07/05/06 我が子イスラエル M
2007年5月6日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
我が子イスラエル ホセア書11章1-4節
讃美歌 80,Ⅱ59,169
堀眞知子牧師
4-10章までホセアは、イスラエルの罪、それに対する神様の裁き、イスラエルの背信の歴史を語ってきました。11章では、そのようなイスラエルの態度とは全く対照的な神様の愛が、神様御自身によってイスラエルに語られます。イスラエルが、まだ幼かった頃、神様はイスラエルを愛されました。その愛は「イスラエルをエジプトから呼び出し、我が子とする」という形において現されました。出エジプトのできごとです。カナン地方が飢饉に陥った時、ヤコブ一族はエジプトの司政者となっていたヨセフの招きによって、エジプトに移住しました。最初の数十年間は、司政者の一族として優遇された生活を送っていましたが、やがて王朝が代わり、イスラエルは奴隷となりました。奴隷としての労働のゆえに呻き、助けを求めるイスラエルの叫び声を聞かれた神様は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされました。そして、助けの御手を差し伸べられました。具体的にはモーセを出エジプトの指導者として召し出され、10の災いをエジプトの地で起こされ、イスラエルがエジプトを脱出できる道を開かれました。さらに荒れ野の40年の旅を守り、約束の地カナンへとイスラエルを導かれました。イスラエルを御自分の宝の民とされました。それはイスラエルの功績によるのではなく、一方的な神様の選びであり、神様の愛でした。アブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約を、神様御自身が守られたのです。
そのように神様から愛され、申命記に記されていたように「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである」と言われ、神様の宝の民、神様の子供とされたにもかかわらず、イスラエルは神様に対して従順ではありませんでした。神様の愛に応えませんでした。契約を守りませんでした。神様は語られます。「私が彼らを呼び出したのに、彼らは私から去って行き、バアルに犠牲をささげ、偶像に香をたいた」エジプトの奴隷状態から解放し、約束の地カナンを与えたにもかかわらず、イスラエルは神様から離れ、バアルの神々に走りました。バアルの神々に犠牲をささげ、偶像にしか過ぎない神々に香をたいて、自分達の礼拝をささげました。「あなたには、私をおいて他に神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それに仕えてはならない」という神様の戒めに背いたのです。背いただけではなく、それが罪であるということに気付いてすらいませんでした。イスラエルは、かつて神様が自分達の上になされた御業を忘れ、カナンの土俗の宗教観に染まり、唯一なる神様への信仰を失ったのです。
唯一なる神様への信仰を失ったイスラエルを、神様は忍耐をもって愛されました。幼いイスラエルの腕を支え、歩くことを教えて成長させたのは、まことなる神様でした。バアルではありませんでした。イスラエルの病気や怪我を癒したのも、まことなる神様でした。バアルではありませんでした。けれどもイスラエルは、その事実を知りませんでした。いや、知ろうともしませんでした。神様は人間の綱、愛の絆でイスラエルを導かれました。「人間の綱、愛の絆」とは、父親が子供を養い、指導する愛の姿勢を表しています。イスラエルの顎から軛を取り去ることによって重荷を軽くし、神様が身をかがめて、イスラエルに食べさせました。申命記25章に「脱穀している牛に口籠を掛けてはならない」と記されているように、神様はイスラエルの口籠をはずして、親が幼児に食べさせるように、身をかがめて彼らに食べさせました。
父親が子供に接するように、幼い頃から愛し続け、養い育て、導き続けてこられた神様の愛にもかかわらず、背き続けてきたイスラエル。彼らへの罰は、エジプトの奴隷状態に帰ることではありません。もっと過酷な罰が待っていました。神様はホセアを通して語られます。「彼らはエジプトの地に帰ることもできず、アッシリアが彼らの王となる」北イスラエルは、アッシリアによって滅ぼされ、民は捕囚としてカナンからアッシリアへ連れ去られます。人間の歴史としては、アッシリアによる北イスラエル滅亡ですが、すべては歴史を支配される神様の御業です。北イスラエル滅亡とアッシリア捕囚は、イスラエルが神様に立ち帰ることを拒んだことが原因です。申命記8章には、神様が導き入れようとしているカナンの地が、いかにすばらしい土地であるかが記されています。同時に「もしあなたが、あなたの神、主を忘れて他の神々に従い、それに仕えて、ひれ伏すようなことがあれば、私は、今日、あなたたちに証言する。あなたたちは必ず滅びる。主があなたたちの前から滅ぼされた国々と同じように、あなたたちも、あなたたちの神、主の御声に聞き従わないがゆえに、滅び去る」と神様はモーセを通して警告を与えられました。この警告どおりに今、北イスラエルは滅び去ろうとしています。神様の罰は、アッシリアとの戦いと敗北、徹底的な破壊として現れます。「剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち、企みのゆえに滅ぼす」北イスラエル最後の王ホシェアは、紀元前733年にアッシリアの属国となった後、731年に、アッシリアに貢ぎ物を送るようになりましたが、724年にはエジプトを頼りにして、アッシリアに反逆します。それは当然のことながら、アッシリアの怒りを買い、攻撃を受けることになります。エジプトを頼りにしましたが、エジプトは北イスラエルを助けません。結果として722年、サマリアは陥落し北イスラエルは滅亡します。神様は語られます。「我が民は頑なに私に背いている。たとえ彼らが天に向かって叫んでも、助け起こされることは決してない」北イスラエル建国以来、神様に背き続け、神様が送られた預言者の言葉にも耳を貸さなかった北イスラエル。頑なに背き続けてきたイスラエルは、今になって神様に叫んでも、助け起こされることは決してないという、神様の厳しい姿勢が宣告されました。
神様はイスラエルに対して、父親の愛をもって接してこられました。ホセアが神様の愛、父親のような愛について語る時、彼の心には自分の子供達のことがあったと考えられます。ホセアは淫行の妻ゴメルとの間に、2人の息子と1人の娘が与えられていました。ホセアへの預言者としての召しは、結婚から始まりましたから、この頃、3人の子供達は10代後半~20代になっていたでしょう。淫行の妻ゴメルに去られた後、しばらくの間、ホセアは一人で幼い子供達を育てました。3人の子供達が、どのように育っていったのか、聖書は何も記していません。けれどもホセアの預言者としての活動が、彼の家庭生活に大きくかかわっていることを考えるなら、妻ゴメルがホセアと3人の子供を捨てて他の男性の下に走ったように、3人の子供達も、ホセアの父親としての愛を忘れ、彼に背き続けていたのかもしれません。
いずれにせよ、神様は幼かったイスラエルを愛し、育まれましたが、イスラエルは背き続けてきました。ついにサマリア陥落、アッシリア捕囚という罰が、神様によって下されます。神様は背信の罪に厳しく臨まれますが、それでもなおイスラエルに対する愛を捨てられません。捨てることができません。神様は嘆きの言葉を持って、イスラエルを憐れみます。「エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか。私は激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」アドマやツェボイムは、申命記29章によれば、ソドムやゴモラと共に天からの硫黄の火によって滅ぼされた町です。ソドムやゴモラは、その罪の重さゆえに滅ぼされました。アブラハムの執り成しにもかかわらず、ソドムの町には、正しい者が10人もいなかったがゆえに滅ぼされました。ソドムやゴモラと同じような罰を受けるほど、イスラエルの罪は重かったのです。神様によって宝の民とされ、まことの神様を知らされたにもかかわらず、長い間、背き続けてきました。度重なる警告を受けたにもかかわらず、ついに神様に立ち帰りませんでした。それほど重い罪を犯していても、神様はなおイスラエルを愛されていました。「お前を見捨てることができようか。お前を引き渡すことができようか」という言葉の中に、神様の苦悩が現れています。「私は激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」という言葉の中に、イスラエルへの捨てがたい愛と憐れみが現れています。神様には、何とかしてイスラエルを助けたいという思いがありました。
サマリアは陥落し、アッシリア捕囚の罰は下りますが、契約に基づくイスラエルへの深い愛ゆえに、神様は約束されます。「私は、もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。私は神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」かつて神様は洪水の後、ノアと彼の息子達に対し約束されました。「私があなたたちと契約を立てたならば、2度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」同じような約束が立てられます。イスラエルを再び滅ぼさない、という約束です。「私は神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者」と、人間の思いでは量りきれない、神様の深い愛と憐れみによる決意が語られています。
人間の思いでは量りきれない、神様の深い愛と憐れみによって、何が起こるのか。ホセアは語ります。「獅子のようにほえる主に彼らは従う。主がその声を上げる時、その子らは海のかなたから恐れつつやって来る。彼らは恐れつつ飛んで来る。小鳥のようにエジプトから、鳩のようにアッシリアの地から。私は彼らをおのおのの家に住まわせると、主は言われる」背き続けてきたイスラエルが、神様に立ち帰る日が来ます。神様に従って歩む日が来ます。神様が「獅子のようにほえ、その声を上げる時」イスラエルは、呼び集められて帰って来ます。「海のかなたから」とは地中海沿岸からという意味です。地中海沿岸から、エジプトから、アッシリアから、それは全世界からを意味しています。散らされていたイスラエルが、神様への畏れをもって鳥のように飛んで来ます。そして神様は「私は彼らをおのおのの家に住まわせる」と約束されました。散らされ、家を持つことなく、放浪していた民に定住の地が与えられ、それぞれの家が与えられます。それはエジプトの奴隷状態から導き出され、約束の地カナンを与えられた時と同じです。
マタイは、ヨセフが天使の命令により、幼子イエス様とマリアを連れてエジプトへ去り、ヘロデ大王が死ぬまでエジプトにとどまったことを「私は、エジプトから私の子を呼び出した」という1節の言葉が実現するためであったとしています。ヘロデ大王が死んだ後、天使の命令により、ヨセフは幼子イエス様とマリアを連れて、約束の地イスラエルへ帰って来るからです。主イエス・キリストのできごとから読むならば、私達キリスト者には「我が民は頑なに私に背いている。たとえ彼らが天に向かって叫んでも、助け起こされることは決してない」という神様の厳しい裁きの宣告にもかかわらず、11章は福音の言葉として響きます。神様は不義を赦すことはできません。赦すことはできませんが「お前を見捨てることができようか。お前を引き渡すことができようか。私は激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」と語られているように、イスラエルに対する愛も捨てることができません。義と愛に満ちた神様は、不義は不義として罰を与え、罰を与えた上で、イスラエルに救いの道を開かれました。イスラエルの存在は、神様の愛にかかっています。その愛は契約に基づいた愛です。感情に基づく愛なら、裏切り続ける者への愛は失われるし、捨て去ることができます。けれども御自身が立てた契約に基づく愛であるがゆえに、見捨てることも引き渡すこともできません。御自身の契約に対する誠実さゆえに、神様は激しく心が動かされ、憐れみに胸が焼かれるのです。「私は神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者」と御自身を語られているように、人間には思いもよらない裁きと救いの御業が現されます。
神様はエジプトから、イエス様を呼び出されました。「まだ幼かったイスラエルを私は愛した。エジプトから彼を呼び出し、我が子とした」かつてエジプトで奴隷生活を送っていたイスラエルを、神様は呼び出されました。アブラハム、イサク、ヤコブとの契約ゆえに、モーセを出エジプトの指導者として召し出され、出エジプトの道を開かれ、荒れ野の40年の旅を守り、約束の地カナンへとイスラエルを導かれました。イスラエルを苦しめたエジプトの地を、神様はイエス様の逃れの場として備えられました。ヘロデ大王が死ぬまで数年の間、イエス様はエジプトで過ごされ、神様によってイスラエルへと呼び戻されました。かつてモーセは、ファラオの束縛からイスラエルを救い出すために召し出されました。今やイエス様は、すべての人間を罪の束縛から救い出すために、神様によって地上に遣わされ、エジプトへと導かれ、さらにエジプトから呼び出されました。イエス様は父なる神様の御独り子ですから、まことの「我が子」です。まことの我が子であるイエス様を通して、私達キリスト者も、神様から「我が子」と呼ばれるのです。パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。私達の主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように」と述べています。私達キリスト者は、主イエス・キリストの十字架による罪の贖いを信じる信仰により、主イエス・キリストに結ばれ、神様から「我が子イスラエル」と呼ばれる身分を与えられました。「我が子イスラエル」として歩む道を備えられました。この恵みを証する者として、与えられた地上の人生を終わりの日まで歩ませていただきましょう。
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