2007/03/27

07/03/18 キリストと共に生きる M

キリストと共に生きる
2007/03/18
ローマの信徒への手紙6:1~11
 万波医師の病腎移植に対してい宇和島徳洲会病院の調査委員会は肯定的な調査結果を、移植学会などは否定的な見解を発表しましたが、第一線の現場で働く臨床医と学界の権威者との見解が相反したのは予想されていたとおりでした。
 学会は病腎移植を不適切と決め付けました。厚労省も学会の見解に沿った規制をすると予想されますが、人工透析で苦しんでいる患者の声に応える姿勢が見られません。死体腎移植は希望者15000に対し150例、100人に1人だそうです。
 日本では死体腎移植の可能性がないに等しいので外国で生体腎移植を受ける患者が増えてくるでしょう。フィリピンでは生体腎移植が国を挙げて制度化されそうです。日本では生体腎移植ビジネスが闇の世界で活況を呈しているそうです。
 患者には腎臓移植が究極の治療です。人工透析患者30万人の多くは糖尿病の合併症から腎不全になった人たちですから、週3回の人工透析を受けに行くための肉体的な負担は想像を絶します。国の経済的な負担も少なくありません。
 経済的なゆとりのある患者だけが国外で生体腎臓移植を受けられるとすれば、2重の意味でモラルハザードが起きます。富める者だけが生体腎移植を受けられるとすれば、日本の皆保険制度、平等主義が根本的に否定されるからです。
 中国では売血によりエイズが拡がっています。汚染された医療器具による採血がその原因です。地方の権力者が住民から強制的に血を集めているからです。生体腎臓が表のマーケットに載ればこの様な様々な弊害が出てくるでしょう。
 日本人はアジアの国々から吸血鬼だと非難されかねません。お金さえ出せばリスクは貧しい国負担の生体腎移植は札束で頬を叩く式の買収であり、かつてのエコノミックアニマルを連想させます。自己努力なしには許されない行為です。
 臓器移植の機会を増やすためには死体腎臓移植を増やさなければなりませんが、臓器提供者を増やすための努力がなされていません。病腎移植を否定するのではなく第3の道として活用できるように論議を積極的に積み重ねるべきです。
 移植学会には死体腎移植が100人に1人しか施されない現状を放置してきた責任があります。人工透析患者30万人の1/20しか移植希望者がいないのは移植学会が機能を果たしていないからです。150名しか移植できないのは異常です。
 移植学会の主張は正当でしょうが、移植の現場を無視した暴論です。例えば2つの内の一つ腎臓にガンが発見されたら摘出を望む患者は少なくないでしょうし、ガン細胞を除去した腎臓の移植を望む患者も少なくないでしょう。
 前者はガンの転移のリスクを避けるためですし、後者はガンのリスクよりもQOL、生活の質の向上を望む患者です。リスク管理は自己決定、自己責任です。QOLが低下した患者がリスクを冒して病腎移植を望む場合もあり得ます。
 移植学会、厚労省は病腎移植を健康者の論理で裁こうとしていますが、患者の論理で裁かれるべきです。医者や行政が患者の自己決定権を侵すのは許されません。病腎移植によるQOLの向上に伴うリスク管理の決定権は患者にあります。
 『恵みが増すようにと罪の中に留まるべきだろうか』は「恵みは罪よりもはるかに大きいのだから罪を犯し続ければ恵みも増し加わわる。さらに罪が恵みに働く機会を与えるとすれば、罪は恵みを生じさせるがゆえに罪は素晴らしいものである。もし罪が恵みを生じさせるのならば罪は素晴らしいものである」という論理を弄ぶギリシア人らしい屁理屈ですが、パウロは『決してそうではない』、罪に対して死んだ者がどうしてなおも罪の中に生きられるのかと反論しています。
 パウロはキリスト者がキリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた事実を思い起こさせています。受洗はキリストの十字架での死と甦りに与らせるからです。罪に支配された身体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないからなのです。
 私たちは洗礼を受けることによりキリストと共に葬られ、その死に与る者となりました。初代教会における洗礼では受洗者は水の中に完全に沈められました。罪に支配された身体が一度死ぬのです。そしてキリストが父の栄光により死者の中から復活させられたように新しい命に生きる者へと変えられたのです。主と一体になり、その死にあやかれるのならばその復活の姿にもあやかれるのです。
 私たちの古い自分がキリストと共に十字架に付けられたのは罪に支配された身体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであるからです。私たちがキリストと共に死んだのならば、キリスト共に生きることになると信じていたからです。
 洗礼はユダヤ人にもギリシア人にも新しい命を得られる儀式として理解できました。異邦人がユダヤ教に改宗する時には犠牲、割礼、洗礼が求められました。洗礼式では3人の司式者の前で信仰告白を行い、勧めと祝祷が与えられました。受洗者は新しく生まれたばかりの新生児と呼ばれました。彼の生まれる前に犯した総ての罪は赦されました。彼は変化しただけではなく新しい人、異なった人とされたからです。洗礼を経て改宗者としてユダヤ人社会に受け入れられたのです。
 一方ギリシア人にも理解できたと思われます。当時のギリシア宗教では密議宗教が大きな影響を持っていたからです。密儀宗教ではこの世の心配、悲哀、恐怖からの解放がある神と一つになることにより得られるのです。密儀では神の物語、苦しみ、死、甦りを激情を持って演じられるのです。参加者は密儀の中でエクスタシー、神秘的な恍惚に陥るのです。参加が劇を見るためには禁欲的な修養の過程を経ることが必要でした。密儀の中で神と一となる情緒的体験を経験したのです。入信式は新生を伴う「自発的な死」と考えられ、永遠の中に新生したのです。
 いずれにしろ洗礼はユダヤ人にもギリシア人にも想像できたでしょうが、キリスト教における洗礼はキリストの十字架での死と甦りに与る点で全く異なるものでした。論理の世界を超越した生ける神の秘儀、サクラメントであるからです。 アポロでさえもヨハネの洗礼、悔い改めの洗礼しか受けていませんでした。初代教会でも父と子と聖霊の名による洗礼を受けていない信徒もいました。キリスト・イエスに結ばれる洗礼、神に対して生きるための証しが必要とされたのです。 パウロは三位一体の神の名による洗礼が従来の常識とは異なり、全く新しい意味を持つことを明らかにしました。洗礼は主の十字架での死と甦りに与る点において生ける神の秘儀、サクラメントであるからです。洗礼を受けることは神の国に住人登録をすることです。神の国のパスポートが交付されることになるのです。
 プロテスタント教会では洗礼と聖餐がサクラメント、聖礼典とされています。聖礼典は教会の生命線です。教会と他の宗教とを区別するのは聖礼典です。代々の教会が命を懸けて聖礼典を守り抜いてきたからです。私たちの教会では洗礼は額に水を付けるだけの滴礼で行われますが、体を水に沈めるのを省略したのです。
 洗礼式では水に浸された時に罪が支配している体は死に、水面から起こされる時に新しい体に生まれ変わるのです。信仰のない人から見れば額に水を付けるだけの儀式に過ぎませんが、そこに十字架の死と甦りに与る業を見るのが信仰です。
 聖餐式もパンとブドウ液を飲み食いするだけですが、特別なパンやブドウ液ではありません。スーパーで売られている普通のパンとブドウ液です。聖餐式のパンは十字架に付けられた主の身体を、ブドウ液は主の血潮を意味しますが、牧師に聖別されただけに過ぎません。主の十字架を記念して飲み食いするだけです。
 しかし、聖礼典は按手を受けた牧師だけに赦されるものです。使徒ペテロから伝えられてきた聖霊が2000年間、絶えることなく伝えられてきたのです。聖霊は代々の教会で執行された按手礼により伝えられてきました。現代科学の常識からすれば、唯物主義者から見ればバカではないかと思われることこそが信仰の原点なのです。信仰の世界と科学の世界とは異なる言語で表された世界だからです。
 19世紀の物理学者はニュートン力学で宇宙の本質を解明できたと考えていましたが、20世紀に入り新しい物理学、相対性理論、量子力学などがそれが人間の傲慢であることを明らかにしました。宇宙の始まりから量子の世界までを見れば質量、時間、空間、エネルギーの本質について分からないことだらけです。
 私たちが理解できるのは私たちの住んでいる世界、私たちが手で触り、目で見ることのできる世界にしかすぎません。父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神、三位一体の神は人間が知覚できない存在ですが、聖礼典を介して人間が知覚できる存在へと変えられるのです。信仰の世界と現実の世界とを結ぶのが聖礼典です。
 洗礼式は現実の世界から信仰の世界へ旅立つ出発式です。神の国に到着するまでには山あり谷ありです。様々な景色の中を暖かい春の日も、暑い夏の日も、つるべ落としの秋の日も、寒い冬の日も走り続けます。時には脱線しかかる時もあるでしょうが、主は電線、教会を通じてエネルギーを送り続けてくださります。
 聖餐式は生ける主との交わりを確認する場です。主の十字架での死を記念するためにパンとブドウ液を味わうのです。主の臨在を舌の感覚を通して具体的に確認するのですが、信仰のない者にはただのパンとブドウ液でしかありません。
 聖餐式は信仰を告白した者のみが与れる信仰の秘蹟、サクラメントなのです。聖餐式に誰でもが与れるようにすれば聖餐はサクラメントではなくなります。パンとブドウ液のでる愛餐会、十字架での死を記念する会に過ぎなくなるからです。
 信仰の世界の儀式にはそれぞれ固有の意味があります。常識の世界とは異なる秩序が支配する世界だからです。信仰を口で告白するのにも神学的な意味とは違う意味があります。信仰が内なる世界だけではなく外なる世界に連なるからです。
 信仰の世界を非科学的だと否定するのは信仰の世界を科学の世界の言語で表現しようとするからです。サクラメントは神の臨在を五感で感じるためにあるのです。異次元の世界を人間に理解させるために必要な儀式として発達したのです。
 私たちは洗礼を受けた時にキリスト共に死にキリストと共に甦ったのです。罪が支配する身体は滅ぼされたのです。洗礼を受ける前と後では同じ身体であっても質的に違う世界を生きるのです。私たちにはどこかで過去を断ち切る必要があります。過去に捉われた生き方から未来志向の生き方に変わる必要があるのです。
 人間の生き方は千差万別なのは当たり前ですが、人生の目標を何処に置くかで決定的な差が生じます。人生を順風満帆で過ごせる人は僅かです。何処かで嵐に出会う時が必ずあります。嵐を避けられればよいのですが難破する時もあります。人生をやり直したいと思う時はしばしばありますが、時間は逆戻りしません。
 洗礼を受ければ人生をやり直す、人生をリセットすることができます。洗礼は過去を総て主に委ねるからです。過去を消し去り、現在抱えている様々な問題を取りあえず消去します。未来への第一歩を洗礼、新しい出発点から始めるのです。
 主に総てを委ねれば、意外と現実的な解決策が見つかるものです。未来に対する恐れが不安を招いている場合が良くあるからです。信仰は未来に対する不安を解消してくれます。主に重荷を委ねれば、主が重荷を担ってくださるからです。
 信仰が現実を変えるのではありませんが、現実を受け入れる姿勢が変わるのです。例えば信仰で総ての病気が癒される、奇跡を起こせると信じる信仰には違和感を覚えますが、信仰は病気と闘う力、病気に耐える力を与えてくれます。
 医療は人間に与えられた賜物ですから、人間には医療を活用する義務があります。病気や障害は本人の責任ではありませんが、健康になるための努力を放棄するのは本人の責任です。健康にならない場合もありますが、それは御心なのです。。
 心身の健康だけが人生の目的ではありませんが、健康を保つために努力をする必要があります。しかし、いかに努力しても人間の寿命は110歳を超えられません。人間は神の国へと続く長い道のりを死に向かい歩み続けるしかないのです。
 不老不死の妙薬を古今東西の権力者が求めましたが、死ねないのは拷問に等しいことを忘れています。彷徨えるオランダ人のように時代を超えて生き残ることは人間には耐えらません。親族、友人が死に絶えても生き残るのは不幸でしょう。
 健康、長寿を願うのは人間の自然な感情ですが、健康でなければならない、長生きをしなければならないと思うのは人間の傲慢です。人間は与えられた人生を喜びを持って生きるべきです。健康、長寿は神の領域に属することだからです。
 心身の健康が幸せの条件と考えている人が多いのですが、希望を持って生きられることが幸せの条件なのです。病気、障害を持ちながらも幸せな生活を送っている人はたくさんいます。現代人は健康強迫症に罹っているようです。神様から与えられた体の維持、管理は人間の義務ですが、それ以上は神の領域だからです。
 イエス様は『明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である』と言われました。明日ではなく今日を精一杯に生きればよいのです。長い人生も今日の積み重ねの上にあるからです。
 『私たちの国籍は天にあります』から地上での歩みの終わり、死が終着駅ではありません。神の国への乗換駅にすぎないからです。例え地上の歩みが恵まれないものであっても、神の国では永遠の命に与れるのです。神の国を仰ぎ見ながら現在を希望を持って歩み続けることが必要なのです。主が共に歩まれるからです。