2007/01/21

07/01/21 キリストの血によって義とされる M 

キリストの血によって義とされる
2007/01/21
ローマの信徒への手紙5:6_11
現在の政治状況では古い自民党と古い民主党との対決になり、小泉改革に新しい政治を期待した層が参議院選では棄権に回る公算が高いと思われます。小泉劇場とも揶揄されましたが、浮動票を掘り起こした功績は高く評価されるべきです。
 森元首相はかつて無党派層の若者は寝たままでいて欲しいとの暴言を吐きましたが、自民党は公明党の組織力に頼り、投票率を下げようとする戦術を取る気かも知れません。民主党の組織力のなさを付く戦術なのかも知れませんが姑息です。
 安倍首相は祖父の岸元首相が安保反対の国民的な運動の盛り上がりを無視して安保条約を改定したのを真似ようとしているのかも知れません。安保反対の数十万のデモに取り巻かれた国会での岸元首相の決断を尊敬している孫だからです。
 安倍首相は憲法改正、教育基本法改正を彼の内閣の歴史的使命と位置づけています。教育基本法を改正した勢いに乗じて憲法改正に邁進するつもりです。現在の民主党では参議院選で自民党に勝てないと読んで布石を打ったのでしょう。
 新しい政治を望む国民は古い自民党に投票する気も起きませんし、古い民主党にも投票できません。国民に投票先の選択肢を与えられない二大政党制は意味がありません。野党である民主党が批判票の受け皿にはなり得ない現状は異常です。
 民主党は野党第一党として国民の批判票に応えられる体制を構築すべきです。小沢代表のトロイカ体制を打破し、新しい民主党を立ち上げるべきです。自社対決時代、55年体制を支えてきた政治家からリーダーシップを奪還するべきです。
 憲法改正を唱えていた小沢代表と自民党改憲派との間で裏取引がなされているようにも思えます。小沢代表は目的のために手段を選ばない政治家ですから憲法改正のために裏技を使うかも知れません。国民不在の典型な永田町政治です。
 憲法改正については国民的な議論が必要です。平和憲法がなぜ必要なのか、憲法9条をなぜ改正しなくてはならないのかを徹底的に議論すべき時代に日本は差し掛かっています。平和憲法の改正がもたらす外交上のリスク評価も必要です。
 現在の憲法論議は観念論の応酬、神学論争でしかありません。非武装中立を唱えていれば他国から侵略を受けることはないなどという論理は空論ですし、同盟国軍が攻撃を受けても見過ごすのかというのも感情論、扇動でしかありません。
 憲法改正は国内問題ですが、外交問題にも発展します。憲法9条を改正すれば中国、韓国は軍国主義復活と猛反発するでしょうし、アジア諸国も追随するでしょう。民主党が主導権を握るアメリカ議会では嫌日ムードが広がるでしょう。
 日本発の世界のパワーバランスの乱れが国際情勢を緊張化させかねません。日本が国際的に孤立する可能性は非常に大きいと思われます。外交的なリスク評価が議論されていない状況で憲法改正だけが一人歩きしている現状は危険です。
 日本は海洋国家ですから国際的に孤立すれば存亡の危機に晒されます。国際世論を見誤れば国際連盟を脱退し、国際的に孤立した時のように軍国主義への道を辿りかねません。過去の過ちを繰り返さないためにも冷静な憲法論議が必要です。
キリストは十字架で贖いの死を遂げられることを弟子達に預言なされていましたが、その意味を理解できた弟子はいませんでした。弟子達は神の国の地位を巡り言い争いをしていたぐらいです。弟子達はキリストがローマの支配を打ち破り、ユダヤ人の支配する地上の王国を打ち立てて下さるものと信じていたからです。
 民衆もイエス様が栄光のメシアとして地上に神の国を建設なされるのを期待していました。弟子達ですらイエス様の十字架の意味を理解できずにいたのですから、人々にイエス様が苦難の僕であることが理解できるはずはありませんでした。
 イエス様は弟子達、民衆の無理解の中で父なる神が定められた時に十字架の上で死んで下さいました。イエス様の死は人々からは犬死にしか見られなかったのにも拘わらず、イエス様は人々のために十字架での苦難の死を選ばれたのです。
 人々はイエス様の十字架を見て嘲笑いました。『正しい人のために死ぬ者』、『 善い人のために命を惜しまない者』ですらほとんどいないのが常識なのですが、キリストはまだ罪人であった私たちのためにさえ命を投げ出されたからです。
 イエス様の死はこの世の常識からすれば命を懸けるに価しない者のために死なれた無意味な死、犬死にしか過ぎませんが、父なる神には人間は独り子の命を懸けても救うだけの価値がある存在なのです。例え人間の側に信仰がなかったとしても、神は人間を救われるのです。神は人間を一方的に愛しておられるからです。
 イエス・キリストの十字架での血潮は神の一方的な愛の徴なのです。イエス様を救い主と信じられない人々のためだけではなく、イエス様を迫害する者のためにすらイエス様は死なれたのです。主の血潮は総ての人のために流されたのです。
 私たちはキリストの血によって義とされたのですから、父なる神の怒りから救われるのは当然なのです。総てが神の愛から出た救いの御業を成就させるためのご計画なのです。御子の十字架の死により私たちは神と和解が赦されるからです。
 父なる神は聖なる御方ですから、罪人である私たちとは和解、仲直りはできませんが、御子が十字架の死により私たちの罪の贖い、身代わりになってくださったので和解が赦されるのです。御子の死により神との和解の道が開かれたのです
 イエス様が十字架の上で死なれた時には人々はまだイエス様の敵でしたが、イエス様の贖いの死により初めて神との和解が成立しました。私たちはイエス様の十字架での死の時点で既に神との間で和解が成立しているのですから、イエス様を信じる私たちが御子の命により救われているのはなおさら明らかなのです。
 それだけではなく、私たちは主イエス・キリストを信じることにより神の愛を確信することができるのです。私たちは神を信じない者だけではなく神を迫害する者でさえ愛したもう神の限りない愛を知らされ、神を誇りにしているからです。
 神の愛は御子イエス・キリストの十字架に結実されているのです。神の救いの契約が具体化されたのが主の十字架です。主の十字架での血潮により神との和解が成立したのです。主の十字架は神からの一方的な愛の発露、顕れなのです。人間の側には神との和解を成立させるための贖い金に相当する物はないからです。
 私たちと神との間で成立した和解はキリストの十字架での血潮により成立したのですから、人間側の条件により左右されることはありません。神の愛は不変なのですから、御子の命によって私たちが救われるのはなおさら確かなのです。
 ユダヤ社会では律法を基準にして善悪が決まります。イエス様の時代には本来の律法が形式化してきました。律法学者が造り出した形式的な律法、ミシュナ、細則が一般化していました。人々はミシュナを守ることが救いの条件だと信じ込んでいました。ミシュナを形式的に守ることが信仰だと思い込んでいたのです。
 一方ギリシア世界ではギリシア哲学が発達していました。善悪の基準は人間の哲学的思考から生まれました。プラトンのエロス、愛はより高い価値を求め続ける価値追求型の愛です。善のために努力を重ねることに価値を見い出したのです。
 いずれにしろ、正しい人、善い人はそうはいないでしょうし、例えいたとしても彼らのために命を投げ出す人はさらに少ないでしょう。ところがイエス様はイエス様を信じない人のために命を投げ出されたのです。それがイエス様の愛です。
 マザーテレサはカルカッタで「神の愛の宣教者会」を設立しました。伝統的な3つの誓願「清貧・貞潔・従順」に、「貧しい者につかえる」という項目を付け加えました。宗教が問われない「死を待つ貧しい人の家」を開設しました。
 第二次大戦後、混乱期のカルカッタには私たちの想像を超える貧しい人々が生活していました。その日の生活さえ送れない人々で溢れていました。マザーはインドのカースト制を無視し、最下位の不可蝕民にまで手をさしのべました。マザーにはヒンズー教、イスラム教、仏教などの宗教の違いは関係ありませんでした。
 極貧の生活を送っている人たちだけではなく、マザーの目にとまったのは道ばたに放り出されている人々です。彼らはただ死んでいくのを待っているだけでした。マザーは「死を待つ人の家」に彼らを引き取り、平安な死を迎えさせようとしたのです。「あなたは必要とされている」と彼らに語りかけてきたのです。
 マザーは医学的には手の施しようのない人々の身体をきれいに洗い、ただ死んで行くのを看取ったに過ぎませんが、死を待つ人々の心に平安をもたらしたでしょう。死んでいった人々には各自の宗教に従った葬儀がなされたそうです。
 マザーの行為は見返りを求めたものではありません。宣教のための奉仕ではなかったのです。マザーは「修道院を出て貧しい人々と一緒に生活せよ」という生ける主の御声を聞き、ただそれに従っただけだからです。彼女は貧しい人々の中に、死を待つ人々の中に主の御姿を感じ、その主に仕えただけだからです。
 この世の基準からすればカルカッタの路上生活者を助けても貧者の一灯にしかすぎません。何千万、何億人もいる世界の貧しい人の数からすれば大海の一滴にしか過ぎません。路上に放置されている死を待つ人々の内の何人かに平安な死を迎えさせたに過ぎませんが、これが彼女に示された復活の主の愛なのでしょう。
 地上の世界は損得、善悪などに二分されるますが、彼女の生きている世界は損得、善悪を越えたキリストの愛に満ちた世界なのです。貧しい人がいる、死を待つ人がいるからマザーは主に仕えるように貧しい人に仕えたのです。主に仕えるのですから、それだけで満たされていたのです。見返りを求めない愛なのです。
 死を待つ貧しい人でも主の目には尊いのです。少なくとも主とマザーは彼らを必要としているからです。マザーがノーベル平和賞を受賞したのでマザーを支援する組織の活動は盛んになりましたが、マザーは組織を解散させました。マザーは主の御声で召し出された者として、貧しい人と共に歩み続けたかったからです。
 初代教会から教会は伝道と共に奉仕を重要視してきました。ユダヤの律法では奉仕は重要視されていますが、ギリシア世界では奉仕は余りなされてはいなかったようです。むしろ教会がヨーロッパ世界、異教世界に持ち込んだ概念です。
 しかし、原始共産社会が成立したのは初代教会の成立初期に限りました。教会の歴史ではリバイバル運動が托鉢運動と結びつきました。教会は歴史と共に驕り高ぶるようになってきました。総てを投げ捨てた聖フランシスコのような生き方をした先達は多くいました。彼らは托鉢により人里離れた地に修道院を造り上げましたが、時代を経ると堕落しました。それが人間のありのままの姿なのです。
 律法主義的生活は人間本来の生き方とは違います。奉仕も義務づけられると形だけを守る奉仕に成り下がります。神様から与えられた律法でさえも形式化したぐらいです。マザーのように主から特別な召しを受けた人でもいつの間にか組織化された集団の歯車にされ、集団の中に埋もれてしまいそうになったぐらいです。
 私たち凡人が背伸びをして奉仕をすれば生活が乱れます。生活の乱れが信仰生活の乱れを誘いかねません。正しい信仰生活を送ろうとしたのに、結果は逆になりかねないのです。分相応の奉仕が信仰生活を高め、信仰生活を整えるのです。
 信仰生活は心に平安を得るのが目的です。信仰生活を送る中で生ける主と格闘せざるを得ない時もあるかも知れませんが、日々の些細な出来事の中で敢えて主に格闘を挑む必要はありません。はんなりとした風情を保たれればそれに越したことはありません。とにかく凡人は凡人らしく無理をしないことが肝要です。
 滴り落ちる水がいつの間にか岩に穴を空けるように、ゆっくりと前を見つめながら歩み続ければ振り返った時に長く続いた足跡に驚かされるでしょう。信仰生活は長い道のりです。地上で生活する間は歩み続けなくてはならないからです。
 人生はマラソン競争なのです。短距離競走ではないのです。ウサギのようにダッシュしすぎれば倒れてしまいます。亀のようにゆっくりでも確実に前へ進むことが必要なのです。総てのことにおいて出来うる範囲を越えないことが肝要です。
 教会でも無理をしないことが肝要です。自分のペースを乱さないことを第一にすべきですし、他人のペースも乱してはいけません。教会には様々な人が集まっているからです。信仰生活では共通していますが、日常生活は別々だからです。
 初代教会の時から教会には様々な階層に属する人が集まっていました。アメリカでは弁護士や医者に相談をすれば高い費用を請求されますが、教会で相談すれば無料だそうです。日常生活と信仰生活とを分けて考えているからなのでしょう。
 ボランティアも自分の賜物に応じた程度にする方が長続きします。大切なのは長く続けることだからです。一時の感情に囚われないことが肝要です。主が必要となされるのは一人一人の賜物に応じた奉仕であり、それ以上ではありません。
 個人の能力には差があります。人には出来ても自分には出来ないこともありますが、それを受け入れるところから新たな出発が始まるのです。人を羨む心は自分自身を傷つけてしまいます。分相応に生きることが心の平安に繋がるからです
 教会も大きいから良いのではありません。むしろ一人一人の心が通い合う程度の大きさが身の丈に合っているように思えます。具体的には2種教会、現住陪餐会員が20名以上にはなりたいと思いますが1種教会、50名以上は望みません。

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