07/05/27 ペンテコステ礼拝,あなたの神を待ち望め M
2007年5月27日 瀬戸キリスト教会ペンテコステ礼拝
あなたの神を待ち望め ホセア書12章3-7節
讃美歌 80,Ⅱ17,177
堀眞知子牧師
ペンテコステおめでとうございます。昨年も述べましたように、ペンテコステとはギリシア語で50日目という意味です。出エジプト記34章22節に「あなたは、小麦の収穫の初穂の時に、7週祭を祝いなさい」と記しているように、もともとは過ぎ越しの祭りから50日目、小麦の収穫を神様に感謝するユダヤ教の祭りの日でした。その日が私達クリスチャンにとって、クリスマス、イースターと並ぶ三大祝節の一つとなったのは、この日に聖霊が降り、地上に主の教会が誕生したからです。いわば教会の誕生日であり、聖霊降臨日とも言われています。主イエスは復活された後、40日にわたって弟子達に現れ、神様の御国について語られました。そして「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる」と話された後、天に上げられました。この約束に従って10日後に聖霊が降り、主の教会が誕生しました。教会は主イエスの再臨の日まで、地上に立ち続けます。この教会の歴史の中に、すでに瀬戸キリスト教会も加えられていることに感謝し、共に御言葉に耳を傾けましょう。
さて北イスラエルは、ヤロブアムが最初の王となった時から200年が過ぎ、最後の王ホシェアの時代になっていました。北イスラエルはヤロブアムの罪から離れることなく、偽りと欺きに満ちていました。彼らは預言者ホセアの言葉を聞くべく、彼を取り囲んではいましたが、真実と真心をもってではなく、偽りと欺きをもって、彼の周りに集まっていました。北イスラエルだけではありませんでした。南ユダも神様から離れてさまよい、偶像崇拝の罪を犯していました。南ユダの王アハズは父ヨタムと異なって、北イスラエルの王達の道を歩み、自分の子に火の中を通らせたり、さまざまな場所でいけにえをささげ、香をたいて異教の慣習を取り入れていました。さらに、アッシリアの王ティグラト・ピレセルに会うためにダマスコに行き、そこにある祭壇を模倣して作製し、エルサレム神殿の中に置いて、その祭壇の上で献げ物を行いました。北イスラエルも南ユダも、神様から非難される存在でした。神様はホセアを通して、北イスラエルの外交政策も非難しました。2節に「イスラエルは風の牧者となり、一日中、熱風を追って歩く。欺瞞と暴虐を重ね、アッシリアと契約を結び、油をエジプトへ貢ぐ」と記されています。牧者というのは羊の群れを守り、その群れを増やす働きをするのですが、イスラエルは羊ではなく、風の牧者となっていました。熱風はアラビア砂漠の方から吹いてくる風で、作物を枯らすことがありました。そのような熱風を一日中、追って歩くというのは、自分の国に害をもたらすアッシリアやエジプトとの同盟に頼っている、イスラエルの外交政策を指しています。両国との同盟は、欺瞞と暴虐を重ねる結果となります。
神様はユダとイスラエルを告発されます。その共通の先祖であり、イスラエルをいう名前を与えられたヤコブの生涯、彼の罪と彼に与えられた神様の恵みを語られます。創世記に記されていたように、ヤコブは狩りから疲れ切って帰って来た兄エサウに、パンとレンズ豆の煮物を与えることによって、彼の長子権を奪いました。母リベカと共謀して父イサクを欺き、長子の祝福を奪いました。「ヤコブをその歩みに従って罰し、その悪い行いに報いられる」と記されているように、イサクとエサウを欺いた結果として、ヤコブは故郷を離れ、リベカの兄ラバンのもとへ逃げざるを得ませんでした。4節に「ヤコブは母の胎にいた時から、兄のかかとをつかみ、力を尽くして神と争った」と記されているように、ヤコブとエサウはリベカの胎内にいる時から押し合い、ヤコブはエサウのかかとをつかんで生まれてきました。「神の使いと争って勝ち、泣いて恵みを乞うた」と記されているように、伯父ラバンの家で20年の苦しい生活を送った後、ヤコブは家族を連れて故郷へと向かいました。エサウとの再会を恐れて、ヤボクの渡しに独りで残っていたヤコブに、神様の御使いが現れ、夜明けまでヤコブと格闘しました。夜が明ける前にヤコブは、神様の御使いに祝福を求め「イスラエル」という名前を与えられました。ヤコブはエサウと平和のうちに再会しました。その後、神様はヤコブに「ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてその地に、あなたが兄エサウを避けて逃げて行った時、あなたに現れた神のための祭壇を造りなさい」と命じられました。ヤコブは神様の命令に従い、一族と共にベテルに上り、神様のために祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと名付けました。
ヤコブの罪と彼に与えられた神様の恵みを語った後、ホセアは「主こそ万軍の神、その御名は主と唱えられる。神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め」と語りました。イスラエルがベテルで礼拝している神は、まことの神様ではありません。彼らは異教の神々に礼拝をささげていました。かつて神様はヤコブの犯した罪に罰を加え、彼の悪い行いに報いを与えられました。それでも力を尽くして神様の御使いと争い、祝福を求めたヤコブに神様は祝福を与え、親しく語りかけられました。ヤコブに裁きと恵みを与えた神様こそ、まことの神様であり「万軍の神、その御名は主」と唱えられる御方です。「主なる神様のもとに立ち帰れ」とホセアはイスラエルに命じます。ヤコブが悔い改めて神様に立ち帰り、イスラエルという名前を与えられたように、イスラエルも神様に立ち帰り、契約の民、神様の宝の民であるイスラエルになれ、とホセアは命じます。神様に立ち帰り、悔い改め、罪から遠ざかり、過去と決別すること。欺瞞と暴虐ではなく、愛と正義の上にこそ、契約の民の生活があります。神様に信頼し、すがりつき、神様の御業を待ち望む生き方。それは何よりも神様が求めておられることです。まことの祝福は、イスラエルが神様のもとに立ち帰り、愛と正義を保ち、常に神様を待ち望むことによって与えられるのです。
けれども現実において、神様から離れてしまったイスラエルは、この世の基準の中で生きていました。8節に「商人は欺きの秤を手にし、搾取を愛する」と記されていますが、イスラエルの北に位置するフェニキアは、商業の盛んな国でした。紀元前9世紀前半に北イスラエルの王であったアハブは、フェニキアのシドンの王女イゼベルと結婚しました。彼女によって、北イスラエルにバアル信仰がもたらされ、さらに富を重視する考え方が入ってきました。申命記25章、24章において、神様はモーセを通して「あなたは袋に大小2つの重りを入れておいてはならない。あなたの家に大小2つの升を置いてはならない。不正を行う者をすべて、あなたの神、主はいとわれる」「同胞であれ、あなたの国であなたの町に寄留している者であれ、貧しく乏しい雇い人を搾取してはならない」と命じられました。ところが、イスラエルは富の豊かさ、経済の繁栄に心を奪われて、神様が忌み嫌う欺きの秤を持つようになり、搾取を愛するようになりました。イスラエルは驕り高ぶって「私は豊かになり、富を得た。この財産がすべて罪と悪とで積み上げられたとは、誰も気付くまい」と言いました。人間が気付かなければ、それでいいと思っていました。すべてを御覧になっている神様の目を忘れていました。
まことの神様を忘れ、富に心を奪われ、他人が気付かなければ不正をも恐れない。不信仰に陥ったイスラエルに、神様は宣言します。「私こそあなたの神、主。エジプトの地からあなたを導き上った。私は再びあなたを天幕に住まわせる、私があなたと共にあった日々のように」イスラエルはエジプトで奴隷生活を送り、その苦しい労働の中で、神様に助けを求めました。助けを求めるイスラエルの叫びに、神様は応えられてモーセを遣わし、エジプトを脱出させ、荒れ野の40年の旅を経て、約束の地カナンへと導かれました。「私は再びあなたを天幕に住まわせる」それは荒れ野の生活に戻ることでした。荒れ野の40年間、イスラエルは定住の地を持たず、国という体制もありませんでした。イスラエルは放浪生活に引き戻されます。富も失い、国も失います。けれども荒れ野の40年間、イスラエルは神様と共にあり、神様が天から降らせて下さったマナによって養われました。荒れ野の生活、天幕生活に戻ることにより、真に信頼すべきものが富や国ではないことを知らされるのです。信頼すべき御方は、神様お一人であることを知らされるのです。イスラエルの信仰の出発は、出エジプトのできごとでした。今もう一度、天幕生活に戻ることにより、信仰の再出発の時が備えられるのです。「私は再びあなたを天幕に住まわせる」という裁きの言葉は、同時に祝福に向かってイスラエルが歩み出す、そのための言葉でもあるのです。
申命記18章に記されていたように、神様はイスラエルがカナンに入るにあたり、預言者を立てる約束をされました。その約束に従いエリヤ、エリシャを始めとして多くの預言者が立てられました。ホセアも、その約束に従って今、神様の御言葉を語っています。神様は「私は預言者達に言葉を伝え、多くの幻を示し、預言者達によってたとえを示した」と言われました。まことの神様を離れ、異教の神々を礼拝するようになったイスラエルに、神様は預言者を遣わされました。ですからイスラエルには、神様の御言葉が伝えられていました。度重なる警告もされました。にもかかわらず、彼らは預言者の言葉に聞き従おうとはしませんでした。神様の御心を尋ね求めようとはしませんでした。神様は語られます。「ギレアドには忌むべきものがある。まことにそれらはむなしい。ギルガルでは雄牛に犠牲をささげている。その祭壇は畑の畝に積まれた石塚にすぎない」ギレアドやギルガルでは、異教の祭壇が築かれ、犠牲がささげられていました。それらはむなしく崩れ去ることになります。
ホセアは、再びヤコブについて語ります。「ヤコブはアラムの野に逃れ、イスラエルは妻を得るために仕え、また妻を得るために群れを守った」兄エサウから逃げて伯父ラバンのもとへ身を寄せたヤコブは、ラバンの娘であるラケルを妻として迎えるために、そして家族を守るために、結果として伯父に20年間仕え、彼の羊の群れを守りました。一方、神様はモーセを預言者として召され、イスラエルをエジプトから約束の地カナンへと導き上らせ、モーセによってイスラエルを守られました。イスラエルを守ったのは、ヤコブの功績ではなく、神様の恵みの御業でした。その神様の恵みを忘れたイスラエルは、神様を激しく怒らせました。神様は流血の報いをイスラエルに下され、アッシリア捕囚という厳しい刑罰が、イスラエルを待ち構えていました。ホセアは預言者として神様の厳しい刑罰を語りつつも、同時に神様の言葉として「神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め」と語りました。ヤコブはイサクとエサウを欺いたがゆえに、故郷を離れざるを得ませんでした。イスラエルも自らの罪によって、アッシリアに捕囚となり、約束の地カナンを離れざるを得ません。「神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め」という言葉は、イスラエルがアッシリアで捕囚の身となっても変わることはありません。ヤコブが20年の時を経て帰って来たように、イスラエルにも希望はあります。いずこの地にあっても、神様に立ち帰る機会は与えられています。神様の民として愛と正義を保ち、神様を待ち望むなら、神様は必ず応えて下さり、御業を現して下さいます。イスラエルと結ばれた契約ゆえに、神様とイスラエルの関係は絶たれてはいません。神様はなおも、イスラエルの神として、悔い改めの機会を備え、招きの御手を差し伸べて下さっています。
ホセアが預言者として立てられたイスラエルは、神様の真実に目を向けようとはしませんでした。イエス様も真実を語られましたが、多くの人々は、ペトロを始めとする弟子達さえ真実を知ることを拒否し、ついにイエス様は十字架の上で死なれました。しかし十字架の死と御復活を通して、神様の真実が弟子達の目に明らかになりました。主イエスの復活から50日目に当たるペンテコステの日に、聖霊が降ったことによって、地上に主の教会が誕生しました。父なる神様によって、イエス様がこの世に遣わされた目的は、十字架の上で私達の罪を贖い、御自身の血の贖いによって召し集めた人々を、教会という群れとして、主イエスを救い主と信じる共同体として、地上に建て上げることでした。そして教会には、主イエスの一回限りのできごとである復活により、今も復活の主イエスが生きて働かれています。主イエスの再臨まで続く教会の歩みを通して、神様の愛と正義が宣べ伝えられていきます。イエス様の十字架によって結ばれた新しい契約、御復活によって与えられた永遠の命、それらの証人として、私達は召されています。召された者としてふさわしい歩みがあり、その道を歩むように、神様は道を切り開いて下さっています。何度も何度も罪を犯し失敗を繰り返す人間が、神様のもとに立ち帰ることができるように、神様は地上に教会を建てて下さいました。
神様は今も生きて働かれる御方であり、私達人間の歴史の中に、教会の歴史の中に御業を現しておられます。主の教会において、私達が神様に礼拝を捧げ、聖書の御言葉に耳を傾け、神様を心から讃美する時、主の愛と正義が、この教会に満ちるのです。瀬戸キリスト教会も、この地にあって伝道所開設10周年を迎えさせていただきました。10周年記念事業として、礼拝堂拡張工事も行われ、資料集として『乳と蜜の流れる地』も発行することができました。ここまで導いて下さった神様に感謝をささげると共に、神様の愛と正義に誠実に応えさせていただきましょう。富や権力、あるいは自分の能力や健康、家族を始めとする人間関係、そのような神様以外のものに頼るのではなく、神様にのみ助けを求め、徹底的に神様にのみ信頼する誠実さを、神様によって養っていただきましょう。与えられた地上の歩みの中で神様の御業を待ち望み、そして終末の日、主の再臨の日を待ち望む。歴史に現された神様の御業を絶えず思い起こし「あなたの神を待ち望め」という呼び掛けに応えさせていただき、神様の愛と正義を保ち続け、世に証していく伝道者の群れとして、瀬戸キリスト教会が歩み続けることができるように、上からの愛と御力を祈り求めましょう。
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