2006/08/28

06/08/27 ”霊”による割礼 T

”霊”による割礼
2006/8/27,ローマの信徒への手紙2:17_29
 淀川キリスト病院で過去7年間、8人の赤ちゃんが両親の同意の下、死が避けられないと判断されて延命治療が停止されました。新生児集中治療室で治療中の無脳症や致死的な脳室内出血の赤ちゃんの余命が「数十分から1、2時間」になったところで積極的治療が停止されました。
 医療チームを複数の医師、看護師、ソーシャルワーカーで組織し、家族との対話を重ねた結果判断したそうです。家族との時間を尊重し、『看取りの医療』を目指し、家族が『別れの儀式』を持つことができるように配慮したものです。
 淀川キリスト病院はホスピス、末期がん患者の終末期ケア、ターミナルケアを日本本で最初に導入した病院として知られています。ホスピスとしての実績を、新生児にも適応したとも言えます。法的には全く問題がないそうです
 医学の進歩は従来なら死産と思われる新生児を出産させることが可能になりました。超未熟児、異常分娩、障害児でも現代の医療で救命できる可能性が高くなりましたが、その反面、医療の限界で救命できない新生児も増えてきました。
 現代の医学は超未熟児、法的にはまだ人間と見なされない赤ちゃんも出産させ、成長させることも可能にしました。また、超未熟児の赤ちゃんも正常分娩した赤ちゃんと変わることなく成長させる育児技術も確立されてきました。
 一方、新生児でも生きる権利があると共に人間としての尊厳を保った死を迎える権利もあります。さらに、赤ちゃんを失う両親にも子供との『別れの儀式』を持つ権利があります。医療は両親の心の癒しも考えなくてはなりません。
 「日本水頭症協会」代表の山下泰司さん(41)は「私は重症新生児への延命治療拒否は絶対ノー。生まれてくる子の命を奪う権利は、親といえどもない」と主張しますが、「同じ立場の親たちには『一緒に頑張ろうよ』と伝えたいが…」、一概に親に強制することもできず、複雑な胸の内を明らかにしました。
 「どんな重度の障害を持って生まれても、その子は懸命に生きようとしている。今後このような風潮が強まれば、障害者を社会から排除する思想にもつながりかねない」というのは正論ですが、それで割り切れない現実があります。
 医療チームが赤ちゃんの生命を救うために懸命に努力しても医療の限界に達した時に、延命治療の停止を考えざるを得ない時代になったのです。死に行く赤ちゃん、残される両親のために何が最善かは人間の思いを越えるでしょう。
 「人間にとって平等なのは死だけである 」誰かの言葉であったと思いますが、人間はこの世に生を受けた時から死に向かった旅をしています。科学も、文学も、宗教も、人を肉体的な死から解放することはできません。
 淀川キリスト教病院は人の死を無とは考えていません。人の死の向こうに主イエス・キリストがおられることを信じています。天国で赤ちゃんが両親と会えることを確信しているのです。だから赤ちゃんにも両親にも人間としての尊厳を保った死を迎えさせたやりたいのです。それが教会が建てた病院の使命だからです。
 パウロはユダヤ人が律法を授けられ、唯一の主を誇りにし、主の御心を知らされ、律法に基づき何をなすべきかを弁えています。また律法の中に知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負していることに言及しています。さらに、
なぜ他人に教えながら自分には教えないかと言っているのです。『盗むな』と説きながら盗み、『姦淫するな』と言いながら姦淫を行い、偶像を忌み嫌いながら神殿を荒らすユダヤ人の不誠実さをあげつらっているのです。ユダヤ人は律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っているからです。『あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている』とイザヤ書に書いてあるとおりだからです。
 ユダヤ人には神から特別に選び分かたれた民、選民の徴として律法が与えられているのにも拘わらず、律法を守ろうとしないユダヤ人の不誠実さを追求しています。律法には「何をなすべきか」、「何をしてはいけないか」、行動規範が明記されています。「唯一の主を主とする」、「律法を遵守する」、主と契約を結んだユダヤ人が律法を守らないのは神の民としての資格がないと主張するのです。
 さらに、パウロはユダヤ人が受けている割礼も律法を守るから意味があるのであり、律法を破れば割礼を受けていない者、異邦人と同じであるというのです。だから、割礼を受けていない異邦人が律法が要求することを実行すれば、割礼を受けた者と見なされると主張するのです。ユダヤ人が文字で書かれた律法を所有し、割礼を受けていながら律法を破っているのだから、割礼を受けていなくても神の律法を守る者、異邦人キリスト者がユダヤ人を裁くことになると言うのです。
 パウロは外見上のユダヤ人、肉体に割礼を施されているが律法の遵守を建前としながらも律法を破っているユダヤ人が真のユダヤ人ではなく、内面がユダヤ人である者こそ真のユダヤ人、肉体的には割礼が施されていないが神の律法を守っている異邦人キリスト者こそが”霊”による割礼を受けた人たちであると主張しています。その誉れ、神の民としての徴は人からではなく神から来るのです。
 ローマの信徒にはユダヤ人もいましたが、異邦人が多くいました。人は律法が文字として残されているユダヤ人、割礼が肉体に施されているユダヤ人と割礼が施されていない異邦人とに二分されますが、パウロは神の律法を守る者が神から選ばれた民、真のユダヤ人であり、律法を守らないユダヤ人は割礼が施されていてもユダヤ人ではないと主張しているのです。パウロは割礼がない異邦人キリスト者も神の律法に生きれば主に選ばれた民、選民であると強調しているのです。
 異邦人伝道者パウロと「割礼と律法の遵守」を金科玉条のごとく掲げるユダヤ人との間で激しい摩擦が生じていました。パウロの伝道を具体的に妨げたのはユダヤ人同胞でした。教会はユダヤ人の頑迷な「割礼と律法の遵守」から解放されることが必要でした。異邦人教会の理論的な基礎が必要とされたのです。
 『福音には神の義が啓示されている』、パウロは福音に生きることのみが神から選ばれた民、選民としての資格であると考えていました。「割礼や律法の遵守
」は行いが伴わなければ全く無意味であると考えていました。神の律法、言葉を換えれば生ける主の福音こそが人を神の民とするからです。ユダヤ人、異邦人との間には何らの差別はないのです。福音に生きる者だけが主の民だからです。
 ローマ世界ではユダヤ人は特殊な民として認知されていました。ローマは多神教の上に、支配下の国々の神々を取り入れたので数十万の神がいたそうです。ローマは多民族、多文化、多言語のコスモポリタンな国家でした。オリエントの国々は他国を侵略、略奪する機会をいつも狙っていました。彼らは略奪し尽くし、生き残った者を奴隷にし、神殿、都市を廃墟にしましたが、ローマは敗者を属国にし、彼らの宗教、慣習を認めました。ユダヤ人には神殿税をエルサレムに送る権利、最高法院、律法により自治、安息日の遵守が例外的に認められていました。
 ローマは一神教のユダヤ人を理解することができませんでしたが、ユダヤ人と争えば膨大な戦費と軍隊が必要とされるので、ローマの秩序を犯さない範囲で独自な宗教と慣習を認めていました。ユダヤ商人は帝国内の物の移動を担い、ローマにも利用価値がありました。ローマの統治上なされた配慮ですが、紀元70年にはエルサレムが廃墟にされ、ユダヤ人は故郷から強制的に離散させられました。
 ユダヤ人は神から選ばれた民、選民意識が強く、ユダヤ人以外を異邦人として蔑視しました。帝国内に移り住んでいたユダヤ人は汚れることを恐れ、異邦人との交わりを避けました。ユダヤ人は会堂を中心にして彼らだけで生活しました。周囲の人間を異邦人と差別すれば彼ら自身も差別されます。ユダヤ人は世界中で現代に至るまで「最もいやな民族」として差別され、迫害されてきました。
 ローマ世界の人たちには礼拝の対象を持たない宗教は理解できませんでした。偶像礼拝を堅く禁ずるユダヤ人は「神々を愚弄する民」としか思えなかったのです。さらに、ユダヤ人の異邦人に対する軽蔑に満ちた目はそのまま彼らに返されたのです。ユダヤ人のこの閉鎖性が彼らに茨の道を2000年間歩ませたのです。
 パウロはバイリンガル、ヘブライ語とギリシア語を併用するユダヤ人であったからこそ、ユダヤ人キリスト者でもユダヤ人特有の傲慢さから逃れられない現実を見つめていたのでしょう。一方、「割礼と律法からの自由」を掲げる異邦人教会でも異邦人キリスト者に「割礼と律法」に対するこだわりがあったのでしょう。心の片隅にはユダヤ人キリスト者に対するコンプレックスがあったように思えます。「割礼と律法」こそ福音伝道を遮る高い壁であると強く感じたのです。
 パウロはエルサレムへ上京し、エルサレム教会との和解を目指しています。パウロは教会の教理として「割礼、律法からの自由」を認めさせなくてはならないのです。教会が「割礼と律法」に拘れば、異邦人伝道が妨げられるからです。ユダヤ人教会と異邦人教会とが異なる福音に陥る可能性が高かったからです。
 パウロの視線は主の教会の一致に注がれていました。帝国内に散らばる異邦人教会とパウロは教会のネットワークで固く結ばれていましたが、エルサレム教会とは意思の疎通ができていなかったようです。両教会が一致するためには「割礼と律法からの自由」が踏み絵になっています。パウロの「真のユダヤ人」論は福音によるユダヤ主義からの解放を主張しているだけです。ユダヤ人キリスト者の「割礼と律法の遵守」も信仰によるのならば否定しているわけではないからです。
 パウロの主張はキリスト教が世界宗教になるためには乗り越えなければならない壁でした。主の世界宣教命令『あなた方は行って、すべての民を弟子にしなさい』は「割礼と律法」の壁を乗り越えなければ実現不可能であったからです。
 パウロが考える「真のユダヤ人は」は神の律法、人間に普遍的な規範、例えば『盗むな』、『姦淫をするな』を守る者を意味し、ユダヤ人であるか否かを問いません。「割礼と律法」を知りながらそれを守らないユダヤ人よりも、内面がユダヤ人である異邦人こそが”霊”、聖霊による割礼を受けた者だと考えています。
 人間に普遍的な規範、『良心』は洋の東西を問わないである。少なくともパウロは伝道旅行の中でそう確信したのです。現代の私たちの生きている世界は様々な宗教や価値観で満ち溢れています。人間として通じ合える部分があることを経験する場合が良くありますが、理解し合えない部分があるのもまた事実です。
 しかし、憲法で「思想、良心の自由」を保障しているのは、日本は『良心』を信じる社会を造り上げることを宣言したからです。日本の六法には宗教的な規範はありませんが、律法、イスラム法では宗教的な規範の方が主です。かつて日本にも宗教的な規範、タブーもありましたが、現代では余り見られなくなりました。
 教会にもかつては厳しい宗教的な規範がありました。異端裁判は教会の歴史と共にありましたが、現代では、同性婚、家族計画、進化論等ではホットな議論も交わされていますが、刑事罰を下されることはありません。教会でも宗教的なタブーを強調する教派もありますが、日本キリスト教団は原則として自由です。
 私たちは頑迷なユダヤ人のように「割礼と律法」に囚われてはならないのです。律法主義と言われるのは信仰生活を形式的に続けることに気を奪われ、信仰的な判断を下すことができなくなった状態を言います。『良心』が硬化してしまい、柔軟な発想ができなくなるのです。常識的な判断が下せなくなるのです。
 神様は私たちに自由を与えて下さいましたが、自由と共に『良心』も与えて下さったのです。私たちが神様から離れるときは良心そのものが曇ったときでしょう。良心を曇らせないためには日々の生活の中で目覚めていることが大切なのです。自分にとって何が本当に大切なのかをいつも自問自答することです。
 答えは実に単純なものです。この世のもの、富や地位や名誉のような朽ちるものに囚われるのではなく、永遠に朽ちないもの、神の変わることのない生きた御言葉に生きればよいのです。視線をわたしたちの本国、天に向ければよいのです。
 私たちは思い患いをし過ぎるのかも知れません。自分の良心にもっと信頼を置いたら良いのです。自分の常識をもっと信じたらよいのです。素直に心の内から語りかけてくる言葉に耳を傾ければよいのです。自己中心的な考えに惑わされていた世界から生ける主が支配なさる心の内なる世界に移ればよいのです。
 内なる世界は教会生活を続ける中で確実に成長してきます。本人が気づかないだけで、5年には5年の、10年には10年の、30年には30年の世界が形成されているのです。信仰生活に近道はありません。愚直に前に歩み続けるしかないのです。
 信仰に弱い、強いはありません。神様とチャンネルが通じているかいないかの違いだけです。主に生かされていることを信じて日々を送られればよいのです。必要な力は神様が与えて下さるのです。それを信じるのが信仰の世界です。
 人に感動を与える人生を歩んだ信仰の先達は大勢いますが、彼らは普通に人生を歩んだだけですと言うでしょう。普通に、常識的に、良心的に歩み続けた人生が少し目立っただけなのです。凡人は凡人らしい人生を誠実に歩み続けましょう。
    

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