2007/05/06

07/04/29 義の種、愛の実り M

2007年4月29日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
義の種、愛の実り     ホセア書10章11-12節
讃美歌 79,Ⅱ59,166
堀眞知子牧師
神様は、イスラエルを御自分の民として召し出され、愛し続けてこられました。9章10節に「荒れ野でぶどうを見いだすように、私はイスラエルを見いだした。いちじくが初めてつけた実のように、お前たちの先祖を私は見た」と記されていたように、神様はイスラエルを大切に扱い、愛を注いでこられました。エジプトで奴隷であったイスラエルを救い出し、約束の地カナンまで導かれ、乳と蜜の流れる地カナンをイスラエルに与えられました。イスラエルは約束の地に植えられ、勢いよく伸び、枝を張り、豊かな実を結ぶ、ぶどうの木でした。豊かな土地の実りは、神様から与えられるものです。ところが、イスラエルは国が豊かになるにつれて、異教の神々の祭壇を増し、聖なる柱を飾り立てました。神様から与えられる物質的豊かさ、経済的繁栄に反比例するかのように、イスラエルはまことの神様から離れ、偶像礼拝の罪を重ねました。ホセアは「彼らの偽る心は、今や罰せられる」と裁きの言葉を語ります。「偽る」は、ヘブライ語原文では「滑らかである、当てにならない、へつらう、二心である」という意味の言葉が使われています。口先だけで、真心の伴わないイスラエルの姿を現しています。神様が諸国の民の中からイスラエルを選び、契約を結ばれ、愛し続けられたにもかかわらず、神様にとってイスラエルは、当てにならない存在でした。表と裏の心を持っていました。契約の相手方として、ふさわしくない民でした。
神様は、人間の嘘を見抜かれる御方です。契約を守らなかった民に対して、契約不履行の罰が下されます。神様はイスラエルが築いた祭壇を打ち砕き、聖なる柱を倒されます。イスラエルは神様が与えて下さった物質的豊かさ、経済的繁栄によって、異教の神々を礼拝するための祭壇と石柱を築いていました。やがてイスラエルは、祭壇と聖なる柱が破壊されるのを見ることになります。ホセアが今日の箇所を語ったのは、おそらく紀元前731年以降と考えられます。733年にサマリア周辺を除いた地域が、アッシリアによって占領され、北イスラエルは属国となりました。731年、北イスラエルの王となったホシェアは、アッシリアに貢ぎ物を贈るようになり、表面的には少し平和になりました。けれども、サマリア陥落まで10年もありません。嵐の前の一時的な凪、それも最後の凪にしか過ぎませんでした。そのことにホシェアを始めとして、北イスラエルは気付いていません。気付いていない彼らに、ホセアは神様の裁きを語り続けます。
北イスラエルは、最初の王ヤロブアムが犯した罪、ベテルとダンに金の子牛を置き、聖なる高台に神殿を設け、レビ人でない者を祭司として立てた罪から、ついに離れることができませんでした。偶像礼拝の罪に陥った北イスラエル、罪ゆえに滅亡しようとしている北イスラエルを、救う者はいませんでした。イスラエルは「我々には王がいなくなった。主を畏れ敬わなかったからだ。だが王がいたとしても、何になろうか」と言います。イスラエルは、自分達が神様を畏れ敬わなかったがゆえに、国そのものが滅亡すること、自分達の王が自分達を救い得ないことに気付きました。「我々には王がいなくなった。主を畏れ敬わなかったからだ。だが王がいたとしても、何になろうか」というイスラエルの言葉は真実ですが、本当の意味で彼らは、まことの神様の救いに気付いてはいません。救いを与えて下さるのは、まことなる神様のみであることに目が向けられていません。ホセアは語ります。「彼らは言葉を連ね、偽り誓って、契約を結ぶ。裁きが生え出ても、我が畑の畝に毒草が生えるようだ」イスラエルは言葉を重ね、誓いを立て、契約を結びますが、それは真実ではありません。彼らは二心であって、表面的には神様に従うかのように振る舞いますが、それは本心からではありません。「裁き」という言葉を語っても、それは真実の裁きではありませんので、畑の畝に生える毒草のように、国中に不正がはびこるのです。
イスラエルは、王が自分達を救い得ないことには気付きましたが、それでもなお偶像に頼っていました。「サマリアの住民は、ベト・アベンの子牛のためにおびえ、民はそのために嘆き悲しむ。神官達がその栄光をたたえても、それは彼らから取り去られる。偶像はアッシリアへ運び去られ、大王の貢ぎ物となる」と記されているように、金の子牛はアッシリアへ貢ぎ物として持ち去られ、イスラエルは、そのために嘆き悲しみます。イスラエルは人間の無力さに気付きながらも、偶像にしか過ぎない金の子牛に希望を託していました。自分達が、むなしいものに頼っていることに気付きませんでした。いや、より正確に言えば、自分達が頼っているものがむなしいもの、信頼に足らないものであることに気付いたとしても、真に頼るべき御方が誰であるかに気付きませんでした。神様に立ち帰ることだけが救いにつながる道であり、神様のみが信頼に足る御方であることに気付く、そういう信仰的感性を失っていました。神様に立ち帰る道を見失った北イスラエル、彼らは滅亡の日を免れることはできません。サマリアは滅ぼされ、王も国民も水に浮かぶ泡のようになって、自分の力では何もなしえません。イスラエルが築いたアベンの聖なる高台、イスラエルの罪である高台は破壊され、茨とあざみがその祭壇の周りに生い茂るようになります。その時、イスラエルは山に向かい「我々を覆い隠せ」丘に向かっては「我々の上に崩れ落ちよ」と叫びます。イスラエルは、神様の裁きに耐えられなくなって、山や丘の下に埋もれることを願うようにさえなります。
イスラエルに対して、神様が罪を告発し、裁きを語られます。「イスラエルよ、ギブアの日々以来、お前は罪を犯し続けている。罪にとどまり、背く者らに、ギブアで戦いが襲いかからないだろうか。いや、私は必ず彼らを懲らしめる。諸国民は彼らに対して結集し、2つの悪のゆえに彼らを捕らえる」前回も申しましたが、ギブアの日々とは、士師記19-21章に記されている事件です。ベニヤミン族がレビ人の側女を辱めて殺しただけでなく、全イスラエルに敵対した事件です。その時からイスラエルは罪を犯し続けていました。彼らの信仰的堕落はひどく、神様の御言葉に耳を貸さないで、反抗的姿勢を取り続けました。神様はイスラエルに問い掛けるかのように「罪にとどまり、背く者らに、ギブアで戦いが襲いかからないだろうか」と語った後「いや、私は必ず彼らを懲らしめる。諸国民は彼らに対して結集し、2つの悪のゆえに彼らを捕らえる」と神様御自身が罰を下されることを宣言されます。「2つの悪」とは、かつてギブアでなされた悪と、その悪から離れることができなかったがゆえに、現在ギブアでなされている宗教的・政治的悪です。
罪から離れることのできないイスラエル。罪を犯し続けているイスラエル。まことの神様に立ち帰る道を見失ったイスラエル。けれども、神様に従って歩み続けていたなら、イスラエルは全く異なった道を歩んでいたはずです。神様はホセアを通して語られます。「エフライムは飼い馴らされた雌の子牛、私は彼女に脱穀させるのを好んだ。私はその美しい首の傍らに来た。エフライムに働く支度をさせよう。ユダは耕し、ヤコブは鋤を引く」もともとイスラエルは、飼い慣らされた雌の子牛でした。野生の牛ではありません。神様に飼い慣らされることを好む、雌の子牛でした。「私は彼女に脱穀させるのを好んだ」と語られているように、いわゆる乳牛でもなければ肉牛でもありません。畑を耕し、鋤を引く農耕用の牛でした。ホセアは「恵みの業をもたらす種を蒔け、愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて、恵みの雨を注いで下さるように」と語ります。神様は諸国の民の中から、特にイスラエルを選ばれました。選ばれたイスラエルには、神様から使命が与えられていました。「恵みの業をもたらす種を蒔け、愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ」「恵みの業」という言葉は「正しさ、正義、神の与えられる義」を意味しています。選民イスラエルは、飼い慣らされた雌の子牛として、新しい土地を開墾し、神様の与えられる義の種を蒔き続けることを、使命として委ねられていました。義の種を蒔き続けることによって、愛の実り、義の種にふさわしい実りが与えられ、豊かな刈り入れの時が備えられるのです。イスラエルが神様を求め続け、義の種を蒔き続ける中で、神様が御業を現して下さり、豊かな実りを与える恵みの雨が注がれます。イスラエルには神様の御顔を仰いで、神様の宝の民として歩む道が備えられていました。
けれども、約束の地カナンを与えられてより約500年、イスラエルは神様の御計画とは異なる歴史を、むしろ神様の御心に反する歴史を積み重ねてきました。神様はホセアを通して語られます。「ところがお前たちは悪を耕し、不正を刈り入れ、欺きの実を食べた。自分の力と勇士の数を頼りにしたのだ」イスラエルは、与えられた新しい土地を開墾しましたが、彼らが蒔いたのは悪の種であり、刈り取ったのは不正であり、欺きの実りを日々の糧としました。イスラエルには、神様の民として、神様に信頼を置き、信仰を基盤にして国家を築く使命がありました。にもかかわらず「自分の力と勇士の数を頼りにしたのだ」と記されているように、政治や経済などの人間の力と軍事力に頼って、国家を築いてきました。人間の力に頼り、軍事力に頼る国家は、それによって滅びます。イスラエルの不信仰の結果について、ホセアは語ります。「どよめきがお前の民に向かって起こり、砦はすべて破壊される。それはシャルマンがベト・アルベルを破壊し、母も子らも打ち殺したあの戦の日のようである。ベテルよ、お前たちの甚だしい悪のゆえに、同じことがお前にも起こる。夜明けと共にイスラエルの王は必ず断たれる」「シャルマンがベト・アルベルを破壊し、母も子らも打ち殺したあの戦の日」というのが、具体的に、どの事件を指しているのかは分かりません。けれども当時のイスラエルにとっては、よく知られている悲惨な事件であったようです。その時と同じように悲惨な事件が北イスラエルを襲い、完全に滅ぼされる日が必ず来ることを、ホセアはイスラエルに預言しました。神様はホセアを通して、北イスラエルの滅亡の日を語られましたが、イスラエルの滅びを心から望まれているのではありません。イスラエルが飼い慣らされた雌の子牛として、新しい土地を開墾し、神様の与えられる義の種を蒔き続ける使命に背いたがゆえに、滅びへの道を歩まざるを得なかったのです。滅びへの道を歩み続けるイスラエルに、神様が何度も預言者を通して「私に立ち帰れ」と招かれたにもかかわらず、招きに応えなかったがゆえに、神様は裁きを下さざるを得なかったのです。
神様はホセアを通して、イスラエルに「恵みの業をもたらす種を蒔け、愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて、恵みの雨を注いで下さるように」と語られました。神様は諸国の民の中から、特にイスラエルを選ばれたように、私達も多くの民の中から、キリスト者として召し出されました。なにゆえに私達が、キリスト者として召し出されたのか、その理由は分かりません。私達のうちに何かがあったのではなく、ただ「恵み」としか言いようがありません。恵みによってキリスト者として召し出された私達には、イスラエルと同じように、神様から使命が与えられています。新しい土地を開墾し、義の種を蒔き続け、与えられた愛の実りを刈り入れることです。それは同時に、自分自身の信仰の感性を養うこと、養っていただくことでもあります。「主を求める時が来た。ついに主が訪れて、恵みの雨を注いで下さるように」と記されているように、神様を求め続けることによって、私達の魂を神様が開いて下さいます。もちろん、最初に声をかけて下さるのは神様です。けれども神様を知った、洗礼を受けた、それで私達の信仰生活は完成するのでもなければ、終わるのでもありません。むしろ洗礼は信仰生活の始まりであり、私達は与えられた地上の日々、神様を求めながら信仰生活を続けるのです。神様によって、地上の命を取られる日まで、神様を求める生活が続きます。いや、神様に信頼して、地上の日々を送る生活が、私達には与えられているのです。自らの魂を耕す、それは悔い改めの日々です。私達は絶えず、神様に訪れていただいて、恵みの雨を注いでいただかなければ、自分中心になり、神様に立ち帰る信仰を失ってしまうのです。
パウロはコリントの信徒への手紙二9章10節で「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させて下さいます」と述べています。この「あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させて下さいます」という箇所は、口語訳聖書では「あなたがたの義の実を増して下さるのである」と訳されています。パウロが「義」という言葉を語る時、それは「信仰により神様から与えられる義」を意味しています。神様がイスラエルに、義の種を蒔き続けることを命じられたように、新しいイスラエルである私達、主の教会も義の種を蒔き続けることを命じられています。そして、義の種を蒔き続けるように命じられている神様は、私達に種を与え、パンを糧として与えて下さる御方です。私達の日々の生活を覚え、必要なものを与えて下さる御方です。そのように配慮に満ちた神様が「義の種を蒔き続けよ。愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕し続けよ」と命じておられます。私達の前には、そのような神様に従い続ける道が開かれています。古いイスラエルは、神様の御命令に従い続けることができませんでした。しかし、私達は、神様の御独り子イエス様から、恵みと力をいただいています。主イエス・キリストの十字架の血潮によって立てられた、新しい契約の相手方として召し出されています。瀬戸キリスト教会は、主イエス・キリストを信じる群れとして、この地に立てられ、主イエス・キリストの証人として世に遣わされています。私達は、神様の御業に信頼を置き、神様の恵みに感謝すると共に、神様の招きに素直に応える道を、神様によって整えていただきましょう。そして、私達自身の信仰を日々、養っていただくと共に、新しい土地、委ねられた土地に義の種を誠実に蒔き続け、愛の実りを刈り入れる喜びに、共に与らせていただきましょう。

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