07/02/18 予型としてのアダム T
予型としてのアダム
2007/02/18
ローマの信徒への手紙5:12~14
ある社会福祉法人の理事長が機関誌で精神障害者に対して労働による社会参加を訴えていましたが、精神障害者は「働きたいが働かれない」ジレンマの中で藻掻き苦しんでいるのです。自立を望みながらも自立できる能力がないからです。
障害者自立支援法の抱える最大の矛盾はこのジレンマにあります。自立のための訓練により自立できる人はごく僅かです。多くの障害者は自立できるだけの能力を病気により既に失っています。訓練が病気を悪化させる場合もあるのです。
病気で働く能力を失った人に障害年金が支給されるのですから自立を迫るのは自己矛盾です。むしろ障害者が住みやすい環境を整える方が先決です。労働は社会参加のためになされるのではなく、生き甲斐造りのためになされるべきです。
自立支援法では従来の福祉施設が訓練の場として定義されるようになりました。作業所での作業で僅かながらも労賃を得ていた障害者は利用費を取られるようになりました。障害者の側から見れば労賃を施設にピンハネされているのです。
さらに施設での労働には労働基準法は適用されず、労賃は最低賃金よりもかなり低いのです。施設での労働は福祉の対象であり、正規の労働とは見なされていないのです。多くの障害者は施設でスキルアップできずに施設に留まり続けます。
障害者の労働力を健康な人の労働力に換算するのは不公正です。労働を質ではなく量で評価すべきです。質が落ちる分を政府が福祉予算で補填すべきです。障害者に500万円を支給するために税金を5000万円も使う制度は間違っています。
社会福祉法人に膨大な税金が注ぎ込まれているのにも拘わらず、障害者が負担できないような自己負担を求める制度は不公正です。雇用対策としての使命を終えたのですから福祉政策の本道に戻り、障害者が使いよい制度に改めるべきです。
自己負担制度は「福祉はただ」の世界から「自己責任、自己負担」の世界へ変へたのは評価できますが、自己負担は0.5%が限度です。病院の体質が改善されたように、福祉法人も利用者に選ばれるようになれば質の向上が期待できます。
作業所を労働の場と定義し直し、労働時間を自由に定められるようにします。労働契約を結び、社会保険にも加入できるようにします。最低賃金(600円強/時)を保証し、生活保護受給者にも賃金の一定割合が加算されるようにします。
一方労働を望まない人には福祉の場、憩いの家などを提供すれば良いと思われます。病院のデイケアーを卒業した人、デイケアーに馴染めない人などが集える場を整備する必要があります。生き甲斐を見出せる場を創設する必要があります。
さらに回復した人のためのリハビリセンターが必要とされてくるでしょう。短期間で回復した人は復職のためのリハビリが必要です。療養休暇の後の職場復帰は健康な人でもストレスが掛かるので再発する人が非常に多いからです。
新しい薬で回復した人のリハビリには特別なメニューが必要です。脳の機能が回復しても心が回復していないからです。心の癒しが必要なのです。生きる目標が必要なのです。心の癒しは医療ではなく、信仰が扱う分野だと思われます。
アダムが犯した罪により罪が人の世に入り、罪により死が総ての人に及んだという考えはユダヤ人的な概念に起因するものです。ユダヤ人は時間空間を越えて一つの民族なのです。パウロは時間空間を越えてアダムと連帯し、一人称で表されるべき関係にあるのです。言い換えればアダムは人類の始まりであると共に全人類の一部なのです。アダムが罪を犯したことは全人類が罪を犯したことになるのです。アダムの罪は全人類の罪であり、個々の人間の罪と見なされるのです。
さらにパウロは死は罪の直接の結果であると見なしていますが、ユダヤ人の信仰によればアダムが罪を犯さなければ人は死ななかったのです。神様が人間を創造なされた時には人間は死とは無関係な存在として創造されたのです。しかし、アダムは神様の直接の戒め、禁じられた木の実を食べてはならないという戒めを破りました。アダムは神様に対して罪を犯したので死に渡されたのです。
ところでモーセにシナイ山で律法が与えられる以前、アダムからモーセまでの間にも人間は罪を犯しましたが、律法を授かる以前の罪は罪として数えられませんでした。律法という罪の基準がなければ罪は罪として認められないからです。
しかし、この時代の人たちは罪と定められる根拠、律法がまだ存在しないのにも拘わらず死んでいきました。彼らはアダムの犯した罪に含まれるからです。総ての人はアダムが犯した罪の共同正犯なるがゆえに死の世界に渡されるのです。
パウロの用いている論理はユダヤ人には馴染み深い論理なのですが、個人主義である私たちには理解し難い論理です。民族には創造神話が残っていますが、人の世に死が入り込んだ理由は異なります。ユダヤ人はバビロン捕囚時代、唯一の神がバビロンの神々に屈服したと思われる時代に創世記を纏めました。民族としての誇りを失いそうになった時に天地を創造なされた神に思いを馳せたのです。
ユダヤ人はアダムが唯一の神との約束を破ったがゆえに死が人間の世界に入り込んだと理解しました。アダムから始まる神の民イスラエル、ユダヤ人は神に選ばれた特別の民として時代空間を越えて一つの民族なのです。神様に対して共同責任を取らなくてはならないのです。例え律法がない時代、罪に定められることのない時代の人にも死が及ぶのです。さらに現代も死が私たちを支配するのです。
パウロのアダムの罪から始まる死に対する理解はユダヤ人固有の理解でした。ギリシア人には理解しがたい論理でしたが、人間の罪に迫る論理は後世に大きな影響を残しました。教会はアダムの犯した罪を人間の原罪として捉えました。人間は罪人であるという信仰の根本には原罪があります。神様が総てを見て良しとなされた天地創造の御業から人間が人間の意志で離れてしまった罪なのです。
原罪はアダムから始まる人間の歴史の底を流れている潮流ですから、人間には原罪を贖って下さる救い主が必要なのです。律法や割礼の遵守、犠牲などでは人間の原罪を贖うことができないのはユダヤ人の歴史が指し示すとおりです。
パウロは主の十字架の死と甦りで示された愛と恵みこそが人間に無罪の判決を下すと主張しています。恵みの賜物はアダムによってもたらされた罪を帳消しにするのです。神様の恵みと義の賜物はキリストを通して生き、支配するのです。一人の人、アダムの罪により総ての人に有罪の判決を下されたように、一人の人、キリストの正しい行為により総ての人が無罪、義とされると宣言されたのです。
アダムが禁断の木の実を食べたのは神のように善悪を知るものとなりたかったからです。アダムはエデンの園で満たされた生活を送っていましたが、満足することができなかったのです。アダムはエバに唆されましたが、神様を羨む心があったからです。神様と自分との関係が創造者と被造物の関係にあることが分かっていながらも、なお神様のようになりたかったのです。さらに、人間はバベルの塔を造り、天に届かせようとしましたが、神様は人間の言葉を乱されました。人間の世界に死が入り込み、部族毎に違う言葉を使う理由を述べたイスラエル民族、ユダヤ人の創造神話です。この創造神話を創世記として後世に残しました。
ユダヤ人はバビロン捕囚、異民族に奴隷として使われている時代に創世記を纏めたのは創造主である唯一の神への信仰を確信し、被造物としての自覚を高めるためです。アダムの罪、バベルの塔での裁きは神を羨み、与えられた世界に満足できなかった人間の罪の結果です。奴隷の身であったユダヤ人は創造主の裁きに総てを委ねたのです。唯一の神に見捨てさられることはないと確信したからです。
人を羨む心は人間の心の奥深くに宿る罪、原罪だと思います。神様から与えられた物で満足できない人間の本性は争いを引き起こします。時には戦争さえも正義の名の元に行ってしまうのです。略奪民族と農耕民族はある種の平衡状態を保っていましたが、民族間の争いは大虐殺を引き起こしました。古今東西戦争が絶えた時はありません。人間の歴史は戦争の歴史と置き換えても良いぐらいです。
日常生活においても人を羨む心は人間の欲望に火を点けます。日本人の生活は発展途上国の人たちからみれば天国での生活に思えるでしょう。栄養学的に満たされた世界は理想であったはずですが、理想が満たされればさらなる贅沢を望みます。人は貧しくても隣人よりも満たされている世界の方を豊かでも隣人と平等な世界よりも好むそうです。共産主義よりも資本主義が好まれる理由だそうです。
人を羨む心は持てる者と持たざる者との間に緊張関係を造り出します。さらに人を差別する心を生み出します。人を羨む心が人を蔑む心に転化するからです。人を羨む心が前向きに表れた場合は向上心を引き出します。競争社会は人類を発展させる原動力になりますが、競争から落ちこぼれる人が必ず出てきます。それが根拠のない差別を生み出す原因になります。人は優越感を持ちたいからです。
ユダヤ人はダビデ・ソロモン王朝を除けば常に侵略者に怯えていましたが、ローマにより紀元70年に滅ぼされました。離散の民、ディアスポラとしてのユダヤ人を支えていたのは神に選ばれた民、選民としての誇りでした。他民族を異邦人として差別してきましたが、弱さの反映に過ぎないのかも知れません。アブラハムの召命から1500年間にも渡り語り継いできた創造神話を民族の危機、捕囚時代に思い起こしたのは神の支配を信じ、現実を耐え忍ぶ力を得るためです。
アダムの神を羨む行為を罪と定めた創世記は人間の心の奥底に眠る罪を浮かび上がらせています。人を羨む心から人間が解放されることはないでしょう。例え修道院の中の生活でさえも人間を欲望から解放しえないことは明らかです。
原罪は人間が人間である証拠といえるかも知れません。むしろ人間の歴史を造り上げてきた原動力とも言えます。主の福音は原罪を否定するのではなく恵みの賜物により罪が贖われることを示しています。罪ある身が無罪とされるからです。
格差社会、勝ち組、負け組という言葉が流行っていますが、平等な世界に人間は適応できないのかも知れません。原始共産主義、能力に応じて働き必要に応じて分け前を得る社会は初代教会の初期にしか成立しませんでした。初代教会は配分を巡る不満からユダヤ人と異邦人とに分かれました。人間社会の縮図が表面化したのですが、異邦人から執事を起用することで教会の分裂は避けられました。
パウロの手紙を読んでいると教会の中でも様々なグループができ、富める者と貧しい者との格差、ユダヤ人と異邦人との差別は解消されていません。パウロがエルサレム教会への献金を集めたのは両者の間を橋渡ししたかったからです。さらに信仰が違い民族が違えば両者の間にできる溝は越えがたいものになります。
信仰は越えがたい溝を越えさす力になりますが、現実の世界は理想とは懸け離れています。しかし、札幌農学校にクラーク博士は1年もいませんでしたが、内村鑑三、新渡戸稲造などのクリスチャン教育者が輩出されました。クラーク博士は生活が乱れていた寮生に対して規則を撤廃し、一言「紳士たれ」と言ったそうです。武士社会が崩壊し、生きる目標を失っていた若者はその一言で我に戻りました。クラーク博士が発するキリストの香りに若者が激しく反応したからです。
伝道とは理論ではありません。十字架と甦りを論理的に立証することはできないからです。むしろキリストの香りを放ち続けることが伝道なのです。言い換えれば「あの人のようになりたい」と思われるようになることが肝要なのです。カリスマとはキリストの香りを放ち続ける人を意味しますが、特別な資質を持つ人に限りません。むしろキリストの愛と恵みを地道な信仰生活を送りながら証ししている人、名もない信徒こそカリスマと呼ばれるのに相応しい人なのです。
私たちは人を羨む心から逃れられないでしょうが、それを罪と意識するかしないかで日常生活も違ったものになります。人間は完全ではありません。人よりも能力が劣る面もありますし、人を偏り見ることもあります。人間は他人との力関係を常に意識し、微妙に調整しながら生きている社会的な動物だからです。
人間である以上罪の世界から逃れられませんが、イエス様が私たちの代わりに罪を負って下さるのです。私たちは主に贖われたのですから罪を赦された者として生きられますが、罪の自覚を持ち続けなくてはなりません。罪が赦されるのならば何をしても良いという屁理屈は成り立ちません。罪を赦された者にはそれに相応しい生き方があります。キリストの香りを放つ生き方をする義務があります。
キリストの香りは教会生活を続ける中で自然と身についてくるものなのです。キリストの香りは当人には分かりづらいかも知れませんが、いつの間にか周囲の人々の心に染みこんでいくものなのです。礼拝は御言葉を聞き、賛美し、祈りを合わす場だけではなく、お互いのキリストの香りで満たされる場でもあるのです。
教会は大きさを目指すのではなく、信仰の一致を目指すべきです。第二種教会を立ち上げるためには現住陪餐会員が20名以上になる必要があります。会堂の拡張も考えなくてはならないでしょうが、実力に応じた規模を考えるべきです。
心理学的に20名という数は人間の集団の纏まりとしてはほどよい規模だそうです。先ず会員相互のコミュニケーションがとれる規模を目指し、それを越えたならば会堂建設を考えればよいでしょう。身の丈にあった歩みを心がけましょう。
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