2007/05/06

07/04/22 律法に対して死んだ者 T

律法に対して死んだ者
2007/04/22
ローマの信徒への手紙7:1~6
 厚労省が世論に後押しされて終末期医療のガイドラインを作成しました。富山県射水市民病院の外科医が末期患者の人工呼吸器を独断で外したとして告発されました。家族の同意の上での決断でしたが、殺人容疑で捜査されているからです。
 (1)患者と医療機関の合意内容を文書にする(2)患者本人の意思が推定できない場合は家族と話し合い、患者にとっての最善策をとる(3)方針が決まらないときは複数の専門職による委員会を別途設立して助言するの三点です。
 日本尊厳死協会の尊厳死の宣言書(リビングウィル)では(1)延命措置の拒否(2)苦痛緩和措置の依頼(3)生命維持装置の使用停止の三点を求めていますが、誰が死期の診断、植物状態の認定をするかが明らかにされていません。
 現在の法体系では例えリビングウイルがあったにしても主治医は刑事告発をされかねません。トラブルを避けるためにはリビングウイルを無視しても生命維持装置を使用し続けるしかありませんが、それに対する批判が出てきているのです。
 人には人間としての尊厳を保ちながら死ぬ権利があるはずですが、日本では患者を一分一秒でも生かし続けるのが医者の義務だと考えられています。生命維持装置により生かし続けられるのを望まない人もいますが現状では認めらません。
 今回のガイドラインでもリビングウイルが認められる保障はありません。リビングウイルが倫理委員会に提出され、尊厳死が認められたのにも拘わらず院長が拒否した例もあります。医者が尊厳死を実行するのには高いリスクが伴います。
 良心的な医師は刑事告発をされるのを覚悟の上で尊厳死をさせているのです。病院には延命治療は医療費を稼ぐ打ち出の小槌でしょうし、刑事告発のリスクを冒すのは馬鹿げたことでしょうが、患者の意志を尊重する医師もいるのです。
 終末期医療が問題にされる背景には病院でしか最期を迎えられない現状があります。患者は家庭で最期を迎えることを望みますが、日本では許されない贅沢なのです。家庭医制度が崩壊した日本では在宅医療は望めなくなったからです。
 不必要な終末医療がなされている背景には日本の皆保険制度があります。医療費が自己負担ならば終末医療を拒否し、家庭で最期を迎える人が増えるでしょう。老人医療費の増大の一因には終末医療に掛かる医療経費の増大が考えられます。
 時代は不必要な医療、終末医療に掛ける膨大な保健医療費を現役世代に回すべき転換期に差し掛かっています。老人の多くは元気な老後を送り、人間らしく死ぬことを望んでいるからです。認知症は現代科学が生んだ文明病だからです。
 死はキリスト教徒には神の国への乗換駅に過ぎず、仏教徒には此岸から彼岸へと移るだけに過ぎません。非宗教、無宗教の人には肉体の死にすぎません。いずれにしろ人は必ず死ぬのですから、その人らしい死を迎える権利があります。
 医学の進歩は延命技技術を進化させました。それを活用する権利もありますが、拒否する権利もあるはずです。医学の進歩に生命倫理は対応できていません。医療技術は進歩しましたが、生命倫理は未成熟ですから議論の積み重ねが必要です。
 パウロは文字に従う古い生き方、律法に従う生き方から洗礼を受け、聖霊に満たされた時から”霊”に従う新しい生き方へ変えられたことを結婚を比喩に用いて説明しています。パウロは律法を知っているユダヤ人キリスト者、改宗者に向かい、律法は人が生きている間だけ人を支配することを明らかにしています。
 結婚した女性は夫が生きている間は律法により夫に縛られていますが、夫が死ねば夫から解放されます。律法によれば妻が他の男と姦通すれば姦淫の罪により石打の刑にされますが、夫が死ねば他の男と一緒になることは自由だからです。
 キリスト者は洗礼を受る時に水に浸されました。その時に肉体は一度死んだのですから、律法に対しても死んだ者とされたのです。水から浮かび上がった時に聖霊に満たされて生まれ変わったのですから、死者の中から復活された方のものとされたのです。神に対して実を結ぶようになるために生まれ変わったのです。
 私たちが肉に従って生きている間は罪へ誘う欲情が五体の中に働き、死に至る実を結んでいるからです。パウロは人の中に罪の誘惑に応じるものが存在していることを理解していました。もし人間の中に罪に応じるものがなければ人間は罪の攻撃に対しても無害ですが、人間の中には罪のために橋頭堡を提供してしまうものが存在するからです。律法が人間の情欲を揺り動かすから罪に陥るのです。
 アダムが禁断の木の実を食べたのは神から食べることを禁じられていたからです。アダムは神に禁じられているがゆえに善悪を知る木になる木の実を食べてみたいという欲情に駆られたのです。アダムは神のように善悪を知りたいという欲情に目覚めたのです。エバはアダムを唆かしたにすぎないのです。人間は律法により情欲に目覚めるのです。律法には情欲を解放させてしまう働きがあるのです。
 私たちが肉の支配の下に生きてきた時代には情欲に支配されるしかありませんでした。律法に従えば有罪と判定されるしかなかったのですが、律法に対して既に死んだ現在はキリストの支配の下に移されています。私たちは律法の縄目から解放され、復活の主により新しい生き方に変えられたがゆえに無罪とされるのです。古い律法の世界は過ぎ去り、新しい世界、愛と恵みの世界が到来したのです。
 ユダヤ教、キリスト教は性的な乱れを決して赦さない宗教ですから、結婚の比喩は律法の世界と福音の世界を両断した譬えです。両者の間には質的な違いがあるからです。信仰を告白し、洗礼を受けた者は寡婦が過去の婚姻から自由になるように律法ではなく、”霊”に従う新しい生き方をすべきであると勧めています。
 新しい生き方は戒めの世界「……してはいけない」世界から愛を与える世界「……を与える」世界へと質的に変えられるのです。消極的な世界から積極的な世界へと変えられのです。律法、戒めを犯す恐怖から戦々恐々と生きる世界から主の愛を分かち合う世界、愛を与える喜びに満ち溢れた世界へと変えられるのです。
 新しい世界では人は律法の規制を受けません。人は律法に対する恐怖ではなく愛の力により行動するからです。主の愛と恵みを分かち合う世界は主の愛と恵みに応答する世界でもあります。主の新しい戒めは『精神を尽くし、心を尽くして主を愛せよ』、『自分を愛するように隣人を愛せよ』ですが、恐怖ではなく愛が支配する世界を主は求められているのです。律法による拘束では到達することができなかった神の世界を、主は愛の力により目指すことを求められているのです。
 イエス様が『不品行のゆえではなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は姦淫を行うのである』と言われたように、結婚は信仰生活において重要な意味を持ちました。カトリック教会では秘儀の中に加えられているくらいです。パウロが結婚をした女性を比喩に用いたのは信徒の最も身近な問題であったからです。
 パウロ自身は結婚に否定的でしたが、主が再臨なさる日を間近に考えていたからかも知れませし、情欲を嫌ったからかも知れません。しかし、結婚を否定したのではありません。情欲に溺れるよりも結婚をすることを勧めていました。寡婦にも再婚を勧めていましたが、弱い立場の寡婦の生活への配慮もありました。
 パウロの結婚した女は夫が生きている限り自由にはなれないが、夫が死ねば自由になるという比喩はかなり革新的な考え方です。レピラト婚、夫が死ねば兄弟と結婚し、子供を夫の跡継ぎにしなければならないと定められていました。寡婦には畑仕事の手伝い、落穂拾いをするしか生計を立てる手段はありませんでした。
 いずれにしろ律法には寡婦に対する配慮が定められていましたが、ユダヤ社会では寡婦は形式的な律法に縛られていました。教会では女性の地位が高まっていたのかも知れません。新しい生き方を寡婦の生き方に例えているからです。
 パウロは律法を過去の桎梏、手枷足枷に例えていますが、律法を否定しているのではありません。イエス様は福音は律法を完成するものと見なされています。パウロも律法は神聖なものだと理解していますが、現実が律法から乖離し過ぎているのです。ユダヤ人の割礼と律法に対する拘りが福音を遠ざけているからです。
 パウロは主の福音と律法が対立している世界に生きていたのです。福音を受け入れながらも福音から遠ざかる信徒が続出している世界に生きているのです。彼らの多くは福音による自由を受け入れながらも、律法に縛られた生活から抜け出せないのです。信仰を告白し、洗礼を受けて生まれ変わりながらも過去の生活、律法から解放されていないのです。だから過去の生活の主人、律法が死に絶えので、寡婦、信徒は主人、律法から解放されるたから自由であると例えたのです。
 あるいはパウロの脳裏には偽使徒、党派争いが浮かんでいたのかも知れません。人間は信仰により生まれ変わったとしても、人間の弱さをなかなか克服することはできません。むしろ信仰により自由にされたことが人間の弱さを解放してしまうかも知れないからです。人間の弱さ、原罪から解放されることは難しいのです。
 パウロに迫った諸教会のやっかい事、心配事の多くは人間の弱さが引き起こしたものでした。福音による自由を放縦と勘違いした信徒も多くいました。主の日を待ち望み、空を見上るばかりで日々の生活を疎かにした人たちもいました。信仰が信徒の教会生活を向上させるよりも退廃に向かわせたこともあったのです。
 文字に従う古い生き方は単に割礼、律法に拘る生活だけではなく、人間の弱さに起因する教会生活の乱れをも意味していると思われます。”霊”に従う新しい生き方で主に仕えるようにされるためには主との生きた交わりが必要なのです。
 パウロは人間の肉の内には悪が住み、善が住んでいない。善をなそうとする意志があってもそれを実行することができない。心では神の律法に仕えているが、肉では罪の法則に仕えていることを自覚しています。この自家撞着から解き放ってくださる御方こそ生ける主であり、私たちの内に宿っている”霊”なのです。
 私たち日本人にはパウロがなぜあれほどに律法と割礼からの自由に拘ったのかが理解できませんが、日本的慣習、宗教からの自由、天皇崇拝からの自由、あるいは近代科学からの自由に置き換えてみれば分かりやすいかもしれません。
 私たちは無意識の内に日本の土俗宗教に捉われています。特に冠婚葬祭の席上では日本の慣習に従わざるを得ませんが、信教の自由が保障されているので信仰までが否定されることはありません。天皇崇拝も強制されるわけではありません。
 しかし、近代科学に対する正確な知識を欠き、それに捉われてしまうと信仰が非科学的だと否定してしまいかねません。科学が理解している世界は信仰の世界とは異次元な世界です。19世紀のある物理学者はニュートン力学により宇宙の真理が解明されたと信じ込んでいましたが、相対性理論、量子力学、ビッグバーンがその常識を覆しました。人間の常識が通用しない世界が存在するのです。
 信仰の世界を科学的に証明しようとする試みがなされてきました。例えば理神論は過去の遺物です。アメリカでは宇宙創造、生物進化を新たな視点で見直す運動が起きいますが、創世記の焼き直しと批判する人もいます。いずれにしろ人間には宗教が必要なのは事実ですが、日本のように非宗教の民族は例外のようです。
 パウロの生きていたローマ世界は多民族、多宗教、多文化国家でした。キリスト教もローマの秩序を犯さない限り自由でした。教会を迫害したのはローマ帝国ではなくユダヤ人でした。律法と割礼に拘る頑迷なユダヤ人が教会の迫害者でした。律法と割礼からの自由は教会を立て続けるための合い言葉になりましたが、ローマ人にはキリスト教は無数の神様に新たらしい神様が加わっただけでした。
 パウロの宣教は異邦人に向けられましたが、ユダヤ教の影響を色濃く残す人たちが教会に加わりました。さらに異邦人キリスト者にはエルサレム教会が本山という意識があったようです。パウロは教会員の意識改革に取り組んだのです。
 私たちにも意識改革が必要なようです。日本人の常識から自由になる必要もあるからです。教会はアジアの片隅のパレスチナ地方から全世界に拡がりました。主の福音は一つでも教会のある地方の常識を反映した地域バーションがあるのです。例えばクリスマスはゲルマン人の冬至を祝う祭りが反映したものだからです。
 日本人には福音の日本人バーションがあっても良いのかもしれませんが、『イエスは主である』は福音の真理ですから変えられません。日本の風土、宗教、教育などは教会生活に影響を及ぼしますが、越えてはいけない一線があるはずです。
 私たちの教会生活は社会から隔離されたものではありません。福音宣教は社会生活を営む中でしかできないないからです。修道院の中の生活は個人の信仰にはよいかもしれませんが、教会の信仰としては相応しくありません。教会は社会から遊離してはいけないからです。伝道の基本は正しい教会生活にあるからです。福音伝道は信仰と社会常識との相互作用、緊張関係から生まれるものだからです。
 私たちは教条主義、原理主義に陥ってはなりませんし、修正主義に陥ってもならないのです。信仰者としての常識を働かせることが肝要なのです。信仰生活の原理は一つですが信仰生活は応用問題だからです。教会生活の中で応用問題を解く能力を高めなくてはならないのです。一人で問題を抱え込むではなく皆で考えれば自ずから道が開けます。教会員は家族であり、教会は信仰共同体だからです。