07/05/13 罪は掟により機会を得る T
罪は掟により機会を得る
2007/05/13
ローマの信徒への手紙7:7~12
児童虐待防止法が改正されますが、子供を養育できない親が増えてきた現状からすれば当然だと思います。従来の体制は子供を親元で育てることを前提にしていますが、虐待を受けている子供を養育施設で受け入れる体制を創るべきです。
「親学」の必要性が叫ばれる時代ですから、養育放棄の実体は常識を越えているのではないでしょうか。虐待を受けている子供を親元に帰しても同じことの繰り返しではないでしょうか。養育放棄をする親は親権を停止させるべきです。
福祉行政の場では子供は親元で育てられるのが良いとされてきましたが、現状はその段階を越えているようです。福祉施設を緊急避難の場から養育施設へと変えるべきです。福祉施設で子供が自立できるまで養育すべき時代になっています。
そのためには児童相談所、養育施設に対する福祉予算を増額すべきです。現在の施設は人間らしい生活が営めるような場ではないようです。心身共に傷ついた子供は孤児院の暗いイメージから脱却していない養育施設では癒やされません。
職員がいかに努力しても狭い施設ではプライバシーすら守ることができないようです。親から見捨て去られ、社会から見捨て去られた子供が順調に成長するのは至難の業です。マンパワーだけでは解決のできない施設面での欠陥があります。
さらに児童相談所に専門職員が配置されていない現状は行政の不作為と非難されても仕方がありません。行政職が順繰り人事で児童相談所に配置されているのが現状です。2,3年間辛抱すればよいのですから問題を先送りして当然です。
強硬手段を執れば責任問題になりかねませんから、使命感のない職員は見ないふりをするでしょう。児童相談所に専門職員を配置し、マンパワーを強化しなければ仏を造っても魂を入れないことになるでしょう。笛を吹けど躍らないのです。
警察も民事不介入の姿勢を取り続けてきました。現場の警察官には強制手段の執行は荷が重いでしょう。児童虐待防止特別班を編制し、心理学、福祉を専攻した専門職を養成すべきでしょう。早急にマニュアルを作成すべきでしょう。
いずれにしても法の改正だけでは解決できない問題が山積しています。行政から意識改革がなされなければ、福祉の現場だけではとても対応し切れません。児童虐待は家族の問題ではなく、行政、警察が介入しすべき問題になってきました。
カナダの大使館員の奥さんを診察した医師がDVを疑い、警察に通告したので警察が奥さんを保護する事態になり社会問題化しましたが、欧米ではそれが当然なのです。日本では医師が通告を躊躇い、事態を悪化させる場合が多いようです。
地域の情報が児童相談所に集まらないといわれていますが、情報が活用されていないのが現状のようです。虐待死に至る前にも虐待の兆候を地域の人は感じていたはずですが、地域住民の無関心、行政の怠慢が虐待死を招いています。
児童虐待防止法を改正したのですから、政府は児童福祉に関する行政システムをハード、ソフト両面で根本的に改善しなくてはなりません。虐待の報告を受けても機能しなかったシステムを質、量共にパワーアップしなければなりません。 パウロは『私たちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました』と述べていますが、それならば律法は罪であろうか、否や!決してそうではない、と強く否定しています。
しかし、パウロは律法を知らなければ、罪を罪として自覚することができなかったと告白しています。たとえば律法により『むさぼるな』といわれなかったならば貪りなるものを知らなかったと告白しています。十戒の第十戒には隣人の家を貪ってはならないとありますが、パウロは貪りを人間の際限ない欲望という意味で使っています。人には禁止されるから欲しがるという心理状態があります。
アダムはエデンの園で平安に暮らしていました。神様から禁断の木の実を食べれば死ぬと言われていましたが、あえて食べたいとは思っていませんでした。蛇が先ずエバを誘惑しました。蛇は禁断の木の実を食べても決して死ぬことはない。神のように善悪を知る者となるから禁じられているのだとエバを誘惑しました。エバには禁断の木の実はいかにもおいしそうに見え、神のように賢くなるように思えました。エバは禁断の木の実を取って食べ、アダムにも渡しました。アダムはエバに神のように賢くなると唆されて禁断の木の実を食べてしまいました。アダムの神のようになりたいという貪りがアダムの内に罪を起こさせたのです。
律法がない世界は善悪の基準がない世界です。アブラハム時代からエジプトに移住したいた時代には民を裁くための法、基準がありませんでした。慣習が民を裁いていましたが、法を意識することはありませんでした。モーセに十戒、律法が授けられるまでは罪が存在しなかったのです。律法が罪を定めるからです。
律法はユダヤの民には絶対的な基準でしたが、時代を経るに従い形式化してきました。律法学者により細則、掟、ミシュナが定められ、神の意志から離れたものになってきました。ユダヤの民は掟に縛られ、掟を守ることに専念しなければ生活ができなくなりました。掟は「……をしてはならない」世界ですから、むしろ人に掟を破らせる心、貪りの心を生み出したのです。律法がなければ生じなかった貪りが人を罪に定めたのです。人を罪の世界、死の世界へと導いたのです。
しかし、律法は神の意志ですから聖なるものですが、掟は人間が造り出したものです。掟も唯一の神を主と崇めるために守るべき戒めですから本来人に命をもたらすはずでしたが、人を死に導く役割を果たす道具となってしまったのです。
パウロは人間の弱さを指摘しているのです。人間には禁じられた掟、タブーを破りたい衝動があるからです。さらに守りきれない掟に支配された世界は人間から法を守る精神、順法精神を奪い去り、モラルハザードを引き起こします。罪は掟があることによりむしろ人を殺してしまうのです。罪は罪自身の働きにより罪の世界を造り上げ、人を欺くからです。罪は掟によりむしろ機会を得るのです。
しかし、律法、掟を罪の働く機会としたのは人間です。アダムが禁断の木の実を食べたのもアダムの責任であり、神様の責任ではありません。律法、掟により貪りを覚えたのは人間側の責任であり、神様の責任ではありません。むしろ神様はイエス様をこの世に遣わされることにより人間を救おうとなされたのです。ですから律法は聖なるものであり、掟も聖なるものであるのです。律法、掟を、手枷足枷にしたのは人間の罪です。罪の働く機会にさせたのは人間の罪だからです。
日本は法治国家ですが、近代法は教会法から生まれたそうです。教会法はローマ法を起源としていますが、律法が強い影響を与えたのかもしれません。律法はモーセ五書、創、出、レビ、民、申命記を指しますが、旧約聖書の1/3ぐらいは律法、1/3ぐらいは預言書といえます。律法は歴史と律法からなっています。
モーセがシナイ山で唯一の神から石の板に書かれた十戒を授かりましたが、付属する規定を口頭で授けられました。日本人の感覚からすれば、紀元前2000年、4000年以上も前の伝承、文章が残されているは信じられないことですが、ユダヤ人は4000年間以上も会堂に集い、礼拝、律法、割礼を守り通してきたのです。
律法では唯一の神イスラエル民族、ユダヤ人との関係は契約に基づく関係です。ユダヤ人は唯一の神を主とするから神はユダヤ人を神の民とする契約が基本なのです。アブラハム契約ではアブラハムは祝福の基いとされましたが、シナイ契約では律法が授けられました。神から選ばれた民の徴が割礼であり、律法なのです。
神との契約関係ですから、ユダヤ人が神との契約を守らなければ神はユダヤ人との契約を破棄されます。イスラエル民族が神から離れる、神はイスラエル民族を罰せられる、預言者が悔い改めを迫る、悔い改める、神の祝福に与る、神から離れるの繰り返しがイスラエル民族、ユダヤ人の歴史です。彼らは神との契約を一方的に破棄し、裁かれることを畏れたので、割礼、律法に拘わったのです。
律法を守ることは個人の救いだけではなく、イスラエル民族の救いにも関わることでした。神の名を汚す者を民は殺されなければなりませんでした。律法を守らない者がいれば神との契約に反するからでした。ユダヤ人がイエス様を十字架に付けて殺し、パウロの異邦人伝道を妨げたのも神との契約を守るためでした。
旧約聖書の時代から始まる契約に基づく信仰は現代にも受け継がれています。信仰を口で告白し、洗礼を受けることは生ける主との契約関係に入れられることを意味します。私たちは主の十字架での贖いにより罪を既に赦されていますが、主の民として相応しい生き方を求められています。愛の律法の基にいるからです。
パウロは律法が『貪るな』といわなければ貪りを知らなかったと告白しています。ファリサイ派のラビとしてパウロは律法に厳格に生きてきましたが、律法を守りきれず、貪りから逃れ切れなかったからです。パウロは罪は命をもたらすはずの掟により機会を得、私を欺き、掟によって私を殺したと告白しているのです。
パウロは復活の主と出会い、唯一の神との契約、律法を守りきれないパウロを救われるお方の存在を知らされたのです。生ける主が総ての人の罪を十字架での死により贖われ、新しい律法、福音による新しい契約関係を結ばれたことを知らされたのです。パウロの律法と苦闘した過去が新しい命に目覚めさせたのです。
律法を守ることを義務づけられたユダヤ人には異邦人にはない苦闘がありました。唯一の神との契約、律法はユダヤ人の救いに拘わるものであり、個人の救いに優先するものであったからです。福音に生きることはユダヤ人を裏切ることでもあるからです。異邦人が福音により救われるのを見たユダヤ人が福音に生きるように変えられるのを何よりも願っていたのはパウロでした。ユダヤ人が古い契約、律法から解放され、新しい契約、福音に生きられることを願っていたのです。
教会の掟、教会規則には戒規があるのが普通ですが、教団の教会では戒規処分を課せられるのは特殊な場合です。明らかにイエスは主であることを否定する集団に移籍した場合、破廉恥罪を犯して教会の品位を汚した場合などですが、教団には復活を否定する教師もいますし、同性愛の教師もいます。パウロならば偽教師、反キリストとして厳しく糾弾するでしょうが、それができないのが教団です。
教会は教会員の信仰に総てを委ねていますから、律法、掟のような明文化された規定、明確な基準はありません。瀬戸キリスト教会の教会規則はあくまでも教会を維持、運営、管理するために必要な最低限の規則ですから、戸惑いを覚える信徒もいるでしょうが、信仰生活は信徒の信仰、良心に委ねられています。
イエス様は『心を尽くし、精神を尽くし主なる神を愛せよ』、『自分を愛するように隣人を愛せよ』が信仰の基本であるといわれましたが、具体的な掟『……をしてはならない』、『……をしなければならない』を示されませんでした。パウロも信徒に対する戒めを手紙で書き送りましたが、法的な文章ではありません。
ユダヤ人であるイエス様、パウロには律法は生活の基本でした。おそらくパウロは律法、掟を厳しく批判していますが、日常生活はきわめてユダヤ人的であっただろうと思います。パウロは異邦人を躓かせないために異邦人的な生活をしただけです。パウロは富める者にも貧しい者にも合わせた生活ができたからです。
私たちは主の愛を宣べ伝え、主の愛を実践しなくてはなりませんが、具体的には何をしたらよいのかが示されていません。主の愛のイメージは人それぞれだからです。大航海時代には宣教師が世界中に派遣されましたが、伝道の面からは主の世界宣教命令の実践でしたが、植民地支配に教会が協力したのも事実です。
私たちは主の愛を教会生活、信仰生活の中で身につけなくてはならないのです。一人で聖書を読み、祈り、黙想するだけでは主の愛に到達することはできません。信仰、聖書は教会の2000年の歴史の中で積み重ねられてきたものだからです。
教会の使命は伝道ですから、社会から隔離された集団を形成してはならないのです。人と人との関わりの中で主の愛を証しし続けることが大切なのです。日本でもボランティアが盛んになりましたが、信仰に裏付けされないボランティアは自己満足に過ぎないのです。例えばマザーテレサの「神の愛の宣教者会」のシスターたちは死に行く人たちの中に主の姿を見るのです。彼女たちは毎日の日課である早朝ミサを欠かしません。先ず祈り、それから主の愛を実践するのです。
私たちは教会生活の中で主の愛に触れなくてはなりません。「主の愛を感じられるから主の愛を伝たい」という願いが伝道の基礎になくてはならないのです。御言葉から溢れ出る主の愛、信徒の交わりの中で交わされる友情、夫婦、親子兄弟の愛が主の愛として昇華された時に、主の愛を実践することができるのです。
主の愛は律法、掟のように形式化されたものではありません。主の愛は時代、民族、文化、社会が違えば異なった表れ方をするかもしれませんが、『汝の主を愛せよ』、『己を愛するように汝の隣人を愛せよ』は変わりません。この二つの公理は変わることはありませんが、法則は変わるります。教会も時代、社会が変化するにつれ変化してきましたが、教会の主は人間ではなくあくまでも主なのです。
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