2007/11/17

07/06/10 主の道は正しい M

 2007年6月10日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
主の道は正しい     ホセア書14章9-10節
讃美歌 67,532,187
堀眞知子牧師
ホセアが預言者として召されたのは、ヤロブアム2世の末期である紀元前755年頃でした。何度も述べましたように、彼の預言者活動の特徴は、彼自身の私生活、その結婚生活、家庭生活を通して語られました。「行け、淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ」という神様の御命令から始まった、彼の預言者としての使命も、今や終わろうとしています。30年くらいにわたって、ホセアが預言者として語り続けてきたこと、その中心であった神様の審判は、時を経ずして実行に移されようとしています。神様に背き続けた罰として、北イスラエルには厳しい裁きが下されます。北イスラエル滅亡、アッシリア捕囚の時が迫っています。神様はホセアを通して「イスラエルよ、お前の破滅が来る。私に背いたからだ。憐れみは私の目から消え去る。サマリアは罰せられる。その神に背いたからだ」と最終的に宣告されました。
この最終的宣告を聞く限り、人間的な目で見れば、イスラエルには未来はありません。未来が見えない絶望的な状況の中にあって、なおホセアはイスラエルの未来を見ています。ホセアは人間の思いを超えた、神様の愛について語ります。「イスラエルよ、立ち帰れ、あなたの神、主のもとへ。私は背く彼らを癒し、喜んで彼らを愛する」悔い改めて神様のもとへ帰るなら、神様はイスラエルを癒して下さり、さらに喜びをもって愛して下さる、とホセアは語ります。それは契約の妻ゴメルに裏切られ、奴隷として売られていた彼女を、神様の御命令によって買い取り、再び妻として愛したホセア自身の経験と重なります。けれども、それはイスラエルに対して、罰を下さないというのでもなければ、罰を延期するというのでもありません。イスラエルは預言者を通して語られた、たび重なる警告にもかかわらず、悔い改めることはありませんでした。その犯し続けてきた罪に対する、神様からの罰を経験した後、神様に立ち帰る道、神様に癒される日、神様から愛される時が備えられているのです。現在の破局のかなたに、遠い未来に、ホセアはイスラエルの悔い改めを期待し、イスラエルの未来を見ています。
ホセアは語ります。「イスラエルよ、立ち帰れ、あなたの神、主のもとへ。あなたは咎に躓き、悪の中にいる」この「立ち帰れ」という言葉は、ヘブライ語原文では非常に強い言葉が使われています。途中でよそ見したりすることなく、止まることなく、ただひたすらまっすぐに神様のもとまで、完全に帰るようにホセアは命じます。今イスラエルは、咎に躓いて、悪の中に留まっています。それはイスラエルの不信仰の結果です。迫り来る北イスラエル滅亡とアッシリア捕囚は、イスラエルに問題があります。イスラエルは、自分達が神様に対して忠実でなかったこと、滅亡と捕囚の原因は、すべて自分達の中にあることを認めなければなりません。罪を認め、罪にふさわしい罰を受けた上で「立ち帰れ」と神様は、イスラエルに呼び掛けられています。神様はイスラエルに再出発を望まれています。神様の新しい呼び掛けのもとに、完全に立ち帰るように促されています。これまでなされてきたような、経済的繁栄に基づく多くの犠牲による、形式的な礼拝ではなく「誓いの言葉を携え、主に立ち帰って言え」と心からの悔い改め、罪の告白、神様に赦しを願う祈り、信仰の決断を迫られています。神様への信仰に基づく、誓いの言葉を求められています。神様への献身を求められています。
申命記23章に「あなたの神、主に誓願を立てる場合は、遅らせることなく、それを果たしなさい。唇に出したことはそれを守り、口で約束した誓願は、あなたの神、主に誓願したとおりに実行しなさい」と記されています。唇に出したこと、口で約束した誓願は、そのとおりに神様に対して守り、速やかに実行することが求められています。言葉にされた誓いは、重要な意味を持っていました。6章6節に「私が喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」と記されていたように、イスラエルはいけにえや焼き尽くす献げ物ではなく、神様への愛と知識をもって、言葉によって神様に立ち帰らなければいけません。契約に基づいた信仰に立ち帰り、神様との交わりの回復を取り戻さなければなりません。
その誓うべき言葉が、3-4節に記されています。「すべての悪を取り去り、恵みをお与え下さい。この唇をもって誓ったことを果たします。アッシリアは私達の救いではありません。私達はもはや軍馬に乗りません。自分の手が造ったものを、再び私達の神とは呼びません。親を失った者は、あなたにこそ憐れみを見いだします」神様は、エジプトで奴隷状態にあったイスラエルを助け出し、荒れ野の40年の旅を守り、約束の地カナンへと導き、乳と蜜の流れる地を与えて下さいました。イスラエルは、歴史の中で救いの御業を現し、契約に誠実であられた、まことの神様に背き、罪に罪を重ねてきました。その結果として、北イスラエル滅亡とアッシリア捕囚を招きました。「すべての悪を取り去り」という祈りは、神様がイスラエルのまわりから、すべての悪を取り去って下さるようにという願いですが、この言葉は赦しを求めるものです。赦しを求めるということは、まず自らの罪を認めることです。罪を認めた時に、神様に赦しを求める祈りが生まれます。神様に赦していただけなければ、生きることができないことを示されます。そして「恵みを与えて下さるように」という祈りが生まれます。自分が罪人であることに気付かない者は、本当の意味で神様の深い愛、人間の知恵を超えた神様の恵みを知ることはできません。「この唇をもって誓ったことを果たします」は、申命記の「唇に出したことはそれを守り」と同じです。イスラエルは、心から悔い改め、信仰を告白し、神様を賛美し、自分自身を献げ物として、神様を礼拝するようになります。
預言者を通して与えられた警告にもかかわらず、イスラエルが犯し続けてきた2つの罪。それは、神様に頼らないでアッシリアや軍事力を頼ったこと、自分の手で造ったものを神としたことです。「十戒」で命じられている「あなたは、私をおいて他に神があってはならない」「あなたはいかなる像も造ってはならない」の2つの掟に違反しました。イスラエルは、アッシリアや軍事力や偶像に対する信頼を完全に断ち切って、神様にのみ信頼する信仰を告白しなければなりません。神様が求められるのは「誓いの言葉」です。イスラエルがこれまで頼みとしてきた、一切のものを捨てるという誓いの言葉です。「親を失った者」それは保護者のいない者、守ってくれる人がいない者です。神様以外に、イスラエルを憐れんで下さる者はいません。神様に愛される以外に、保護を受ける道はありません。他人の助けを見出せないこと、自分を頼みとすることもできないこと、人間の心や手で造られた神には、何の力もないことを認識しなければなりません。まことの神様のみが信頼に足る御方であり、神様との健全な関係を回復することが第一なのです。神様に立ち帰る道を見出したいと願っている者は、自分が親を必要とする者であることを知らされます。親の保護がなければ、生きられない子供であることを知ります。親を失った者であることを自覚し、同時に神様の憐れみを期待し、神様の憐れみなしには生きられないことを知ります。
傷を負ったイスラエルを癒されるのは神様であり、癒されることによって希望が生まれます。イスラエルが「心からすべての悪を取り去り、恵みをお与え下さい。この唇をもって誓ったことを果たします。アッシリアは私達の救いではありません。私達はもはや軍馬に乗りません。自分の手が造ったものを、再び私達の神とは呼びません。親を失った者は、あなたにこそ憐れみを見いだします」と祈る時、絶望的状況の中にあって、なおも未来への希望があります。イスラエルが、それまでのものを一切捨てて神様に立ち帰り、新しい契約関係に入る時、神様は憐れみの御手を差し伸べられます。イスラエルが、まことの神様以外のものには全く寄り頼まないという決意を示し、真の悔い改めを明らかにし、神様への無条件の信頼と献身を告白する時、神様の憐れみの御業が、イスラエルの歴史の中に現されます。
神様は、イスラエルの真の悔い改めの言葉を喜んで受け入れて下さいます。イスラエルが、ホセアを通して語られた誓いの言葉を口にする時、神様はイスラエルを受け入れて下さいます。神様は、イスラエルの罪の告白や赦しの懇願に応えて下さいます。そして、神様は救いの約束、憐れみを宣言されます。イスラエルの回復と祝福の約束を、神様御自身が語られます。それは、イスラエルの心からの悔い改めに対する神様の応答です。「親を失った者は、あなたにこそ憐れみを見いだします」というイスラエルの言葉に、神様は「私は背く彼らを癒し、喜んで彼らを愛する。まことに、私の怒りは彼らを離れ去った」と応えられます。不信仰は、いわば神様に背く病です。その病を神様が癒されます。神様はイスラエルが立ち帰ることを、心から望んでおられます。神様は、イスラエルを愛することを喜びとされます。神様の怒りは、イスラエルが御自身に立ち帰ることにより、離れ去ります。神様は、過去の罪に対して怒りを持ち続けません。怒りはもはや消え失せ、イスラエルを癒されると宣言されるのです。イスラエルの信仰的堕落を、神様は病気と見なし、その癒しを約束されます。イスラエルは罪から離れることができず、ついに死に至りました。けれども今、神様は死に至る罪から立ち直れるように、癒しの御手を差し伸ばされます。
神様の癒しと愛を経験したイスラエルには、健康な生活が与えられます。雨季と乾季が分かれているイスラエルにおいて、乾季は雨が降りませんが、地中海から吹く風によって、露が降り、雨に代わって植物を潤します。植物に露が宿って水分が与えられ、命が保たれます。その露のように、神様はイスラエルに臨まれます。そしてイスラエルは、野に咲く百合のように美しく花咲き、レバノンの杉のように強い根を張ることができます。神様の新しい救いの命が与えられることにより、その若枝は広がり、オリーブのように美しく、レバノンの杉のように香ることができます。神様が、イスラエルに対して露のようになられることによって、イスラエルは百合やレバノン杉やオリーブのように栄えます。ホセアは「その陰に宿る人々は再び、麦のように育ち、ぶどうのように花咲く。彼はレバノンのぶどう酒のようにたたえられる」と恵みの日を語ります。「神様の陰に宿る」というのは、神様に信頼して生きることです。神様は、カナンの照りつける太陽から、イスラエルを守る陰となって下さいます。保護と喜びの陰を与えて下さる神様によって、イスラエルは、再び命を得て生きることができます。イスラエルにとって神様は命を与え、命を維持する力であり、イスラエルの繁栄は神様に源を持ちます。神様の民であるイスラエルが、神様の罰を受けて滅びることは諸国民の嘲りとなりますが、イスラエルが神様の救いを受けて繁栄する時、神様の御名が全地に及びます。
イスラエルから偶像が取り去られる時、神様とイスラエルの関係は真実のものとなり、神様がイスラエルの祈りに応えられます。神様は御自分のみが神であることを主張され、イスラエルを見守るのは御自分だけであることを宣言されます。神様は自らを「私は命に満ちた糸杉」と語られているように、イスラエルの命の源です。そしてイスラエルは、神様によって実を結ぶことができます。神様の保護の下、命を与えられ、日々の生活が整えられていきます。労働によって実りを得ることができるのは、神様の恵みです。神様の恵みの保護の下で、イスラエルは罪と堕落から守られます。
最後にホセアは「知恵ある者はこれらのことをわきまえよ。わきまえある者はそれを悟れ。主の道は正しい。神に従う者はその道に歩み、神に背く者はその道に躓く」と語ります。神様の言葉を正しく理解した者が「知恵ある者」です。そして「主の道」とは、神様が歩むように命じられた道です。イスラエルの歴史の中に具体的に現された道であり、カナンの地にあって、神様の御心に従い、神様を心から愛し、神様の命じる義を行うように命じられた道です。イスラエルは、カナンの宗教に陥ったがゆえに躓き、滅亡と死への道を歩むことになりました。しかし神様は、イスラエルが躓いた時に、彼らを憐れみ、彼らが主の道に立ち帰ることを赦されました。「主の道」のみが、命と繁栄の道であることを示されました。箴言1章7節に「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」と記されているように、知恵ある者は、神様の道を歩みます。神様の道は正しく、神様の支配は信仰者に目的に至る道を示しています。神の意志は人間の歴史の中に明らかにされます。
 イエス様は「私は背く彼らを癒し、喜んで彼らを愛する」と語られた神様の約束を成就された御方です。マタイによる福音書9章に記されているように、イエス様はホセア書6章6節を引用して「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『私が求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。ホセアもイエス様と同じように、丈夫な人にではなく、罪を犯し傷ついたイスラエルに語りました。神様は罪を犯し、罪を自覚した者のために語られました。ホセアは神様に対して忠実ではなく、反抗的であったイスラエルを愛し続ける神様の愛を知っていました。自身の結婚生活、家庭生活を通して知らされていました。私達キリスト者には、主イエスの十字架において、神様の義と愛が明らかにされました。私達が受けるべき罰を、イエス様が負って下さり、世の罪が取り除かれました。ホセアが見つめていた未来は、イエス様を通して実現されました。十字架の血潮によって立てられた新しい契約によって、新しい愛が明らかにされました。神様は「主の道は正しい」と、今も私達に宣言されています。私達は罪人であること、神様の救いなしには生きられないことを自覚し、神様の義と愛を求めて、神様が示される道を従順に歩ませていただけるよう、神様の助けを祈り求めましょう。