2007/05/06

07/04/08 イースター説教 復活の証人として M      

2007年4月8日 瀬戸キリスト教会イースター礼拝
復活の証人として     Ⅰコリント書15章12-19節
讃美歌 151,154,158
堀眞知子牧師
イースターおめでとうございます。主イエス・キリストの復活の喜びに、共に与れますことを感謝いたします。「キリスト教は、主イエス・キリストの復活から始まった」と言っても良いでしょう。もちろん神様の御計画、罪に陥った人間を救うという御計画は、アダムとエバが罪を犯した時から始まりました。またアブラハム契約、シナイ契約、ダビデ契約と、救いの契約が結ばれ、神様の救いの御業が明らかにされました。そして人間の目に、はっきりと見えることとして、神様は御独り子イエス様を地上に遣わされ、長くて3年、短くて1年半と言われている、イエス様の伝道生活がありました。弟子達に語られた御言葉と約束があり、御言葉に基づいた3日前の十字架のできごともありました。そういう長い歴史と、2000年前のユダヤの人々が目にした、あるいは耳にした事実はありましたが、12弟子を初めとして、人間はイエス様の語られる御言葉から、まことの救いと、まことの救い主の姿を悟ることができませんでした。主イエスが復活されたことによって、弟子達は初めて、十字架の意味とまことの救いと、まことの救い主の姿を知らされ、同時に「イエスは主なり」という信仰告白へと導かれました。ところで、現代に生きる多くの人々が、キリスト教に対して疑問を持つのは、処女懐胎と復活です。そして復活については、死者が復活するはずはない、だからイエス・キリストが復活したというのは信じられない。これが、現代の一般的な論理でしょう。ところが、初代教会の人々にとって、主イエス・キリストの復活は動かしがたい事実でした。主イエス・キリストの復活は動かしがたい事実であるにもかかわらず、死者の復活については意見が分かれていたのです。
パウロは、コリント教会の人々へ問い掛けます。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」パウロが宣べ伝えてきた福音、それは「キリストは死者の中から復活した」という恵みでした。十字架の死によって人間の罪を贖い、死に打ち勝って復活された主イエス・キリストによって、罪と死からの解放が明らかになりました。ナザレのイエスはキリストである、という福音が明らかにされました。福音の中心は、主イエス・キリストの死と復活であることは、初代教会において認められていた事実でした。ところが「キリストは死者の中から復活した」という福音を信じているにもかかわらず、コリント教会の一部の人々は「死者の復活などない」と主張していました。つまり「確かに主キリストは復活された。しかし私達人間には復活などない」と彼らは主張していたのです。主キリストの復活は事実として信じても、死者の復活を信じることができませんでした。主暦50年頃に記されたテサロニケ信徒への手紙一4章には、終末との関係において、すでに眠りについた人々への心配が記されています。初代教会において、主の再臨は近い将来のことでした。ですから主の再臨を待たずして、眠りについた人々はどうなるのか、ということが心配でした。それに対してパウロは「神は、イエスを信じて眠りについた人達をも、イエスと一緒に導き出して下さいます」と述べています。それから約5年後のコリント教会においては、死者の復活そのものが問題になっていました。死者の復活を否定する人々に、パウロは「どういうわけですか」と、その根拠を問い質します。パウロにとって、主キリストの復活とキリスト者の復活は、分けて考えることのできないものであり、両者は福音において表裏一体でした。主キリストの復活の結果として、キリスト者の復活が約束されています。ですからパウロは語ります。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」「死者の復活などない」と主張している人々に「死者が復活しないのなら、あなたがたが信じている、当然のこととしている、主キリストの復活もない」とパウロは断言しています。
さらにパウロは「そして、キリストが復活しなかったのなら、私達の宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」と断言します。パウロが「私達の宣教」と語っているのは3-4節に記されているように「キリストが、聖書に書いてあるとおり私達の罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり3日目に復活したこと」という福音です。使徒は主キリストの復活の目撃者であり、証人です。主キリストの復活を否定するならば、使徒の宣教は実質を伴わないもの、根拠のないものとなります。実質を伴わないもの、根拠のないものであれば、使徒の宣べ伝えられた福音に立つ、コリント教会の信仰そのものも実質を伴わないもの、根拠のないものとなります。8節に「そして最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました」と記されているように、パウロ自身が、主キリストの復活の証人でした。イエス様が十字架にかかられて、3日目に復活された。これがパウロにとってすべてでした。パウロは、動くことのない根拠として主キリストの復活を述べ、主キリストの復活に基づいて、死者の復活について語ります。パウロは主キリストの復活の証人として、死者の復活について確信を語ります。それは同時に、主キリストの復活についての確信を語ることです。死者の復活を否定したら、主キリストの復活も否定されることになります。主キリストの復活が否定されれば、信仰生活はすべてむなしいものとなります。主キリストの復活は、イエス様の十字架の死と同じように、神様の御業であって動かすことはできません。
そして、主キリストの復活が否定されるなら、使徒は「神の偽証人」と見なされることになります。パウロは「私達は神の偽証人とさえ見なされます」と述べています。この言葉も、ともすれば何気なく読んでしまいますが、単なる偽証人ではありません。「神の偽証人」なのです。神様の存在は当然の前提とされた上で、人間に対して嘘をついたというのではなく、神様に対して偽証人となる、とパウロは述べています。その理由として「なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証をしたことになるからです」とパウロは語ります。使徒はキリストの死と復活の事実に立って、福音を宣べ伝えてきました。もし死者の復活が否定されるなら、神様が復活させなかった主キリストを、神様が復活させたと証言していることになります。神様に逆らって主キリストの復活の証人として、宣教の業を続けてきたことになり、使徒は「神の偽証人」とならざるを得ません。逆に人々が「死者の復活などない」と嘲笑っても、神様が支持して下さるなら、伝道はむなしいものではありません。
パウロは16節で13節と同じ内容を繰り返します。「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです」死者の復活を否定するなら、コリント教会の信仰はむなしいものであり、希望を持つことができません。パウロは語ります。「そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」主キリストが復活されなかったなら、使徒の宣教はむなしいものとなり、それに立つコリント教会の人々の信仰もむなしいものとなり、実を結ぶことなく、罪の中にとどまり続けていることになります。イエス様は私達の罪の贖いのために死なれたと同時に、罪に打ち勝って復活されたからこそ、私達は罪から解放されたのです。主キリストが復活されなかったら、福音に私達を救う力はありません。私達は罪の中をさまよい続けなければなりません。神様との和解はなく、神様との契約関係の中に生きることはできません。
主キリストが復活されなかったとしたら「キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまった」ことになります。主キリストを信じて、地上の旅路を終えたキリスト者が、コリント教会にもいました。彼らは主キリストの御復活と、自分の復活を信じて眠りにつきました。けれども主キリストの復活が否定されるなら、彼らは死の瞬間に滅んでしまったことになります。そうするとキリスト者は、死後に対して何の望みも持つことができません。主キリストの復活がなければ、十字架は無意味なものとなり、罪の赦しはありません。主キリストを信じて眠りについた人々は、救いを得ることがなく、滅び去るだけになります。罪は死と結び付いています。罪に打ち勝つことがなければ、死の支配から逃れることはできません。主キリストの十字架と復活を通して、神様は罪と死を滅ぼされました。死に打ち勝つ信仰は、罪に打ち勝つ信仰です。主キリストにあって眠った人々は、主キリストの復活を信じ、それゆえに、自らの復活をも保証されたのです。主キリストの復活は、人間の復活のために、それを目指してなされた神様の御業です。
ローマの信徒への手紙10章において、パウロは「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」と述べています。人間の復活を信じなければ、主キリストの復活を否定することになり、それは主キリストを信じないことになり、その人には救いがありません。イエス様は私達の身代わりとして十字架の上で死なれ、それによって私達の罪は贖われました。けれどもイエス様の死も、復活という事実がなければ、その目的を果たすことができません。罪人を救うのはイエス様の教えではなく、復活の主キリストの力です。私達の救いは、主キリストの復活にかかっています。主キリストの復活がなければ、私達の救いはあり得ないし、教会もキリスト教も成り立ちません。さらにパウロは「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、私達はすべての人の中で最も惨めな者です」と述べています。主キリストの十字架の死による罪の贖い、復活が語られたとしても、主キリストの復活にキリスト者が与れないとしたら、主キリストに対する望みは、この世だけのものであり、死後に希望が持てないキリスト者は「すべての人の中で最も惨めな者です」とパウロは断言しています。
 瀬戸キリスト教会でも、すでに2名の方が眠りにつかれました。キリスト者でない者も「永眠」というふうに「眠り」という言葉を使います。けれども「永眠」という言葉は永遠の眠りを意味しますが、私達は永遠に眠り続けるのではありません。キリストを信じて眠りについた人々には、眠りから覚める時が来ます。終末の時であり、主の再臨の日です。私達が信じている復活は、不老不死とか霊魂不滅ではありません。主キリストの復活に基づく、死者の復活です。主キリストが肉体をもって復活されたように、私達も肉体をもって復活します。神様は主キリストを復活させられたことにより、キリスト者の復活をも約束されました。主キリストの復活は、歴史の中に現された神様の御業です。イエス様の十字架の死によって人間は罪を贖われ、復活を通して、神様は罪の中にある人間を自由にし、救われました。神様との契約の中に生きる、新しい生命を与えられました。主キリストの復活を否定するなら、信仰は全くむなしいものとなります。主キリストは死に勝利し、死を克服された御方であるがゆえに、主キリストの死は罪に対する死でもあります。そして主キリストの復活によって、キリスト者の新しい生活が開かれます。死は決して終わりではないのです。
死が終わりでないことを信じるか信じないかで、与えられた地上の生活は全く異なります。命ある者は死を免れることはできません。死は誰にも訪れます。死を免れることはできない、という事実を前にして、どのように生きるのか。ここにキリスト者とそうでない者の生き方の違いが出てきます。キリスト者でない者は、死のことなど考えずに目先のことのみで生きる、つまり人生をごまかして生きるか。または、自分だけは死なないという錯誤に陥って生きるか。あるいは、死を考えて絶望に陥るか。そういう生き方にならざるを得ません。しかし、キリスト者には死者の復活を信じて、希望をもって与えられた地上の生涯を歩む道が備えられています。希望は人間に力を与えます。主キリストの復活は私達の復活を約束するがゆえに、この世を生きる力を与えます。私達は揺らぐことのない希望を抱いて、罪から解放された喜びの中に生きることができます。死者の復活を信じることによって、信仰生活は豊かなものとなります。生きていることに、意味と目的と希望があたえられます。主キリストの復活は、勝利と喜びの訪れです。主キリストの復活は、罪と死の中にある人間を解放しました。福音の中心である罪からの救いは、主キリストの復活に根拠を持ちます。そしてキリスト者は、主キリストの復活の証人として召し出されています。
確かに私達は、ペテロを初めとする12使徒のように、生前のイエス様にお会いしたことはありません。パウロのように、復活の主イエスから使徒として召し出されたのでもありません。けれども3節に「もっとも大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです」と記されているように、2000年前の使徒が目撃し、証人として伝えてきたことを、代々の教会が伝え続け、現代の日本に生きる私達に告げ知らされました。代々の教会が伝え続けてきた福音を受け取り、信じる者へと変えさせていただきました。私達は今、神様の真実の証人として召し出され、主キリストの復活の証人として立たされ、この地に遣わされています。私達がキリスト者として召された、この事実は神様の御業であり、日本の宗教的環境を考えるなら奇跡です。なにゆえに私達がキリスト者として召し出されたのか、その理由は分かりません。理由は分かりませんが、神様から与えられた、限りある地上の歩みの中で、主キリストの復活の喜びを知らされ、喜びを宣べ伝える者、証する者とされています。もちろん、私達にも世にある者として、困難や苦悩はありますが、それにまさる希望を与えられています。主の再臨の日への希望です。主の再臨の日に肉体をもって復活し、主イエス・キリストと顔と顔を合わせることができるという希望です。また同じ信仰に生き、信仰を持って眠りについた人々と、時間と空間を超えて会うことができるという希望です。私達は主の再臨の日に、パウロにもペトロにも会うことができます。名前も知らない、存在さえ知らなかった代々の聖徒達と、主にある兄弟姉妹として親しく出会うことができます。死を超える希望を与えられています。復活の希望を与えられた群れとして、主の再臨の日を望み見つつ、主の復活の証人として、伝道の使命を委ねられた、この地にあって歩ませていただきましょう。