2006/08/28

06/08/13 主の招きに従う M

2006年8月13日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
主の招きに従う     マルコ伝8章31節_9章1節
讃美歌 9,332,461
堀眞知子牧師
31節はギリシア語原文では「それから彼は教え始められた。彼らに」という言葉で始まっています。イエス様は、弟子達に教え始められました。ペトロの「あなたは、メシアです」という信仰告白に続いて、イエス様は「弟子達への教え」として「人の子の受難」について語られました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者達から排斥されて殺されることになっている」と。イエス様は「必ず多くの苦しみを受け、殺されなければならない」と言われました。イエス様の思いとか偶然とかではなく、神様の御計画として必ず成就しなければならないことを、強調されました。長老、祭司長、律法学者達はユダヤ議会を構成する3つのグループであり、当時のユダヤ人社会において指導的地位にありました。イエス様は彼らの手によって排斥され、殺されるように、神様によって定められていました。イエス様は「人の子の受難」だけではなく「人の子の復活」についても語られました。「人の子は必ず3日の後に復活することになっている」必ず復活しなければならない。神様の御計画として必ず成就しなければならないことを、強調されました。主イエスの復活は、イエス様の死が完全な死であったこと、つまり仮死状態などではなかったことを裏付けるものであり、同時に十字架の死が、ローマ帝国やユダヤ人指導者達に対する敗北ではなく、むしろ彼らが誤っていること、彼らが神様に背いていることを示すものでした。また、十字架の死は神様に呪われた死でもなく、罪に打ち勝ち、死に打ち勝った証でした。イエス様は「人の子の受難と復活」を弟子達に教えとして語られ、しかも、そのことをはっきりとお話しになりました。イエス様は受難と復活の予告を、群衆には示されませんでしたが、弟子達には明らかに語られました。この受難の予告はイザヤ書53章に記されている「苦難のしもべ」の歩みです。イエス様は「彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」と500年前に預言されていたことを成就するために、世に遣わされました。
ところが「あなたは、メシアです」と信仰告白したペトロが、この受難と復活の予告を聞いて、イエス様をわきへお連れして、いさめ始めました。この「いさめた」という言葉は「厳しく叱る」という意味を持っています。弟子が先生に向かって使う言葉ではありません。イエス様がメシアであることは正しく告白できても、そのメシアの受難については、ペトロは受け入れることができませんでした。おそらく、この時のペトロには「復活の予告」は全く頭に入っていなかったと考えられます。復活の約束などは、どこかへ飛んでしまうほどに受難の予告が衝撃的でした。「受難の予告」で躓いてしまったのです。ペトロを初めとして、当時のユダヤ人が描いているメシア像がありました。それは栄光のメシア像であり、具体的にはローマ帝国を倒してイスラエルを再興し、ダビデ王国を支配するメシアでした。イエス様の「受難の予告」は、そのメシア像とあまりにも異なっていました。ペトロにとって、メシアは苦難を受けて死ぬような存在であってはならないのです。ペトロにとって、イエス様の「受難予告」は想定外のことであり、特にユダヤ人の指導者達によって殺されるということは、絶対にあってはならないことでした。ペトロは、イエス様が歩まれる道は、神様の御計画によるものであること、また神様の御独り子として従順に、その道を歩もうとされるイエス様を理解することができませんでした。自分の諫言が、神様の御心に反抗するものであり、イエス様の道を妨害する行為であることを理解することができませんでした。
ペトロの諫言を聞いたイエス様は、振り返って弟子達を見ながら、ペトロを叱られました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」イエス様はペトロを叱る時、彼だけを見たのではありません。弟子達全員を見ながら、彼を叱ったのです。イエス様は、ペトロが御自身をいさめたことを、サタンによる誘惑と受け取られました。神様のことを中心にしない人の思い、それは善意も含めて、サタンによる誘惑です。私達は、人の優しさに弱いのです。信仰的決断を必要とする時、100%、神様に信頼を置いて行動しないと、誤った道に陥ってしまいます。直前にイエス様は弟子達に「人々は、私のことを何者だと言っているか」と尋ねられました。それに対して弟子達は「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに『エリヤだ』と言う人も『預言者の一人だ』と言う人もいます」と答えました。再びイエス様が尋ねられました「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」ペトロは答えました。「あなたは、メシアです」「メシアです」と答えながらも、彼が抱いているメシア像は、従来のメシア像から抜け出ていませんでした。それは「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「預言者の一人だ」と答えると同様に、誤った捉え方でした。人間の思いに捕らわれていました。イエス様は父なる神様の御計画に従って、人間の罪を贖うために十字架に付くメシアとして、神様の御独り子でありながら人間として、地上に遣わされたのです。ペトロは人間の思いに捕らわれるのではなく、神様の御計画に従わなければなりませんでした。神様の御計画によれば、メシアは栄光の主であると同時に「苦難のしもべ」でした。ペトロも他の弟子達も、その真実を知らなければならなかったのです。そしてイエス様の「受難と復活の予告」によって、イエス様はどなたであるかが明確になりました。十字架の道によって、その使命を成就するメシアであり、復活によって栄光に輝くメシアであることが明らかになりました。
それからイエス様は、群衆を弟子達と共に呼び寄せて言われました。 受難と復活の予告が、弟子達への教えとして語られたのに対し「私の後に従いたい者は」という招きの言葉は、群衆にも向けて語られました。多くの人々は、弟子達さえも、イエス様の力ある業に与ろうとして、彼の後を追いかけていました。このような弟子達や群衆に向かって「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と語られました。私達はイエス様の後に従うのであって、イエス様の先を歩く者ではありませんし、自分の思いが優先するのではありません。「私の後に従いたいと願う者は誰でも」12弟子だけではなく、イエス様の周りにいる群衆に向かって、すでに弟子として召された者もそうでない者も、すべてに向かって語られました。主に従うとはどういうことなのかについて、福音に生きるとはいかに生きることなのかについて語られました。第1に「自分を捨てなさい」第2に「自分の十字架を背負いなさい」第3に「私に従いなさい」
イエス様は、第1に「自分を捨てなさい」と言われました。捨てるとは自己を否定すること、自己を放棄することです。イエス様のもとに集まってきた人々には、いろいろな思いがありました。ペトロは弟子となるにあたって、仕事を捨て、家族を捨てました。けれども自分を捨ててはいません。十字架も背負ってはいません。何よりもイエス様がおられます。けれども今や、イエス様が受難を予告された以上、主イエスの招きに従って歩む道も異なってきます。主イエスに従うということは、一度、自分の考えを捨てることです。弟子達や群衆が、いろいろな思いをもってイエス様に付いてきたように、私達も教会へ来るきっかけとなったできごとは、いろいろあるでしょう。人生における困難、金銭的あるいは人間関係、家族関係の問題、自分自身の病気や性格の問題など、あるいは死との戦い。そのような理由で教会へ来たとしても、それらは一度は捨てなければなりません。自分の思いを捨て、主イエスのことを考えることによって、主イエスのもとへ立ち帰ることができます。主イエスの真実と愛に触れた時、私達は変わらざるを得ないのです。イエス様御自身が、御自分の意志をすべて捨てて、神様に定められた道を歩まれ、神様の御心が成就することだけに、御自分の思いと存在を用いられたように、私達にも徐々に古い自分を捨てる、自分の判断によって自分の行く道を選ばず、神様の御心に従う道が開かれていきます。それは悟りのように自分を克服することではなく、自分を否定することです。自己否定によって救われる道へと、私達は招かれています。
イエス様は、第2に「自分の十字架を背負いなさい」と言われました。古い自分を捨てる道が開かれた者として、新しい自分を求めて主イエスに従う時、私達が負うべき十字架が明らかになります。主イエスに従う時、負うべき重荷が見えてきます。イエス様が十字架を負われたように、死を覚悟して主イエスに従う道です。それは強制されてではなく、自発的に引き受ける苦難の道です。イエス様は、第3に「私に従いなさい」と言われました。自分を捨て、自分の十字架を負う者として、主イエスに従うことです。自己否定と徹底した服従こそが、真実の信仰の姿であり、神様によって創造された人間の真実の生き方です。けれども自分を捨てることも、自分の十字架を負うことも、人間の努力や熱心によってできるものではありません。神様の力によって可能となります。ペトロがそうであったように、私達もまた上より聖霊の力を受け、聖霊の導きによって、主イエスの招きに従うことが可能となります。たとえ信教の自由が保証されていても、キリスト者が1%に満たない日本においては、日常生活の中において信仰の戦いがあります。
主イエスに従う者は、十字架を負わなければなりません。死と思える十字架が、実は命を得る道です。そこでイエス様は「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」自分の命を救いたいと思って、自分を大切にし、十字架を負って主イエスに従うことを拒否する者は、永遠の命を得る機会を失います。けれども主イエスのため、つまり福音宣教のために命を失う者は、神様によって救いに与ることができます。人間にとって、もっとも大切なものは命であって、それは全世界のものをもっても代えることができません。永遠の命とは、自然死によって滅びてしまう命ではなく、また霊魂不滅というようなものでもなく、神様によって与えられる命であり、神様との交わりに生きる命です。人間は、どうしても自分を生かそうとする方向に向きます。自分の考え、自分の人格、自分の判断を正しいとするからです。ところがそのような道を選ぶと、ますます神様から遠ざかる結果になって、神様から賜る永遠の命を失うことになります。福音を第1に生きる時、この世とは異なった法則に従って生きるのですから、この世では苦しみがあるのは当然です。けれどもその中で、主イエスと同じ姿に変えられていき、主イエスが復活して栄光を受けられたように、私達もまた栄光を受けることができます。この世にあって、たとえ全世界を自分のものとしても、永遠の命を失っては何の役にも立ちません。努力して成功した人の生涯も、神様の前には無に等しいものです。福音だけが人を救いに導く神様の力です。
命を救うか失うかの分岐点は、主イエスとの関わりが保持されているか否かにあります。もし自己の命を愛し、救うために十字架の道を避けるならば、主イエスとの関わりは断たれてしまって、再び罪の中に生きざるを得ません。十字架を負うことによって命が失われたとしても、主イエスとの交わりに生き続けることによって、命を新たに見出すことができます。排斥されて殺されるイエス様に従うことは、復活の主イエスとの交わりの中に生かされることです。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」荒れ野の誘惑において、悪魔はイエス様に、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう」と言いました。すると、イエス様は「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と言われて、この誘惑を拒絶されました。けれども、この誘惑に引かれる者は、イエス様を捨て、殺し、同時に自らの生を無益なものに終わらせることになります。キリスト教は、自分を捨てることによって始まりますが、新しい自分を得ることをもって終わります。新しい自分とは、永遠の命を与えられた存在です。それは主イエスの招きに従った時から、主イエスを信じて、洗礼を受けた時から与えられます。
「神に背いたこの罪深い時代に、私と私の言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来る時に、その者を恥じる」イエス様の時代も、そして今も、信仰的に不誠実な時代です。イエス様の教えに従わず、主イエスのために命を失うことを拒む生き方は「私と私の言葉を恥じる者」になります。最後まで主イエスとその福音を恥じて受け入れない者は、主イエスの再臨の時、神の国を打ち立て、全世界の救いを完成する時、受け入れられません。地上における主イエスに対する態度が、来るべき終末の時に、神の国の一員として認められるか否かを決定します。十字架を負いつつ従ってきたか否かが、終末の日に明らかになります。神様の御言葉と主イエスにのみ、最後の信頼を置いて生きる時、私達は真に生きる力と方向性を与えられ、人間では測り知ることができない、神の平安が与えられます。
最後にイエス様は言われました。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」イエス様は終末の日が近いと考え、弟子達のある者が生存している内に、神の国は到来すると考えていました。これは、現代に生きる私達にとっても重要なことです。私達は自分が生きている間には、主の再臨はないと考えてしまいがちです。瀬戸キリスト教会の群れの中に、その人が生きている間に主の再臨の日が来る、そのように信じて信仰生活、教会生活を送る、そういう緊迫感は持ち続けることが大切です。私達一人一人が主イエスの招きに従い、十字架の主イエスに支えられ、主イエスに従うゆえの苦難を積極的に担い、信仰の生涯を全うさせていただきましょう。また神の国の到来が近いことを祈り求める群れとして、この地に立たせていただきましょう。