2007/03/27

07/03/11 造り主を覚える M     

2007年3月11日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
造り主を覚える     ホセア書8章11-14節
讃美歌 7,517,515
堀眞知子牧師
神様はホセアに「角笛を口に当てよ」と命じられました。見張りの者が角笛を吹くことは、敵の攻撃を人々に知らせるものです。ホセアは北イスラエルに迫りつつある危険を、人々に知らせるために「角笛を口に当てよ」と命じられました。北イスラエルの危機は間近に迫っていました。「鷲のように主の家を襲うものがある」と記されているように、紀元前733年、アッシリアは北イスラエルを攻撃しました。それは「イスラエルが私の契約を破り、私の律法に背いたからだ」と語られているように、イスラエルが神様に背いたことが原因です。神様は「私の契約」「私の律法」と言われました。私達人間の世界では、契約は当事者双方が話し合って契約の内容を決め、合意の上で契約を結びます。あるいは、すでに決定された契約内容があり、それに同意する者が契約関係に入ります。けれども、ここでは神様が「私の契約」「私の律法」と言われたように、神様が一方的に契約内容を決め、一方的に契約の相手方としてイスラエルを選ばれました。そこには人間の意志はありません。イスラエルには、契約を結ぶことを拒否する自由もなければ、契約内容の変更を求めることも許されていません。そういう意味では契約と言うよりも、命令と言った方が私達の思いにはしっくりします。しっくりはきますが、これは命令ではなく、あくまでも契約なのです。契約の相手方として、神様がイスラエルを選び、彼らに与えられた御自身の契約であり律法でした。イスラエルは神様に選ばれた民として、祝福を与えられました。それは神様との関係の中に生きることです。神様から与えられた契約と律法の中に生きる時、イスラエルは真の自由と命を得、約束の地に住み続けることができます。契約と律法は、イスラエルを祝福するものであり、イスラエルに救いを約束するものでした。そして神様がアブラハムに「私は、あなたを祝福する。祝福の源となるように。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」と約束されたように、最終的には、地上のすべての氏族が祝福に入り、救いに与ることでした。ところが、イスラエルは神様の契約を破り、神様の律法に背きました。
神様は言われます。「私に向かって彼らは叫ぶ。『我が神よ、我々はあなたに従っています』と。しかし、イスラエルは恵みを退けた。敵に追われるがよい」イスラエルは神様の契約を破り、神様の律法に背きながら、その事実に全く気付いていませんでした。神様がホセアを通して「私が喜ぶのは愛であって犠牲ではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」と語られても、イスラエルは自分達の罪に気付きませんでした。ホセアの語る「神を知る」ことが何であるかに気付かず、求めようともしませんでした。逆にイスラエルは「我が神よ、我々はあなたに従っています」と叫びました。異教の神々を受け入れたイスラエルは、異教の神々に仕えるように、まことの神様に仕えていました。それで十分と思っていました。形式的礼拝、形式的信仰という誤った知識の中で、イスラエルは生活をしていました。まことの神様に従うということは、他のなにものにも頼らないということです。神様にのみ、信頼を置いて生きる。異教の神々はもとより、他国の力にも頼らない、自分自身にも頼らない、金銭や人間関係にも頼らないことです。ただ神様にのみ頼り、すべてを委ねる時、神様が恵みの御手を差し伸べて下さいます。けれどもイスラエルは、その恵みを退けました。ゆえに神様の裁きの言葉が語られます。「敵に追われるがよい」
引き続いて、イスラエルの罪が語られます。第1に「彼らは王を立てた。しかし、それは私から出たことではない。彼らは高官達を立てた。しかし、私は関知しない」最初の王サウルが立てられた時、神様が預言者サムエルに「この男が私の民を支配する」と告げられ、サムエルがサウルの頭に油を注ぎました。イスラエルの王は神様が立てられ、王は神様の御計画に従って民を治め、国を治める義務と責任がありました。北イスラエルの最初の王ヤロブアムと10代目の王イエフは、神様の選びによって立てられましたが、その他の王は人間的な思いで立てられました。謀反も繰り返されました。第2に「彼らは金銀で偶像を造った」ことです。「十戒」において神様は「あなたはいかなる像も造ってはならない」と命じられました。偶像礼拝は厳しく禁じられていました。最初の王ヤロブアムが、ベテルとダンに金の子牛を置き「あなたたちはもはやエルサレムに上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である」と人々に言った時から、偶像礼拝の罪は始まりました。そして、どの王もヤロブアムの罪から離れることができませんでした。偶像礼拝の罪は、レビ人でない祭司を立てる罪を招き、異教の神々を受け入れる罪を招き、まことの神様から離れる罪を招きました。ゆえに神様の裁きの言葉が語られます。「それらは打ち壊される。サマリアよ、お前の子牛を捨てよ。私の怒りは彼らに向かって燃える。いつまで清くなり得ないのか。それはイスラエルのしたことだ。職人が造ったもので、神ではない。サマリアの子牛は必ず粉々に砕かれる」金の子牛像は人間が造ったもので、神様が創造されたものではありません。詩編115編に「国々の偶像は金銀にすぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない。偶像を造り、それに依り頼む者は、皆、偶像と同じようになる」と歌われているように、偶像は何の力もないばかりか、偶像に依り頼む者は、偶像と同じようになる、と言われています。偶像と同じもの、むなしい存在、意味のない存在、力のない存在になってしまいます。まことなる神様との契約関係を捨てた者には、むなしい人生が待っています。「いつまで清くなり得ないのか」という言葉の中に、神様の嘆きの声が聞こえます。同時に、それは「早く私の元に立ち帰れ」という招きの言葉です。
けれども「早く私の元に立ち帰れ」という招きの言葉は、イスラエルの耳に届きません。彼らは神様に頼るのではなく、外国の力に頼ります。全世界を支配される神様は、外国に頼るイスラエルに対し、その外国の力をもって北イスラエルを倒されます。「彼らは風の中で蒔き、嵐の中で刈り取る。芽が伸びても、穂が出ず、麦粉を作ることができない。作ったとしても、他国の人々が食い尽くす。イスラエルは食い尽くされる。今や、彼らは諸国民の間にあって、誰にも喜ばれない器のようだ。エフライムは独りいる野ロバ。アッシリアに上って行き、貢によって恋人を得た。彼らは諸国に貢いでいる。今や、私は諸国を集める。諸侯を従える王への貢ぎ物が重荷となって、彼らはもだえ苦しむようになる」パウロがガラテヤ書6章で「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」と語っているように、蒔いた種にふさわしい実が結ばれます。「風の中で蒔き、嵐の中で刈り取る」とは、風のようにむなしい外国の力に頼り、結果として嵐のような外国の力、具体的にはアッシリアによって倒される、北イスラエルの姿を表しています。さらに国土は外国によって荒らされ、小麦の収穫はありません。たとえ収穫があったとしても、アッシリアに貢ぎ物を送らなければなりませんので、イスラエルの収穫とはなりません。農作物だけではなく、北イスラエルすべてが、外国から侵略されます。8節の「食い尽くされる」という言葉は、原文では完了形になっています。北イスラエルが、アッシリアによって滅ぼされるのは10年後のできごとですが、ホセアは、それが確実に起こることを語っています。北イスラエルの罪は頂点に達し、救いがたい状況になっています。神の宝の民であるイスラエルは、神様との契約を破り、神様の律法に背き、神様に信頼することを忘れました。アラムと対アッシリア同盟を結んだり、敗北するとアッシリアに貢ぎ物を送ったり、アッシリアに反逆してエジプトに頼ったり、周辺諸国の間をさまよいながら、結局「誰にも喜ばれない器のよう」に見捨てられていきます。神様から離れ、諸国民からも見捨てられる北イスラエルは、頑固な野ロバのようです。野ロバは飼い慣らすことが困難で、争いを好む動物です。神様に不従順なイスラエルの姿を表しています。アッシリアに頼り、貢ぎ物を送って国を保っているようですが、やがてアッシリアによって滅ぼされます。それは「今や、私は諸国を集める。諸侯を従える王への貢ぎ物が重荷となって、彼らはもだえ苦しむようになる」と語られているように、神様の裁きの御業として行われます。
国内においては、神様の御心に従わないで、人間的思いで王が立てられ、謀反が繰り返される。外交においては、神様に頼らないで、自分達の考えで外国に頼る。それらの根本として、イスラエルの信仰そのものが崩れていました。ですから、誤った礼拝がささげられていました。まことの信仰を失った、形式的礼拝がささげられていました。神様は語られます。「エフライムは罪を償う祭壇を増やした。しかし、それは罪を犯す祭壇となった」イスラエルは自分達の罪を償うために、祭壇を築きましたが、それは、かえって罪を犯すための祭壇となりました。「私は多くの戒めを書き与えた。しかし、彼らはそれを無縁のものと見なした」と語られているように、イスラエルには律法や戒めが与えられていました。しかも口伝ではなく、文書として与えられていました。確認することのできる文書として与えられていながら、それを守ることができませんでした。神様のことを知ろうとする意志や、神様のことを理解できる感性を失っていました。神様の言葉を神様の言葉として、受け取ることができなくなっていました。神様の戒めを自分達に関係のあること、自分達のために神様が与えて下さったものとして受け取ることができなくなっていました。長い間の不信仰により、神様の戒めを正しく受け取ることができなくなっていたのです。犠牲をささげることは、レビ記などにも定められていますが、イスラエルは正しい犠牲のささげ方をしていませんでした。神様は「私への贈り物として犠牲をささげるが、その肉を食べるのは彼らだ」と語られます。自らの罪を贖うために犠牲をささげる目的を忘れ、ささげた肉を食べることに心を奪われていました。ホセアは「主は彼らを喜ばれない。今や、主は彼らの不義に心を留め、その罪を裁かれる。彼らはエジプトに帰らねばならない」と語ります。神様はイスラエルの不義を覚え、罪を裁かれます。エジプトに帰るとは、イスラエルの歴史の中で、もっとも苦しかったエジプトでの奴隷生活に戻ることです。それはアッシリア捕囚を予告しています。
最後に北イスラエルと共に、南ユダに対する裁きが宣告されます。「イスラエルはその造り主を忘れた。彼らは宮殿を建て連ねた。ユダも要塞の町を増し加えたが、私はその町々に火を送り、火は城郭を焼き尽くす」北イスラエルも南ユダも、造り主である神様を忘れました。神様を忘れて人間の力に頼り、宮殿を建て要塞の町を建てました。神の民でありながら、神様を忘れてしまった北イスラエルと南ユダ。人間の力を誇り、豪華な宮殿と堅固な町の建設に心を奪われた北イスラエルと南ユダ。文化を生み出す力は、神様が人間に与えて下さったものですから、文明の発達そのものが悪ではありません。造り主である神様を忘れて、人間の力で文化を築いていくところに悪と罪が充満するのです。造り主である神様を忘れた文化や文明は、滅びをもたらします。
第1次世界大戦に敗れたドイツは、皇帝が退位し、共和制をとるようになりました。それまでの帝国憲法に代わって、ワイマール憲法を作成しました。この憲法は1919年8月に施行され、33年1月のナチス政権の誕生によって解消されたので、わずか13年半、ドイツの憲法であったにしか過ぎません。13年半しか存在しなかった憲法ですが、そこには基本的人権、社会権について保障された条項が記され、民主的憲法の模範とされています。第2次世界大戦後の各国憲法、日本国憲法にも受け継がれています。模範的憲法ですが、このワイマール憲法を利用して、ヒトラーは実権を握っていきました。憲法は、共和制を宣し、国民主権を定めていました。国会は20歳以上の男女の普通直接選挙で、また大統領が同じく国民の直接選挙で選ばれました。行政府の長である首相と各大臣は、大統領が任免し、彼らは国会の信任を要件としていましたが、大統領は国会を解散することができました。また大統領は、国会が議決した法律を国民投票に付すことができ、非常時と考える時には武力行使を伴って、憲法と法律にかわる緊急命令を出すことができました。これらは立法府としての国会を形骸化させ、やがてヒトラーへの全権委任法へとつながっていきました。直接民主主義の一つの表れである国民発案、国民表決の制度は、ナチスの宣伝手段として利用されました。かつて法学生であった時、最高の憲法からナチス政権が生まれたこと、どんなに良いものでも活用の仕方によって、悪いものへと変えられることに、不思議さと同時に人間の怖さを感じました。
しかし今、キリスト者として、このことを捉える時、人間の歴史は良きものを悪しきものに変えることの連続であったことを、改めて考えさせられます。ワイマール憲法に欠けていたものは何か、正確に言えばワイマール憲法の下にあったドイツ国民に欠けていたものは何か。それは「造り主を覚える」ということです。最初に神様が創造された天地万物すべては、きわめて良かった世界でした。神様は、良きものを人間に与えて下さいました。文化を創り出す力も、良きものとして神様が人間に与えて下さったものです。造り主を覚えて、神様からの賜物を、神様の御心に従って用いさせていただく時、私達の前に真の自由と喜びが与えられます。自らの思いに囚われて、人間の奴隷として生きるのではなく、神様の僕として生きる道が開かれています。今、聖霊なる神様が教会の上に働き、私達一人一人の上に働かれています。聖霊なる神様の働きによって、私達は主イエス・キリストを知らされ、主イエス・キリストを通して、父なる神様を知ることを赦されています。すべてのものを良きものとして創造された、造り主である父なる神様を覚え、神様の御心を尋ね求めながら、日々の歩みを整えていただきましょう。