様の恵みを得るために熱心に献げ物をしていました。彼らは神様を追い求めながら、実は神様から遠ざかる道を歩んでいたのです。
4?11節には、最初に述べましたように「しかし、お前たちは私に帰らなかったと主は言われる」という言葉で締めくくられている、5つの警告が記されています。神様が天災などを通して、イスラエルを警告してきた事実が記されています。
第1に神様は「私もお前たちのすべての町で、歯を清く保たせ、どの居住地でもパンを欠乏させた」と言われました。「歯を清く保たせ」とは、飢饉によって食べ物がなくなり、食べることができなくなったために、歯が汚れなかったことを意味しています。第2に神様は「刈り入れにはまだ3月もあったのに、私はお前たちに雨を拒んだ。ある町には雨を降らせ、ほかの町には雨を降らせなかった。ある畑には雨が降ったが、雨のない畑は枯れてしまった。2つ3つの町が水を飲むために、1つの町によろめいて行ったが、渇きはいやされなかった」と言われました。収穫前の雨が降らないと、干ばつに襲われ、それまで育っていた穀物が枯れてしまいます。しかもイスラエルは狭い国土であるにもかかわらず、雨は部分的に降ったり降らなかったりするのです。そこには神様の自由な意志、自然を支配される神様の御力が示されています。あるいは雨が降る町があり、雨が降る畑が残されたのは神様の憐れみであり、悔い改めの機会を与えられたのかもしれません。第3に神様は「私はお前たちを黒穂病と赤さび病で撃ち、お前たちの園とぶどう畑を枯れさせた。また、いちじくとオリーブの木は、いなごが食い荒らした」と言われました。穀物の病気といなごの害は、食糧不足につながります。第4に神様は「かつて、エジプトを襲った疫病を、私はお前たちに送り、お前たちのえり抜きの兵士と、誇りとする軍馬とを剣で殺した。私は陣営に悪臭を立ち上らせ、鼻をつかせた」と言われました。これは、出エジプトのできごとを思い起こさせます。エジプトで奴隷であったイスラエルを助けるために、神様はエジプトに10の災いを下されました。その中には疫病の災いがあり、また最後の災いでは、エジプトの国中の初子、ファラオの初子から奴隷の初子、家畜の初子まで死にました。同じような疫病がイスラエルにもありました。さらに「剣で殺した」とも言われていますので、戦争による被害、多くの兵士や軍馬が死んで、そのまま放置され、悪臭を放つほどの被害がもたらされました。第5に神様は「かつて、神がソドムとゴモラを覆したように、私はお前たちを覆した。お前たちは炎の中から取り出された、燃えさしのようになった」と言われました。これは地震を意味しているのかもしれません。ソドムとゴモラの町が一夜にして消え去ったように、破滅的なできごとが起こりました。そしてイスラエルは、炎の中から取り出された、燃えさしのように、命からがら救い出されました。
これらのできごとすべてが、アモスの時代あるいはその直前に起こったというのではありません。北イスラエルの200年近い歴史の中で、神様の警告としてなされた御業でした。イスラエルの悔い改めを導くために、神様がなされた御業でした。神様の忍耐とイスラエルの頑なさ、それが200年近い歴史の中で明らかにされたのです。しかも、このような警告が与えられたにもかかわらず、イスラエルは神様に帰らなかったのです。飢饉と欠乏もイスラエルを動かしませんでした。干ばつも、イスラエルが自らの状況を見きわめるのに何の助けにもなりませんでした。黒穂病と赤さび病といなごは、穀物をだめにしましたが、イスラエルの目を開くことはありませんでした。疫病や戦争による被害も、イスラエルにとっては無駄でした。ソドムとゴモラの町に起こったような破滅的なできごとにおいてすら、イスラエルは自らの危機的状況を理解することができませんでした。といって、全く何もしなかったというのではないでしょう。それなりに対処はしたでしょうが、それは政治的・経済的な対策、つまり人間の力の範囲内にしか過ぎなかったのです。神の民イスラエルとして、根本的に生き方を変えなければならない、神様に立ち帰らなければならない、そこに目を向けることができませんでした。惰性的な生き方から、自分達を引き離すことができませんでした。
列王記で、イスラエルの王が立てられるたびに繰り返されていた言葉「彼は主の目に悪とされることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪を全く離れなかった」指導者である王が罪から離れることができなければ、民も罪から離れることができません。アモスが預言者として立てられる前に、すでにエリヤやエリシャが遣わされていましたが、イスラエルは神様に立ち帰りませんでした。200年近い歳月、神様に背いて歩いてきた歴史を省みることができませんでした。根本的な問題が、どこにあるかを見きわめることができませんでした。彼らは豊かな財力に従って、神殿へ十分な献げ物をすることが神様に近づく道であると考えていました。神様の御心を尋ね、神様にすべてを委ねて歩むことができませんでした。偶像礼拝の罪から抜け出すことができませんでした。「しかし、お前たちは私に帰らなかった」イスラエルは誤った宗教心に陥り、その頑なさから抜け出る道を見失い、ついに神様に立ち帰ることができませんでした。
 悲惨なできごとを通しての、たびたびの警告にもかかわらず、神様に立ち帰ることのなかったイスラエルに対し、神様はアモスを通して、もう一度、呼び掛けます。「それゆえ、イスラエルよ、私はお前にこのようにする。私がこのことを行うゆえに、イスラエルよ、お前は自分の神と出会う備えをせよ」アモスの目の前にいるイスラエルは、ベテルの神殿で熱心に礼拝をしています。けれども、それは形式的礼拝にしか過ぎません。彼らに対し、神様は「私はお前にこのようにする。私がこのことを行う」と言われました。「このように、このこと」という言葉が、具体的に何を指しているのかは分かりません。イスラエルは神様に期待していました。豊かな献げ物をしている自分達に、神様が恵みを与えて下さることを期待していました。しかし、神様が語るのは裁きです。神様に対する畏れと感謝からではなく、人間中心の礼拝を行っているイスラエル、唯一なる神様を見失ったイスラエルに対する裁きです。そのために「自分の神と出会う備えをせよ」と言われました。
「神と出会う備えをせよ」イスラエルが出会うべき神様は、どのような神様であるのか。アモスは語ります。「見よ、神は山々を造り、風を創造し、その計画を人に告げ、暗闇を変えて曙とし、地の聖なる高台を踏み越えられる。その御名は万軍の神なる主」目に見える山を造り、目に見えない風を創造される御方。自らの御計画を人に知らせる御方。暗闇に光を与える力を持つ御方。イスラエルの王達が築いた聖なる高台を踏み越える御方。すべてを超える御力を持つ御方です。
私達は神様が創造主であり、救い主であることを知らされています。聖日ごとの礼拝において神様を賛美します。礼拝において、私達は神様と新たなる出会いの時を備えられています。新たなる神様との出会い、それは喜びの場です。けれども今日の箇所でアモスが語る出会いは、裁きの時の出会いです。アモスを通して語られた神様の御言葉は厳しいものです。私達は神様に対して、救いと憐れみを求めます。確かに神様は、私達を救われる御方ですが、裁く御方でもあります。私達はともすれば、この神様の厳しさを忘れているのではないでしょうか。礼拝は神様と出会う場です。そして私達が、1週間の歩みを振り返る時です。神の民としてふさわしい歩みをなしてきたか。そのことを神様に、また自身に問い掛ける時です。困難や苦難のすべてが、神様の警告のしるしではありません。けれども自らの歩みを振り返る機会にはなります。「しかし、お前たちは私に帰らなかったと主は言われる」これは、私達の人生における劇的なできごとを考えるために、また今、私達の歩いている道を考えるために、そして私達が初めに喜びをもって信仰を受け入れた時に歩いた道を、なお歩んでいるかを問うために、助けとなる言葉です。もし私達が、自分にとって都合の良い神、自分の願いを満たして下さる神を望んでいたら、それは偶像礼拝の罪に陥る危険性を含んでいます。まず神様の御心が地上に現されることを願う。そのために自らの体を差し出す。礼拝は、そこから始まります。新たなる神様との出会いの場として、喜びの場として、聖日ごとの礼拝を守れるように、日々の歩みの中で、神様と出会う備えを、神様によって整えていただきましょう。

2 Comments:

Anonymous 匿名 said...

神となったイエスの言葉は、聖書の新約にある通りにその時がきたときにわかるものだと思います。聖書では、まさに神の見ざる手が動いてます。聖書の旧約で、言葉はどのように定義されているか調べばわかると思います。イエスラル建国、その後の紛争は、聖書で書かれていることではないですか?また、聖書では王を求めた理由も記されています。
日本も、イスラエルと似た環境にあるのではないでしょうか?北朝鮮のミサイルの問題解決です。聖書では、必ず創造主である神は約束を守っています。神となったイエスは自身
その言葉の重みを知るべきです。ホロコーストで極限の中で創造主に祈りを奉げたユダヤの人々は創造主である神の証であります。それ故にムスリム(イスラム)の尊厳を理解するべきです。旧約でイスラエルの地で2つの部族が起こることが示されています。ナチスはキリスト教を庇護し、ユダヤ教と人々を弾圧した事実は隠せるものではありません。ナチスの失敗は、新約でイエスが語った言葉を正確に解読していなかったからです。現代は神となったイエスがユダヤ人を迫害し続けたましたが、創造主である神がホロコーストでその祈りを聞いて応えられたのは事実でないですか?もし、創造主である神との約束を神となったイエスが破るなら、創造主である神はどうするか聖書をよく読む方ならわかるでしょう?
小松 利行 

12:24 午前  
Anonymous 匿名 said...

訂正
”現代は、”とは、キリストが十字架にかけられからの歴史の時間を指しています。つまり、新約の時代です。
小松 利行

11:19 午後  

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