2007/06/04

07/05/20 罪の法則に仕えている T

罪の法則に仕えている
2007/05/20
ローマの信徒への手紙7:13~25
 日本国憲法が施行されたから60周年の節目の年になりましたが、憲法改正の手続き法、国民投票法案が国会で成立しました。憲法改正は96条に衆参両院の2/3で発議され、国民の過半数の賛成で承認されることが明記されています。
 国民投票法がなかったのは立法府の不作為ですが、55年体制の元で与野党が不毛の対立をしたからです。発議に両院の2/3の賛成が必要であることを裏返せば、護憲勢力がどちらかの院で1/3の議席を占めればよいことになります。
 社共両党の教条主義が国会での憲法論議を妨げてきましたが、55年体制が終焉し、民主党が野党第一党になってからは、改憲論議へのタブーがなくなりました。自民党は民主党に大幅に譲歩し、共同提案がなされるかと思われました。
 しかし小沢トロイカ体制は党利党略のために反対に回り、民主党は55年体制へ先祖返りしました。世論は憲法改正を支持していますが、憲法九条改正については国論が二分されていますが、21世紀に相応しい憲法が求められています。
 環境権、プライバシー権、地方自治の規定などを明文化することが時代の要請です。これらの国民の合意が得られやすい条項を憲法に書き加えることから始めれば、国民の間でも憲法論議が起き、憲法に対する関心も増してきます。
 憲法改正論議が平和憲法論争に矮小化され、21世紀に必要不可欠な国民の権利と義務に対する議論が疎かにされています。自民党案でも社会保障に関する部分、前文、九条を除けば、国民の合意が得られるものが少なくありません。
 従来の憲法憲論議は憲法九条を巡る争いに終始し、国民の生活に密着する項目について議論が疎かにされてきました。いきなり平和憲法改正を国会で審議すれば混乱が起きますから、新しい権利から国民投票に付せばよいと思います。
 憲法に対する思いには世代間で大きな差があります。戦前戦中派、中曽根元首相などの軍隊経験者にはアメリカの占領政策の象徴と感じる人もいますが、戦争の犠牲にされた多くの国民は戦死者の血で贖われた憲法だと感じています。
団塊の世代までは血の臭いを身近に感じていますので、民主主義、平和主義を国是だと素朴に感じられますが、戦後世代、安倍首相、前原民主党前代表などは平和な社会に育ちましたので、平和を守るための防衛力を強調するのです。
 先ず世代間に横たわる憲法観の差を埋めるためにも憲法論議が活発になされるべきです。憲法論議をタブー視するのは非核三原則を論議しなければ国際社会にも核問題は存在しない思いこんでしまう日本人的思考の貧困さの表れです。
 護憲派も改憲論議を拒否するのではなく、前文、九条以外は協議に応じ、21世紀に必要とされる権利については憲法改正に応じるべきでしょう。憲法を不磨の大典として墨守し、憲法改正論議すら違憲と断じる護憲派は時代遅れです。
 国会では憲法改正は国民生活に身近な条項から先行審議し、平和憲法を最後に審議すべきです。世論調査によれば護憲派が国民投票で勝利する可能性が高く、もし護憲派が勝利できれば平和憲法を次の世代への贈り物に出来ます。
 パウロは律法は霊的なものですが、私は肉の人であると告白しています。ファリサイ派のラビであったパウロは律法の専門家ですから、律法、掟に反する罪を具体的に知っていましたが、肉の人である彼は罪から逃れられることができなかったのです。内なる人は神の律法を喜んでいるのにも拘わらず、律法に反する罪を罪として自覚しても、外なる人、肉の人は罪を犯してしまうのです。罪を自覚し、善をなそうと望んでいる内なる人と、罪を自覚しながらも憎んでいること、悪をなしてしまう外なる人が同居しているのを自覚しているのです。
 律法、掟は罪の基準を明確にしてくれますが、人間にはそれを守りきる能力が授かられていないのです。唯一の神から与えられた律法は聖なるものですが、人間は肉の人にしか過ぎません。律法の罪を自覚させる力は人々を悔い改めに導きましたが、悔い改めても罪から解放されない人間の罪深さがあるのです。
 悔い改めた人間だからこそ善をなしたいと望むのですが、五体、肉の衝動に負け、罪を犯してしまうのです。『心を尽くし、汝の主を愛せよ』、『己をあいするように隣人を愛せよ』が信仰の原点ですが、頭では理解できても行動が伴わないことは誰でも経験することなのです。理解することと実行することは別の次元のことだからです。パウロだけではなく誰でも経験することだからです。
 ペテロはイエス様に『主よ、ご一緒なら牢に入っても死んでもよいと覚悟しています』と言いましたが、大祭司の中庭で三度も主を知らないと言ってしまいました。ペテロのイエス様にどこまでもついて行く覚悟は決して中途半端なものではありませんでしたが、身に危険を感じた時には脆くも崩れ去りました。
 このような人間の心の動きをパウロは心の法則に対してもう一つの法則、罪の法則と表現しています。心の法則に従い善をなそうとするのですが、五体、肉の人は罪の法則に従い悪を行ってしまうのです。善をなそうとする内なる人パウロも罪に売り渡される肉なる人パウロもパウロ自身に変わらないからです。
 パウロは心の法則と戦い、罪の法則の虜にさせているもう一つの法則に支配されている自分をなんと惨めな人間だろうと表現しています。善をなそうとする意志はあるが、それを実行できない惨めな自分、死に定められている肉の体から誰が救ってくれるのだろうかと嘆いているのです。内なる人は善を行う意志に満ちていますが、肉の人には実行できない二律背反に苦しんでいるのです。
 自分の内に救いの道がないことを自覚したパウロの視線は主イエス・キリストに突然向けられます。パウロは心では神の律法に仕え、心の法則に従いながらも、肉の体が罪の法則に仕えている自分の姿を主に投げ出しているのです。主が人間パウロを二律背反の苦しみから解放してくださるのを確信しるのです。
 『私はなんと惨めな人間なのでしょう』という告白は、人間ならば誰もが経験するものですが、使徒パウロの率直な弱さの告白には身に迫るものを感じさせられます。主がパウロに語られた『私の恵はあなたに対して十分である。私の力は弱いところに完全に現れる』という御言葉は肉体の具体的な弱さだけではなく、心の法則に仕えながらも罪の法則に仕えてしまう人間の弱さ、二律背反から逃れられない人間の弱さの内にこそ主の恵が生きて働くことをお示しになったのかもしれません。だから私は弱いときにこそ強いと証しできたのです。
 パウロの視点から見れば、小説の有能で勤勉、社交的な高名な医師であったがは内なる人と肉の人とが薬により分離されたといえるかもしれません。ジキル博士は高名な勤勉で社交的な医師でしたが、この世の快楽を貪りたい密かに思っていました。善の側面と悪の側面を分離して別々の肉体に宿らすことに成功しました。悪の化身、ハイドの肉体は若返り、歓楽街を徘徊し、暴力をふるいましたが、薬で善良なジキル博士に戻れました。やがて善なるハイド博士が衰弱し、悪なるハイドが増長し、ハイド博士に戻られなくなり自殺しました。
 人間には善を求める心があると思いますが、悪を求める心もあるのです。さらに人間は悪の世界の方に引きつけられやすく、身を滅ぼしやすいのです。ジキル博士とハイドのような二重人格は特別な例ではなく、むしろ私たちの人格も内なる人と肉なる人とに分裂しているのですが、強く意識しないだけです。
 掟は善悪の基準を明確に示しので、善を行おうとしても悪を行ってしまう自分の弱さを強く意識させますが、掟がなければ人間の行いが善であるか悪であるかが曖昧にされてしまいます。自分の弱さを意識することができず、罪の自覚が生じないのです。律法を持たない異邦人には罪の自覚が生じにくいのです。
 ユダヤ人には割礼と律法を神の民の徴ですから、善悪の基準が明確ですが、彼らは神の律法から離れ、人間の律法、掟に縛られていました。イエス様は神の律法を否定されたのではなく、律法学者が造り出した掟、人間の律法に拘り、神の意志から離れていったユダヤの民を非難されたのです。「災いなるかな、律法学者」と非難されたのは、人間に守りきれない掟、軛を負わせたからです。
 理性は掟、『父母を敬え』、『殺してはならない』、『姦淫してはならない』、『盗んではならない』、『隣人の家を貪ってはならない』を守ろうとするのですが、肉欲に負け、悪への道へ誘われるのです。理性では善悪を判断できても肉欲が理性を狂わすのです。論理的な思考回路から外れた判断をしてしまうのです。
 人間の脳の機能は本能に根ざす欲求、肉欲が理性よりも優先してしまいます。砂漠で水がなくなれば、現代人は喉の渇きに耐えかねて目の前の水を奪い合うでしょうが、砂漠の民はオアシスを探します。オアシスがなければ水を長持ちさせることを考えます。砂漠で生き残るためのあらゆる手段を考えます。
 私たちの脳は生き残るために有利な条件を無意識のうちに探しています。肉欲は個体を生存させるための本能に根ざしていますので、理性ではコントロールしにくいのです。脳の機能は前頭葉の表層から下層、大脳から脳幹に行くほど機能が低下しにくいように出来ていますので理性が一番冒されやすいのです。
 理性と感情は脳内で相互に影響し合っていますので、理性的な行動を取るのが難しいのです。ジキル博士のように謹厳実直に見える人にもハイドのような放縦、粗暴、淫乱な側面が隠されています。意識するかしないかの差です。
 人は弱さを抱えていますから、人の弱さに共感することが出来るのです。人は自分の弱さを実感できますから、人の弱さの中に働かれる主の力を信じられるのです。人の常識からすれば弱さを誇ることはやせ犬の遠吠えに似ていますが、パウロのような心身ともに頑健な伝道者が強さではなくむしろ弱さを誇ったのです。なぜなら私は弱いときにこそ強いからだと証ししているからです。
 パウロは肉体の弱さ、具体的な病気あるいは障害を自覚していましたが心の弱さも自覚しているのです。理性では善を行おうとしますが感情、肉欲が善から彼をそらし、悪に誘い、罪を犯してしまうのです。パウロの心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているという告白は真実なものです。
 人はパウロほど真実な生き方をしていませんので神の律法と罪の法則との格闘に気づかないか、目をそらしているかしているだけなのです。むしろ両者が曖昧に同居し、時に応じてどちらかが表に出てくるからです。人の心の動きは本人の想像を超える時があります。自分でも理解できない行動を取るからです。
 人は時には悪魔にもなりますが時には天使にもなるのです。戦場では人は殺し合いますが、助け合いもします。英雄にもなれば卑怯者にもなるのです。戦闘行為をしているときには、大脳の前頭葉は酸欠状態になっているそうです。思考力が極端に低下し、理性が働かず、本能だけが体を動かしているそうです。運動をしているときにも血液は体を動かすために使われ、思考力が鈍ります。
 そのような状態の時にはお酒に酔った状態に近い状況になるそうです。脳の機能が低下し、思考力が無くなったことに気づかなくなるからです。酔っぱらいほど酔っていないというのと同じです。理性が鈍ってきていますので、肉体の欲求に負け、平気で罪を犯してしまうのですが、本人には自覚がないのです。
 人はジキル博士にもなりハイドにもなるのですが、ハイドはガン細胞のように増殖し、最後には自己崩壊してしまうのです。パウロは自分自身の精神を冷静に分析し、死に定められたこの体から誰が私を救ってくれるのでしょうかと自問自答しています。そしてイエスのみが救い主であると感謝しているのです。
 パウロの人間を理性の働きと感情の働きとに分けた精神分析は現在の心理学に相通じるものですが、私たちにはパウロのような自覚がなく、神の律法とはほど遠いが罪の法則とも近くはないと自分をごまかしているところがあります。
 罪の自覚に縛られるよりも人生を曖昧に生きる方が気楽かもしれませんが、
信仰者には厳しさも必要です。自分の罪を自覚するからこそ主の十字架での贖いの死に感謝することが出来るからです。復活の命に望みを置けるからです。
 クリスチャンは口を開けば罪人、罪人といいますが、罪とは何かと問い返されれば絶句する人も多いのではないかと思います。日本では法律に反すれば罪ですし、反しなければ罪ではありませんが、教会では人間が神との関係を損なうことが罪です。人は罪を自覚しながらも罪を犯してしまうから罪人なのです。
 私たちも罪の法則の例外ではありません。パウロのように罪を自覚できないからさらに重症なのですが、罪に対する曖昧な態度が人を蚊帳の外に置いているのかもしれません。罪の法則は潜在意識の中に組み込まれているからです。
 生ける主はパウロに『私の恵はあなたに対して十分である。私の力は弱いところに完全に現れる』といわれましたが、私たちも自らの弱さを否応なしに突きつけられたときにこそ、この御言葉に立ち帰るべきです。なぜなら人は自らの弱さを自らの力で克服することは出来ないからです。弱いときにこそ弱さを超越なされる主の恵が明らかにされるからです。人は弱さの中で行き詰まるかもしれませんが、むしろ弱さを誇れるのです。弱いときにこそ強いからです。