2007/03/18

07/02/25 恵みの賜物 T

恵みの賜物
2007/02/25
ローマの信徒への手紙5:15~21
 ある作業所が労働基準監督署から最低賃金を守っていないと指摘されました。福祉施設である作業所には最低賃金が適用されないとされていましたが、行政当局は労働の場と見なせる作業所には労働基準法を適用する姿勢を示しました。
 作業所の中には障害者の施設が労働基準法の適用除外になるのを利用し、障害者を搾取していた例も少なからずありました。障害者自立支援法を有効に機能させるためには障害者を労働者と見なし、労働三法を適用させる必要があります。
 作業所が福祉の場であることが障害者の自立を妨げてきました。作業所が雇用主としての自覚を持たず、障害者も労働者としての自覚を持てない環境が温存されてきたからです。障害者側にも雇用されにくいという事情がありました。
 障害者の生産性が低いのを口実にした差別があるのは事実ですが、生産性が低い部分を行政側が援助することを怠っていた面もあります。障害者には障害年金が支給されているのを口実にし、低賃金を強要してきた施設は少なくありません。
 労賃に障害年金を加算したのが賃金として支給されるのが常識化していたようですが、障害年金と労賃は別枠で支給されるべきものなのです。最低賃金が適用されれば賃金に障害年金を加わえれば自立できる障害者が増えてくるでしょう。
 福祉施設には利用料が入るのですから民間並みの生産性が必要ないはずでし、企業ならば障害者の雇用には助成政策がとられています。最低賃金、時給600円余りを支給できないはずがないと思いますが、必要ならば補助を考えるべきです。
 障害者を一人の労働者、一個の人格を持った人間として扱ってこなかった社会に責任があります。欧米諸国ならば障害を理由にして最低賃金を支払わなければ重大な人権侵犯と見なされます。日本も少しは先進国に近づいたともいえます。
 ノーマライゼーションとは障害者も健康な者も社会を構成する一員と見なすことから始まります。障害があるから社会参加できない社会を変革する必要があるのです。障害者にも人間として、一労働者としての権利と義務があるのです。
 日本では障害者の人格を無視する風潮がありました。理由のない差別が障害者の自立を妨げてきました。障害がある人にも対応できる社会は老人にも優しい社会であり、子供にも優しい社会なのです。総ての人に優しい社会なのです。
 日本では障害者の基本的人権が認められない時代が続きました。「福祉はただの世界」は障害者から「自己決定、自己責任」の能力を奪い去ってきました。障害者の労働を正当に評価しない世界は障害者に自立の機会を与えない世界です。
 行政当局が作業所にも労働基準法を適用させる意思を表明したのは画期的な出来事です。福祉施設に障害者を一人の人間として対応することを求めたからです。福祉施設の福祉依存を許さない行政の姿勢は頂門の一針の意味を持つからです。
 福祉の現場では障害者を子供扱いしているところもあります。ある施設では成人の障害者を家の子供達と表現していました。クリスチャンの職員でさえこのレベルです。障害者を一人の人間として認めさせるためには意識改革が必要です。
 一人の人「最初の人アダム」が犯した罪、善悪を知る木から果実を取って食べた罪は全人類に死をもたらしました。神を羨む心は人間に人を羨む心、隣人を貪る心を生じさせました。しかし一人の人「最後の人イエス」の十字架での死と甦りで示された罪の贖い、恵みの賜物は多くの人に豊かに注がれるているのです。
 恵みの賜物は罪を犯した最初の人、アダムによってもたらされた罪の世界とは異なります。裁判では罪を一つでも犯していれば有罪の判決が下されますが、恵みが働く時にはいかに多くの罪を犯していても無罪の判決が下されからです。
 「最初の人アダム」が犯した罪を通して死が人間を支配するようになったとすれば、恵みの賜物と義の賜物とを豊かに受けている人間はイエス・キリスト、新しい人類の代表「最後の人キリスト」を通して永遠の生命に繋がれるのです。
 一人の人の罪、不従順によって総ての人が有罪、罪人とされたように一人の人の正しい行為、従順によって多くの人が無罪、義、正しい者とされるのです。人間は死ぬ者とされましたが、義の賜物により永遠の生命を得る者とされたのです。
 律法が人間の世界に入り込んできたのは人間の罪が増し加わるためでした。なぜなら律法、罪の基準が神から与えられていなければ人間は罪を犯したことにならないからです。律法は人間に罪の自覚を促すために与えられたものだからです。
 しかし罪が増し加わったところには恵みがなお一層満ち溢れるのです。罪を自覚した人間でなければ恵みの賜物により罪の赦しを自覚することができないからです。罪が増し加わわれば恵みはさらに満ち溢れるという逆説が成り立つのです。
 こうして罪が死を通して人間の世界を支配していたように、恵みも義によって人間の世界を支配するのです。「最初の人アダム」により人間の世界に死がもたらされましたが、「最後の人キリスト」により人間は永遠の命に導かれるのです。
 「最初の人アダム」はエデンの園で満たされた生活を送っていたのにも拘わらず、神のように善悪を知る者となりたくて禁断の木の実を食べました。アダムの神を羨む心が神から与えられた戒めを破らせたのです。人間が神から与えられた戒めを最初に破った瞬間です。人間の世界に死が入り込んだのはこの時からです。
 アブラハムの召命から1500年後にモーセに律法が与えられました。この間は律法のない時代、罪が罪として認められない時代でしたが、人間を死が支配しました。「最初の人アダム」が犯した罪、神を羨む罪、人を羨む罪によるのです。
 しかし「最後の人キリスト」の十字架での死と甦りより人間の罪は贖われたのです。アダムの犯した罪は帳消しにされたのです。恵みの賜物により死が支配する世界、罪の世界から永遠の命に導かれる世界、神の世界へと移されたのです。
 『私たちの国籍は天にある』のです。地上を支配しているのは罪の世界です。恵みの賜物でも人間の世界から死を取り除くことはできませんが、永遠の命を与えることができるのです。肉体の不老不死ではなく神に属する生を与えるのです。
 律法は罪を明らかにしましたが、罪から救われる道を示していません。律法は罪の自覚を促しましたが、罪から救われる道を示せませんでした。人間は律法を守らなくてはならないが守りきれないという隘路に落ち込んでしまいました。
 ユダヤ人は救いの道を個人の努力や精進に求めましたが、律法を守りきれないことは明らかです。主の十字架での死と甦りのみが救いへの道に繋がるのです。
 恵みの賜物は罪とは比較になりません。「最後の人キリスト」の救いの御業は「最初の人アダム」の犯した罪を贖って余りあるからです。教会はアダムの罪を原罪と表現してきましたが、人間の神を羨む心、人を羨む心を指しています。
 人間の人を羨む心の裏返しが人を差別する心です。例えば障害者差別を肯定する人はほとんどいませんが、社会の中では障害者差別は日常的に行われています。西欧ではノーマライゼーション、障害者が社会の構成員として普通に生きられるのが常識だそうですが、長い歴史の積み重ねがそれを可能にしているのです。
 熊沢先生がドイツの障害者の町、ベテルについて話してくれました。ベテルは神の家という意味です。ヤコブが御使いが階段を上下する夢を見たのが由来です。ベテルでは障害者があらゆる分野に進出しているそうです。社会システムが障害者が社会生活を送る中で障害を意識しなくてもよいようにできているそうです。
 町を案内してくれた人も障害者なのですが、ベテルの町の宝だと紹介してくれた人は芋虫のように手足がない人だったそうです。障害者の町だからといっても言い過ぎだと思ったそうですが、ナチスから障害者の抹殺を命じられたベテルの人たちがその人の命を守れ!を合い言葉にして障害者を守り通したそうです。
 ナチスはユダヤ人だけではなく障害者も虐殺、ホロコーストにしたのです。ナチスの優生思想ではユダヤ人、障害者の劣悪な遺伝子を人類から排除するのが正義だからです。ベテルの町の人は自分たちの命を懸けてそれに抵抗したのです。
 ナチスにもクリスチャンは多くいました。ホロコーストを正義だと信じ実行した人もいましたが、ホロコーストをサボタージュする人もいたのでしょう。ベテルの町の住民をホロコーストにするのはさすがに躊躇われたのかも知れません。
 ベテルの町は生き残り、福祉の町として世界に知られるようになりました。ベテルの町の人はキリストに倣う者、主の愛を実践する者として生き抜いたのです。彼らは死を恐れませんでした。肉体の死よりも永遠の命の方を選んだからです。
 戦争は人間を悪魔にもするし、天使にもするのです。ホロコーストを実行したのも人間ですし、ホロコーストに抵抗したのも人間だからです。人間である限り罪の支配から逃れられませんが、恵みの賜物が人間を罪から解放させるのです。
 ユダヤ人はナチスを決して許しません。イスラエルの情報機関モサドは現在でもナチス狩りの手を緩めません。律法の世界には赦しがないからです。罪は3,
4代に及ぶのです。罪を犯した人間は罪を償わなければ赦されないのです。
 一方恵みの世界、恵みの賜物が豊かに注がれている世界ではキリストの愛と恵みにより赦しが得られるのです。人間の意識の奥底には罪が渦巻いています。人を羨み、差別する心は誰にもあるからです。罪のない御方はキリストただ一人なのです。人間は恵みの賜物に縋り付くしか罪から逃れることはできないのです。
 恵みの賜物は私たちの罪を贖うだけではなく、生きる喜びも与えてくれるのです。罪の支配から恵みの支配へ移されることは死に対する恐れが永遠の命へ至る喜びに変えられることを意味するからです。恐れが喜びに変えられるのです。
 罪が死によって支配されていたように、恵みは神の義によって支配されているのです。「最初の人アダム」の罪は人間の罪ですが、「最後の人キリスト」の愛は神の愛です。人間の罪は神の愛に覆われるのです。永遠の命へと導かれるのです。
 恵みの賜物は私たちに永遠の命を与えてくれますが、不老不死の身体を与えてくれるのではありません。人は老い、死んでいくのが自然の摂理だからです。私たちの肉体は朽ちても、甦りの命が与えられているのです。『私たちの国籍は天にある』のです。キリストが救い主として私たちを迎えに来てくださるからです。
 死は終わりではありません。死の向こうには甦りの命があるからです。私たちをキリストが迎えに来てくださるからです。私たちは既に天に召された人たちと兄弟姉妹となりますが、天では人間の想像を超えた存在に変えられるのでしょう。
 人間は死を避けられませんが、古代から不老不死の妙薬を求める無駄な努力がなされてきました。もし人間が不老不死の妙薬を手に入れたとしたら、むしろ不幸な人生が待ちかまえています。「彷徨えるオランダ人」のように彷徨い続けなくてはならなくなるからです。肉体の死は生ける主からの贈り物なのです。
 医学の進歩が人間に与えた恩恵は計り知れませんが、人間の尊厳を保ったままでの死を迎えにくくしました。ホスピスのように死を安らかに迎えられる施設が必要とされています。死は総ての終わりではなく天での生活の始まりだからです。
 死を畏れる心は人間の本能から来ています。人間以外の動物は死を避けるために恐怖を抱きますが、死後の世界を想像し、畏れることはありません。宗教心は人間に固有な心です。『人間は神にかたどって創造された』ので人間だけが神様と心が通い合うことができるのです。真の神を知ることが赦されているからです。
 人間が死後の世界を意識できるようになり、初めて神を意識できるようになりました。エデンの園での満たされた生活では主なる神を神として意識できなかったでしょう。アダムの犯した罪により罪が人の世に入り込んだという創造神話がバビロン捕囚時代の民に死こそ信仰の原点であることを思い起こさせたのです。
 私たちは本能的に死を畏れますが、むしろ死は新しい生への旅立ちなのです。教会は天国への旅立ちを待つための待合所なのです。私たちは甦りの命を想像できないから不安に駆られるのです。天国に対する不安を希望に変えるのが教会ですが、地上の歩みに希望を与え、日々の生活を充実させるのも教会の役割です。
 教会は神の国の雛形でしかありませんが、神の国の先取りともいえます。教会生活に喜びを感じられないのならば何処かが間違っています。教会も人間の集まりですから完全ではありませんが、完全になろうと努力し続けているからです。
 信仰生活には王道はありません。一人一人の信仰は個性的なものですが、教会生活を重ねる中で折り合いが付いてきます。「こうあらねばならない」という信仰は個人だけではなく教会にも緊張をもたらしません。「これでも良いのかもしれない」という信仰は寛容を生み出します。教会生活に必要なのは寛容な心です。
 『私たちの国籍は天にある』のですから地上の生活も天に繋がるのです。死は乗換駅にすぎません。乗車券、恵みの賜物はキリストの恵みにより私たち一人一人の手に既に配られているのです。永遠の命へ至る線路は目の前に敷かれているのです。待合室、教会では旅立ちの支度を調えた兄弟姉妹が賛美をしています。
 私たちに必要なのは信仰、『イエスは主である』を信じることだけです。後は生ける主に総てを委ねれば良いのです。恵みの賜物は主を信じる者には無条件で与えられるからです。主イエス・キリストを通して永遠の命に導かれるからです。