2007/03/07

07/02/04 神を尋ね求める M     

2007年2月4日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
神を尋ね求める     ホセア書5章8_15節
讃美歌 76,2_159,256
堀眞知子牧師
イスラエルは地上の多くの民族の中から、神様に選ばれた民でした。それは、彼らの力によるものではありません。申命記7章に「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」と記されていたように、神様の一方的な愛と、御自身の約束に対する誠実さによって、イスラエルは神様の宝の民とされました。神様の宝の民とされたイスラエルには、唯一なる神様との関係の中に生きる祝福と義務がありました。ところが北イスラエルにおいては、神様をもっともよく知らされ、民の宗教的指導者である祭司が、率先して異教の神々を礼拝し、民の政治的指導者である王や高官達も、異教の神々を礼拝していました。宗教的指導者、政治的指導者がまことの神様への信仰から離れてしまえば、当然の結果として、一般国民の信仰も崩れてしまいます。
神様は、ホセアを通して北イスラエルに裁きを語ります。「聞け、祭司達よ。心して聞け、イスラエルの家よ。耳を傾けよ、王の家よ。お前たちに裁きが下る。お前たちはミツパで罠となり、タボルの山で仕掛けられた網となり、シッテムでは深く掘った穴となった。私はお前たちを皆、懲らしめる」神様は祭司達、北イスラエルの民、王を中心とする政治的指導者達に「聞け」「心して聞け」「耳を傾けよ」と、注意を促すために、3つの言葉をたたみかけて語っています。今、北イスラエルで起こっているできごと、まことの神様に対する背信の罪、神様の民としての使命を放棄した北イスラエルに対して、御自身の裁きに心から耳を傾けるように、そして御自身の言葉に応えるように求めています。ミツパやタボルの山やシッテムで、北イスラエルは異教の神バアルを礼拝していたようです。バアル礼拝は、彼らをまことの神様から離れさせ、誤った道へと誘惑し、最終的には罠や網に捕らえられた鳥のように、深い穴に落ちた獣のように、自由を奪われることになります。バアル礼拝に走っている北イスラエルに対して、神様は「私はお前たちを皆、懲らしめる」と言われました。神様の懲らしめは、単に罪に対する罰ではありません。イスラエルが御自身に立ち帰ることを求めて、懲らしめを下すのです。神様は背信の民イスラエルをなおも愛され、御自分に立ち帰ることを何よりも望み、招きの御手を差し伸べて下さっています。
北イスラエルは、まことなる神様を知らされているにもかかわらず、知ろうとはしません。偶像にしか過ぎないバアルも、北イスラエルを知りません。けれども神様は「私はエフライムを知り尽くしている。イスラエルが私から隠れることはできない」と言われました。イスラエルがどこに行こうとも、どこに隠れようとも、神様はイスラエルを御存じでした。イスラエルが何をしているのか、どれほど罪を犯しているのかも御存じでした。「まことに、エフライムは淫行にふけり、イスラエルは身を汚している」前回も申しましたように、エフライムとは北イスラエルのことです。北イスラエル最初の王ヤロブアムは、エフライム族の出身でした。彼がベテルとダンに金の子牛を置き、レビ人でない民を祭司に任じたことから、北イスラエルの罪は始まりました。偶像礼拝が、異教の神々礼拝へとつながり、まことの神様への背信を罪と感じる心を、イスラエルから奪いました。まことの神様への背信という罪のゆえに、その罪から生じる、さまざまな宗教的悪行のゆえに、神様に立ち帰ることができなくなっていました。イスラエルは、まことの神様から自分達を離れさせようとする「淫行の霊」に捕らわれていました。淫行の霊に捕らわれているがゆえに、神様を知ることができなくなっていました。神様がイスラエルに、御自身を示して下さり、招きの御手を差し伸べて下さっているにもかかわらず、イスラエルは、その神様を知る感性を失っていました。神様との人格的交わりを失っていました。
イスラエルを罪に落としたのは、自らの高慢でした。神様を誇るのではなく、自分自身を誇り、神様を中心に生きるのではなく、自分を中心に生きていました。偶像礼拝は、人間中心の宗教です。人間が造った神を神として礼拝するのです。人間の思い通りになる神を求めるのであって、まことの神様の御心を求めるのではありません。経済的豊かさ、強い軍事力が北イスラエルの誇りとなっていました。神様はホセアを通して語られます。「イスラエルとエフライムは、不義によって躓き、ユダも共に躓く」南ユダ王国は、北イスラエルほどではありませんが、歴代の王が皆、神様に忠実であったのではありません。いや列王記で示されたように、神様の目にかなうことを行った王と、神様の目に悪とされることを行った王は半々なのです。南ユダも信仰的に堕落する危険性を、常に抱えていたのです。北イスラエルは経済的豊かさを誇って、神殿へは多くのいけにえを献げていました。けれども、それは自らの豊かさを誇ることであって、神様の御心を求める信仰からではありませんでした。形式的宗教行為に陥っている北イスラエルに、ホセアは厳しい言葉を語ります。「彼らは羊と牛を携えて主を尋ね求めるが、見いだすことはできない。主は彼らを離れ去られた。彼らは主を裏切り、異国人の子らを産んだ。それゆえ、新月の祭りが、彼らをも、その所有をも食い尽くす」神様に立ち帰る心がなければ、いけにえの羊や牛を献げても、神様は応えられません。どんなに神様を尋ね求めても、背信の民に神様は応えられません。「主は彼らを離れ去られた」という言葉の中に、厳しい裁きが宣言されています。私達に絶望をもたらすのは、現実に生きている世界の中で味わわざるをえない、この世の困難や苦しみではありません。確かに病気の苦しみ、障害の苦しみ、年を重ねることによって衰える能力の喪失感、経済的困難、家族の問題、人間関係の問題は私達を悩ませます。時として「どうしたらよいのか。もう道がない」という思いに囚われて、自らの不幸を嘆いたり、自己嫌悪に陥ったり、他人や社会を恨んだりします。けれども、それらは本当の絶望ではありません。私達に決定的な絶望をもたらすのは、神様が私から離れ去られたということ、神様が共に歩んで下さらないということです。神様を尋ね求めても、神様が全く応えて下さらないことです。
祈祷会で詩篇から御言葉を聞いていますが、私達が驚くほど、詩人達は率直に苦しみや悩みを神様に訴えています。敵を呪うことさえも求めています。けれども最後に、詩人達は救いを得た確信の言葉を歌っています。まだ神様の御業が現されていないにもかかわらず、すでに神様によって救われたことへの感謝を歌っています。詩人達は、神様との間に人格的交わりが確立されていたので、神様の救いを見なくても、神様が必ず自分の祈りに応えて下さるという、確信を持つことができました。神様が自分と共に歩んで下さっている、神様を尋ね求めるなら必ず応えて下さる、そういう信頼があり、信仰があったから、どのような状況にあっても、決して絶望することがなかったのです。最初は絶望の中にあっても、最後は神様に望みを抱き、希望を持つことができました。詩人達と異なり、神様が離れ去ってしまった北イスラエル。その原因はイスラエル自身にありました。彼らは神様を裏切り、異教の神々に仕えました。民数記28章に「毎月の一日には」という言葉で、新月の祭りの献げ物が記されています。新月の祭りは、もともとはイスラエルの祭りでした。けれどもホセアの時代、バアルの影響を受けた祭りとなっていました。新月の祭りがまことの神様の怒りを招き、やがて北イスラエルは「彼らをも、その所有をも食い尽くす」という預言どおり、アッシリアによって滅ぼされることとなります。
今朝、共にお読みしました箇所には「食い尽くす」ことの具体的なできごとが記されています。これは、列王記下16章に記されていたできごとです。紀元前733年頃、北イスラエルの王ペカはアラムの王レツィンと反アッシリア同盟を結び、南ユダ王国も同盟に入るように呼び掛けます。けれども南ユダの王アハズが応じなかったがために、北イスラエルとアラムは、南ユダを攻撃しました。アハズは預言者イザヤの警告を無視して、アッシリアの王ティグラト・ピレセルに助けを求めます。結果として北イスラエルとアラムはアッシリアに敗れ、北イスラエルは多くの領土を奪われ、南ユダはアッシリアの属国のようになります。ギブア、ラマ、ベト・アベンはエルサレムの北に位置する町です。北から北イスラエル・アラム同盟軍が南ユダを攻撃してきます。「ベニヤミンよ、背後を警戒せよ」とは、両国の攻撃に警戒するようにという、神様の警告です。神様が北イスラエルを懲らしめる日が来れば、北イスラエルは廃虚となります。「確かに起こることを、私はイスラエルの諸部族に教えた」と語られているように、神様は北イスラエル滅亡について預言されました。北イスラエルだけではなく、南ユダも神様の激しい怒りにあいます。それは預言者イザヤの警告にもかかわらず、アッシリアに助けを求めたからです。アッシリアは紀元前2000年頃から存在する国でしたが、衰退していた時もありました。それがティグラト・ピレセルの時代に力を持つようになり、当時のパレスチナ地方の脅威となっていました。アッシリアの脅威に対して、北イスラエルはアラムと同盟を結び、南ユダも仲間に加えようとしました。南ユダが応じなかったがために、両国は攻撃してきますが、南ユダはアッシリアに助けを求めました。北イスラエルも南ユダも、王国存亡の危機にあたって、まことの神様に助けを求めないで、地上の国々、異教の神々を礼拝する国、やがて自分達を滅ぼす国に助けを求めたのです。
南ユダに対して神様は「私は彼らに、水のように憤りを注ぐ。私はユダの家には、骨の腐れとなる」と言われました。北イスラエルに対しては「エフライムは蹂躙され、裁きによって踏み砕かれる。私はエフライムに対して食い尽くす虫となる」と言われました。まことの神様に尋ね求めないで、むなしいものを追い続けている南ユダと北イスラエルに、神様の裁きが下されました。南ユダも北イスラエルも、裁きを受けて傷つきましたが、神様に立ち帰りませんでした。「エフライムが自分の病を見、ユダが自分のただれを見た時、エフライムはアッシリアに行き、ユダは大王に使者を送った」と語られているように、他国に依り頼んで助けを得ようとしたのです。このような背信に次ぐ背信に対して、神様は、はっきりと宣言されます。「しかし、彼はお前たちを癒しえず、ただれを取り去ることもできない。私はエフライムに対して獅子となり、ユダの家には、若獅子となる。私は引き裂いて過ぎ行き、さらって行くが、救い出す者はいない。私は立ち去り、自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めて、私を尋ね求め、苦しみの中で、私を捜し求めるまで」
南ユダも北イスラエルも、自分達の敵であるアッシリアに助けを求めます。けれどもアッシリアが彼らを助けることはなく、逆に北イスラエルは滅ぼされることとなります。このように歴史的事実として、北イスラエルを滅ぼすのはアッシリアですが、それは神様の御業として行われます。神様が北イスラエルに対して獅子となって、彼らを引き裂いて過ぎ行き、アッシリアへと連れ去るのです。神様の怒りの前には、地上の国々は何の力も持ち得ません。そして、神様のさまざまな警告、預言者を通して語られてきたことを無視して、地上の繁栄を追い求め、神様を尋ね求めなかったイスラエルには、救い出してくれる者が存在しません。イスラエルが自らの罪を認め、悔い改め、神様を尋ね求めるようになるまで、神様はイスラエルの元から離れ去り、帰って来られません。イスラエルが罪を認め、苦しみの中から神様を尋ね求め、捜し求めるようになった時、再び神様はイスラエルの元へ来て下さるのです。
私達キリスト者は神様の恵みによって、まことなる神様を知らされました。知らされた者として、困難の中にあっても、神様が共にいて下さることを確信する世界が与えられています。どんな時でも、どこにおいても、神様を尋ね求める道が開かれています。神様に助けを求め、救いを求める道が備えられています。まことなる神様を礼拝する自由が与えられています。また現代の日本においては、憲法において「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と定められています。けれども、戦前の大日本帝国憲法では「日本臣民は安寧秩序を妨げずおよび臣民たるの義務に背かざる限りにおいて信教の自由を有す」と定められていました。信仰の自由に制限があったのです。国家神道に反しない限りにおいて、国家の政策に反しない限りにおいて保障された自由でした。今、日本は教育基本法が改悪され、憲法の見直しなどが取り上げられています。右傾化していく日本において、キリスト教信仰を守ることが困難になる可能性もあります。信仰の自由は、政治に大きく影響されます。
しかし、信仰の自由の制限、信仰の自由を失うことは、国家権力や諸外国の影響だけではありません。もっと本質的な自由の喪失は、私達自身が信仰を捨てることです。父・子・聖霊なる三位一体の神を唯一の神様として礼拝しないことから、私達の信仰の自由は失われていきます。聖日ごとに教会に集い、父・子・聖霊なる三位一体の神様に礼拝をささげる中で、あるいは祈祷会や家庭集会の中で御言葉に耳を傾け、祈る中で、神様との間に人格的交わりが確立されていきます。神様との人格的交わりの中に生かされることによって、神様が必ず祈りに応えて下さるという確信を持つことができます。神様が共に歩んで下さっている、神様を尋ね求めるなら必ず応えて下さる。そういう信頼と信仰があれば、どのような状況にあっても、決して絶望することはありません。困難の中にあっても、いや、困難の中にある時にこそ、自分の力や周りの人の力や他の神々に依り頼むのではなく、まことなる神様にすがりつきましょう。詩篇の詩人達のように、率直に苦しみや悩みを神様に訴え、まことなる神様を尋ね求める群れとして、この瀬戸キリスト教会の歩みを整えていただきましょう。