2007/05/06

07/04/15 義の奴隷 T

義の奴隷
2007/04/15
ローマの信徒への手紙6:15~23
 現代医学の進歩により人の生と死とを定義し直す必要を生じてきました。代理出産、体外受精、離婚後の出生届の300日間制限などは議論を巻き起こしています。尊厳死を願う人も多くいます。ヒューマニズムでは解決しきれない問題です。
 現代社会は生命の尊厳を最優先にしますが、生物学的な生と死と社会的な生と死とが乖離してきたからです。生物学的な生命の誕生は卵子が受精した時から始まりますが、受精卵を胎児にまで成長させる過程が複雑になってきました。
 体外受精は卵子を摘出し、精子を受精させるのですが、受精卵の選別が可能になりました。受精卵は母親以外の子宮に戻しても胎児にまで育てることが可能です。これらを組み合わせれば遺伝母が代理母の子宮を借りることもできます。
 代理母には具体的な支障が出ています。子供の親権を巡る争いが起きる場合もあります。代理母が子供を手放さない場合、遺伝母が子供を受け取らない場合が既に起きています。アメリカでは法廷で親権が争われるケースもあるようです。
 代理母に与えるリスク、報酬が不透明になりやすいことにも問題があります。単なるボランティアであっても1年近く胎児を子宮内で育てるのですからそれに見合う謝礼が必要でしょう。いずれにしても綺麗事ではすまされないでしょう。
 既に精子、卵子バンクができているようですし、代理母紹介がビジネスになりかねません。日本では血液の売買は禁じられていますし、親族以外からの生体臓器の提供も禁じられています。代理母も子宮の提供であり問題を感じます。
 一方、医療技術の発達によりを肉体の死を遅らせたり、肉体だけを生かさせたりできるようになりました。体がチューブだらけのスパゲッティ症候群、肉体を生かすだけならば無制限に生かせられますが、尊厳死を求める人も多いのです。
 医療技術の発達は人間の生物学的側面を忘れさせています。生と死は生物にとって重要な意味があるからです。生物の基本である生殖に人間が介入すれば予期しない結果がもたらされます。生物としての調整機能が失われかねないからです。
 理論的には一人の遺伝母から代理母を使えば無制限に近い子供を得ることができます。ナチスドイツにこの技術があれば優生学的に選ばれた子供、遺伝母、父は優秀なドイツ人、代理母は健康なユダヤ人の組み合わせが考えられたでしょう。
 遺伝子を選択する手段としても生殖技術は発展しています。体外受精させた卵子の遺伝子診断技術は先ず劣性の遺伝子を排除する方向に進み、その後優性遺伝子を保存する方向に発展するでしょうが、人為的な遺伝子選択は危険です。
 人間社会を構成するのは生物である人間ですから、遺伝子の多様性を犠牲にして人為的な選択を可能にする技術は人類を滅亡に導きかねません。科学は科学の論理のみで一方的に発展し、人間の倫理の発展の遅れが最近目立っています。
 人が生命に介入することは神の領域を侵すことになるのです。生命は神が与え、取りたもうからです。生命科学の進歩は天まで届く塔、バベルの塔を造ろうとしているのです。現代文明が破綻を来す兆候が既に現れているように思えます。
 パウロは『律法の下ではなく恵みの下にいるのだから罪を犯して良い』という屁理屈を『決してそうではない』と強く否定しています。パウロは奴隷を例えとして用いていますが、奴隷の主人はただ一人だからです。罪に仕える奴隷ならば死に至りますが、神に仕える奴隷ならば義に至るのです。あなた方はこのどちらか一方の世界にしか属せないのです。神と罪とに兼ね仕えることができないからですが、あなた方は既に罪の世界から解放されて義に仕えるようになったのです。洗礼を受け、罪の支配する世界に決別し、神の支配する世界に移住したからです。
 かつてあなた方が罪の世界に生きていた時には五体の汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていました。罪の奴隷であった時には義に対しては自由の身でしたが、どんな実りがあったでしょうか。神に特別に選ばれた民として割礼を誇り、形式的な律法に縛られていた生活は、むしろあなた方を唯一の神、ヤーゥエの御心から離し、意味のない傲慢に導き、不安に陥れたのではないですか。
 律法は罪の自覚を生じさせましたが救いへの道を示せませんでした。人間はいかに努力しても律法を守りきれないからです。律法の世界では人間は常に有罪と宣告され続けるからです。律法の世界では無罪とされることはありえません。ですから人間は人間の都合に合わせて神の律法を人間の律法に改竄したのです。
 律法学者達は神の律法、モーセ五書から様々な細則、ミシュナを造り上げました。十戒で定められた戒め、安息日を聖別せよ、父母を敬え、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、偽証してはならない、貪ってはならないを人間的に解釈しました。律法の基本である『自分を愛するように隣人を愛せよ』から逸脱した戒めを定めました。律法学者は律法を貪りに利用したのです。
 律法は神の戒めから人間の戒めに変化してきました。神に選ばれた民の信仰生活を豊かにするための律法が民の生活を縛る桎梏、手かせ足かせとなってきたのです。律法に縛られた生活は人を罪に定める生活です。律法には罪を指摘し、有罪の判決を下す機能しかありませんから、行き着くところは死に他なりません。
 しかし、あなた方はキリストの十字架での死と甦りを信じたのですから、既に罪から解放されているのです。あなた方は信仰を告白し、洗礼を受けた時に罪の奴隷、律法の奴隷から義の奴隷、神の奴隷へと変えられたのです。あなた方の主人は律法から神に変えられたのですから、聖なる生活の実が結ばれてきています。
 あなた方は律法の世界から恵みの世界へ移されたのですから、死に行き着く世界から永遠の命に連なる世界へ移されたのです。罪が支払う報酬は死だからですが、神の与える賜物は私たちの主キリスト・イエスによる永遠の命だからです。
 パウロは人間には死で終わる世界で生きるか、永遠の命に連なる世界で生きるかどちらかであると考えています。二者択一を迫っているのです。イエス様は神と富とに兼ね仕えることはできないと言われましたが、パウロは神と律法、ユダヤ人が拘った形式的な律法とに兼ね仕えることはできないと主張しているのです。その一方、例え異邦人でも神の律法を守る者は神に選ばれた民なのです。
 律法は主の十字架により成就したのです。行いではなく恵みにより律法は全うされるのです。旧約聖書が預言したメシア、救い主はイエス様だからです。主の十字架により、死が支配する世界から永遠の命に連なる世界へと移されたのです。
 人間は神の奴隷になるか、罪の奴隷になるかを選ばなくてはなりません。人間に求められるのは信仰を告白し洗礼を受けることだけですが、総ては神の恵みによりなされるのです。行いの法則ではなく恵みの法則に則ってなされる神の秘儀です。「救われるために何もしなくても良い」のですが、救われた者にはそれに相応しい生活があります。恵みの世界が強調されていますが、義の実を結ばせることも求められているのです。律法は「……をしてはならない」世界、消極的な世界でしたが、聖化は「……をする」世界、積極的な世界です。主の恵みにより義とされた者がそれに相応しい生活を送り、人格を完成させていく世界なのです。
 主の愛と恵みは主から一方的に与えられますが、人間には与えられた愛と恵みに応答する義務が生じます。自由の恩恵の教理は「主の恩恵が無限であるのならば、人間の罪は有限であるから、人間は罪に捉われる必要はない。だから好きなようにしても良いのだ。結局はみんな同じだ」という屁理屈を成り立たせますが、パウロは明確に否定しています。良い実を結ばない木は切り倒されるからです。
 プロテスタントには聖化を重んじる気風が強いのです。ギリシア人は労働を奴隷のする仕事だと軽んじましたし、中世の貴族や聖職者も労働を軽んじました。信仰覚醒運動は先ず托鉢から始まり、修道院を造り、労働と祈りに一生を献げ尽くしたのです。宗教改革が労働に目覚めさせ、資本主義への道を開いたのです。
 アメリカは約束の地でした。ヨーロッパから信仰の自由を求めて移住して来たた開拓者は、主に選ばれた者として新天地の開拓を続けたのです。神の民イスラエルが出エジプトの旅を終えて約束の地カナンへ上ったように彼らは大西洋を越えてアメリカへ移住してきたのです。開拓は主に選ばれた者としての使命でした。
 アメリカへの移住はハイリスク、ハイリターンの世界でしたが、信仰が彼らをアメリカへ導いたのです。開拓者は神に選ばれた者として神の国を地上に造ろうとしたのです。神に選ばれた者に相応しい社会を造ろうとしたのです。開拓者は新天地を求めて移住し続けたのです。開拓者魂は信仰に裏付けされていたのです。
 自由主義、民主主義の根本にある自由、平等、基本的人権は信仰に立脚した概念です。創世記に『神は御自分にかたどって人を創造された』と記されているように、人間は神と同じく思考力を持ち、自由意志を持つ存在だからです。そして人間は主の十字架により罪を贖われた存在だからです。主が『自分を愛するように隣人を愛せよ』と言われたようにお互いに愛し合わなくてはならないからです。パウロは私たちは神の神殿であり、聖霊が宿る神殿であると表現しいくらいです。
 隣人と自分を同列に置く視点は古代の氏族・奴隷制社会、中世の封建社会から近代の市民社会へと人類を導き出しました。プロテスタント神学が身分制度が残る社会から基本的人権が守られる社会へ進化させる力となりました。パウロが上に立つ権威に従うべきだと述べているのは奴隷制社会に生きていたからです。
 パウロが教会の外の世界に興味を示さないのは主が再臨なされ日が近いと考えていたからですが、宗教革命以降、信仰は社会を変革する力を持ち始めました。神の国を地上に実現しようしたからです。自由、平等、博愛を求めて市民革命が起き、反革命も起きましたが、自由主義、民主主義が国際標準になりました。民主主義は最善の政治体系ではありませんが、誤りの起き難い政治体系だからです。
 キリスト者には死が総ての終わりを意味していません。死の向こうにある世界、神の国を仰ぎ見ているからです。私たちの地上での歩みは肉体が死を迎えるまで続きますが、死は終着点ではありません。神の国へ移されるための乗換駅です。
 死が終わりならば、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』となってしまうかもしれませんが、永遠の生命を信じているキリスト者には主に選ばれた人間に相応しい聖なる生活を送る義務があるのです。
 信仰は救われるための必要条件ですが、聖なる生活は救われるための十分条件です。信仰は主から一方的に与えられる恵み、賜物ですが、聖なる生活は人間の主の愛と恵みに対する応答です。信仰の世界では恵みと応答がワンセットなのですが、ユダヤ社会では信仰と行いがいつの間にか後先になってしまいました。割礼と律法が救いの必要条件となり、義とされることが十分条件になったのです。
 私たちは自分自身の生活を省みれば聖なる生活とほど遠いと思うかも知れませんが、主が求められるのは修道院のような生活ではありません。一言で言えば人生の目標を主の日に置きながら、希望を失わず、日々主に感謝して生活することではないでしょうか。自分を愛するように隣人を愛することではないでしょうか。
 人生の目標を高く掲げる人もいれば低く抑える人もいますが、主が求められるのは主から与えられた賜物を主のために使うことです。主から与えられた賜物は人間の能力、才能とは違います。能力、才能は人間の評価であり、賜物は主の評価だからです。できないことも賜物なのです。例えば障害も賜物であるからです。
 信仰の世界は前進するか後退するかのどちらかです。視線を主に向けようとしているのか、いないかのどちらかだからです。もちろん主を見失い、道を踏み外すこともありますが、主を求める姿勢が崩れなければ本道に戻ることができます。危険なのは頂上を極めたと錯覚することです。信仰の世界に頂上はないからです。
 聖化は主に倣う道だといえるかもしれません。人間は主と並ぶことなどできませんが、聖くなる、完全を目指して永遠に続く道のりひたすら歩み続けることに意味があるのです。歩んた距離ではなく、努力し続けたことに意味があるのです。
 主は成果ではなく努力を評価されます。主はどんなに小さなことにも忠実であろうと努力することを喜ばれるのです。主の評価は絶対評価であり、相対評価ではないからです。むしろ小さなことに忠実であることの方を好まれるのです。
 瀬戸キリスト教会は開設10周年を迎えます。教会の10年の歩みを10年間でこれだけのことしかできなかったと評価する人もあるかもしれませんし、10年でこれだけのことを成し遂げたと評価する人もあるかもしれませんが、教会のなかった高知市南部に教会を建て続けたことを主は喜ばれていると信じています。
 伝道所開設10周年記念事業として会堂に講壇を増築しようとしていますが、Ⅱ種教会設立のためには必要な事業です。現在の教会の実力に見合う事業だと思いますが、無理をしないことが肝要です。主が求められるのは身の丈にあった奉仕です。奉仕が負担になり、教会生活に支障が来されれば本末転倒だからです。
 10年後の幻には、Ⅱ種教会が設立されており、新会堂建設が20周年記念事業になっている姿が浮かんでいます。10年の歩みを思い起こせば焦る必要はありません。マイペースで今まで通りに歩み続ければ主は幻を実現させてくれます。