2006/09/22

06/09/03 神の裁きの確かさ M

2006年9月3日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
神の裁きの確かさ     アモス書6章8_10節
讃美歌 69,2_?22,336
堀眞知子牧師
サマリア陥落まで40年もありません。南ユダのテコアから、北イスラエルへ預言者として遣わされたアモスは、サマリアで、ベテルで神様の御言葉を語り続けました。特にベテルでは、豊かな経済力に従って献げ物をし、自分達は信仰において熱心だと錯覚している民に向かって、正しい礼拝、神様の義について語りました。けれどもアモスの警告に耳を傾ける人はいません。アモスは4章において、サマリアの裕福な婦人達に関する裁きを語りました。6章においては、サマリアの裕福な男性達、政財界の中心にいる支配階級の人々、権力者に向かって、アモスは神様の審判を語っています。
1節は、原文では「ああ、災いなるかな」という言葉で始まっています。そして「サマリアの山で安逸をむさぼる者」だけではなく「シオンに安住し」ている者にも語られています。アモスは北イスラエルに預言者として遣わされましたが、出身地である南ユダの現状も見つめています。列王記によれば、南ユダの王ウジヤは「主の目にかなう正しいことをことごとく行った」と評価されていますが、歴代誌には「勢力を増すと共に思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた」そのために神様に打たれて、死ぬ日まで重い皮膚病に悩まされた、と記されています。アモスが預言者として召された頃は、ウジヤは主の目にかなう道を歩んでいました。彼は国外的にはペリシテ人と戦って勝利を収め、国内的には井戸を掘ったりして農業の振興に努めました。彼は農耕を愛し、かつ技術者であり軍人でした。このように優れた事業をなし、自分がなす事業が成功し、自分の名声が遠くにまで及んでいく中で、驕り高ぶる心がわき始め、彼の心の変化が、支配階級にも、国民にも影響を及ぼしていたのかもしれません。南ユダの信仰が、北イスラエルの不信仰と同じ要素をもっているならば、たとえ神様が愛され、その神殿を置いたシオンにいても安全ではありません。シオンが宗教的に安住の地であるなら、サマリアは軍事的に安全な都でした。北イスラエルの人々は、サマリアの山は自然の要塞で、他国からの攻撃に耐えうる都であるから、安全であると考えていました。北イスラエルの王ヤロブアム2世は、アッシリアの一時的な衰退によってイスラエルの領土を回復し、軍事力・経済力を誇っていました。彼は自らを「諸国民の頭である」とうぬぼれて君臨し、イスラエルの民衆は、ヤロブアム2世を頂点とする支配階級に従っていました。
「諸国民の頭である」とうぬぼれているイスラエルに対して、アモスは言います。「カルネに赴いて、よく見よ。そこから、ハマト・ラバに行き、ペリシテ人のガトに下れ。お前たちはこれらの王国にまさっているか。彼らの領土は、お前たちの領土より大きいか」カルネもハマト・ラバも、イスラエルの北にあるアラム領ですが、アモスの時代、ヤロブアム2世の支配下にありました。またガトはイスラエルの南にあるペリシテ領ですが、ウジヤはその城壁を破壊しました。北イスラエルも南ユダも、アッシリアやエジプトには及ばないにしても、周辺の国々よりは力があると思い込んでいました。けれどもカルネもハマト・ラバもガトも、北イスラエルがアッシリアに滅ぼされた直後に、アッシリアによって滅ぼされます。アモスは、今の北イスラエルと南ユダの繁栄は、自分達の力によるのではなく、ただ神様の恵みであることを語っています。申命記7章に「あなたは、主の聖なる民である。主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」と記されているように、イスラエルはヤコブの息子達から分かれた12部族によって形成された、少数民族でした。カナンの地を支配しているのも、現在の繁栄も、神様の恵みによるものです。にもかかわらず、神様への信頼を忘れ、不信仰に陥っていました。
経済的繁栄と領土拡大を、自分達の力によるものと思い込んでいるイスラエルに対し、アモスは宣言します。「お前たちは災いの日を遠ざけようとして、不法による支配を引き寄せている」支配階級の者は、アモスの警告に耳を傾けようともせず、彼の語る「災いの日」を遠ざけようとしていました。考えようともしませんでした。いわば偽りの安心感の上に立って、日々の生活を送っていたのです。偽りの繁栄の上に座り、貧しい民に対して横暴に振る舞っていました。アモスは彼らの生活を批判します。「お前たちは象牙の寝台に横たわり、長いすに寝そべり、羊の群れから小羊を取り、牛舎から子牛を取って宴を開き、竪琴の音に合わせて歌に興じ、ダビデのように楽器を考え出す。大杯でぶどう酒を飲み、最高の香油を身に注ぐ。しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない」一般の人々は、土間に座って食事をしていたのに、支配階級の人々は象牙の寝台、あるいは長いすに横たわって食事をしていました。最高の小羊や子牛を選び出し、食事をしていました。彼らは普段の食事において、肉を食べることができました。さらに食事をしながら、音楽を楽しんでいました。「ダビデのように楽器を考え出す」とは、ダビデにでもなったつもりで、音楽に興じる姿を表しています。浴びるほどのぶどう酒を飲み、高価な香油を体に注いでいました。香油は良い香りのするクリームで、カナンのような乾燥した地方では心地よいものでした。彼らは最高の家具、最高の食事で宴会を楽しんでいたのです。
彼らは一般の民衆とは、かけ離れた贅沢な生活の中で「ヨセフの破滅に心を痛めることがない」日々を過ごしていました。「ヨセフの破滅」とは、北イスラエルの滅亡です。彼らは北イスラエルの滅亡も、民衆の貧しさや苦しみにも、全く心を配ることがありませんでした。彼らが支配階級であり得たのは、その民を守ることが目的でした。ところが彼らは民を顧みることなく、権力がもたらす特権にのみ関心を持っていました。神様の恵みを忘れ、自らの使命も忘れ、快楽にふけっている支配階級に、裁きの言葉が語られます。「それゆえ、今や彼らは捕囚の列の先頭を行き、寝そべって酒宴を楽しむことはなくなる」今、十分に手足を伸ばして酒宴を楽しんでいる支配階級が、神様に背いて生きている支配階級が、神様の罰としての捕囚の先頭に立つことになります。
「彼らは捕囚の列の先頭を行き」という神様の裁きの確実性が語られます。アモスは言います。「主なる神は御自分を指して誓われる」神様が御自分を指して誓われます。「自分を指して」というのは、古代の誓いの形式で、古代の人々は「自分の喉を指して」誓いをしました。それは「自分の命にかけて、魂にかけて」ということで、誓いを破った場合には、喉を切られても良いという意志を表していました。神様は御自身にかけて、サマリアに審判が下ることを宣言されました。「万軍の神なる主は言われる。私はヤコブの誇る神殿を忌み嫌い、その城郭を憎む。私は都とその中のすべてのものを敵に渡す」人間の力を誇り、神様に信頼を置かないものを神様は忌み嫌い、かつ憎まれます。そして神様が忌み嫌い、憎まれるものは、必ず滅ぼされるのです。
サマリアは、徹底的に滅ぼされます。アモスは語ります。「もし、1軒の家に男が10人残っているなら、彼らも死ぬ」当時の家には多くの家族が住んでいました。1軒の家に10人残っていたとしても、彼ら全員が必ず死ぬ、と神様は言われました。10節に記されていることは、イスラエルの慣習が背景にあります。イスラエルでは人が亡くなった場合、遺体は岩を掘って作った墓などに納めるのが普通でした。戦争とか飢饉とか疫病などで、多くの人々が亡くなった場合には、死体が処理しきれないので、火葬にしました。「親族と死体を焼く者が、彼らを家の中から運び出す」というのは、そのような悲惨な事件を背景にしています。悲惨な事件が起こると、被害が拡大することを人間は本能的に恐れます。ですから、一人が家の奥にいる者に「まだ、あなたと共にいる者がいるのか」と尋ねると「いない」と答えます。そして命の基である神様に見捨てられたことを思い「声を出すな、主の名を唱えるな」と言うのです。本来、命の基であり、イスラエルを守って下さる神様ですが、罪を犯して裁きを受ける者にとっては、神様が共におられることが恐怖となるのです。
さらにアモスは、神様の裁きが北イスラエル全体に及ぶこと語ります。「見よ、主が命じられる。『大きな家を打って粉々にし、小さな家をみじんにせよ』」神様に背いて、贅沢な生活を送っていた裕福な家だけではなく、一般の民衆の家も打ち砕かれます。神様の裁きがイスラエルに臨むのですから、貧富の差などは関係ないのです。さらにここでは、イスラエルの家々を破壊されるのは、神様御自身であることが強調されています。人間の歴史から見るなら、北イスラエルを滅ぼすのはアッシリアです。けれども、その背後には神様の御手が働かれています。北イスラエルは軍事力・経済力を誇って、自分達の国は安全だと思い込んでいました。サマリアは自然の要塞で、他国からの攻撃に耐えうると思い込んでいました。けれども歴史を司るのは神様御自身です。神様が北イスラエルの滅亡を望まれたのです。神様が北イスラエルの滅亡を御計画された以上、それを覆すことはできません。イスラエルは、自分達は神様の民であるから、神様から守られて当然と考えていました。神様の民をしての使命と責任を果たすことなく、いやむしろ積極的に神様に背きながら、自分達は大丈夫だと考えていたのです。北イスラエルの滅亡を防ぐことができるのは、軍事力や経済力ではありません。アモスの警告に耳を傾け、本気で神様に立ち帰ることのみが、北イスラエルの滅亡を防ぐことができる唯一の道です。ところが、彼らは、そのことに気づきもしなければ、耳を傾けることさえ拒否したのです。
アモスは2つの問い掛けによって、イスラエルが神様の秩序をねじ曲げたことを語ります。「馬が岩の上を駆けるだろうか、牛が海を耕すだろうか」源平合戦では鵯越の戦いが行われましたが、義経の戦術は意表を突くものであり、通常、馬は岩の上を駆けることはできません。牛が海を耕すことはできません。この問い掛けは「否」という答えしか返ってきません。このような問い掛けをされたイスラエルの人々は、アモスの愚かさをあざ笑ったでしょう。けれども、この問いの持つ愚かしさこそ、イスラエルの姿でした。誰にとっても明らかな愚かしさ、不条理なことが、イスラエルでは当然のように行われていました。続いてアモスは語ります。「お前たちは裁きを毒草に、恵みの業の実を苦よもぎに変えた」イスラエルの人々は裁きを毒草に変え、恵みの業の実を苦よもぎに変えていました「恵みの業」は「正義」と訳すこともできます。そして正義の方が、この箇所にふさわしいと考えます。北イスラエルの支配階級の人々は、人間社会における正義と公正を曲げていました。裁判において不公正がなされていました。貧しい人々を虐げていました。イスラエルという共同体を守り、導く立場にある者が、逆に害毒を流して民衆を苦しめていました。正義と公正の放棄は、神様の秩序をねじ曲げ、恵みを破壊と滅亡へと導くことになります。
イスラエルは、正義と公正を愛し喜びとする代わりに、軍事力を愛し喜びとしていました。アモスの言葉を聞いていた人々は、彼に向かって「私達は自分の力で、ロ・ダバルとカルナイムを手に入れた」と主張したようです。この2つの町はヨルダン川東の町で、ヤロブアム2世が領土拡張において、攻撃し占領した町です。人々は北イスラエルの軍事力を誇り、2つの町を手に入れたことを引き合いに出して、アモスに反論しました。それに対してアモスは、ヘブライ語で「ロ・ダバル」は「空虚」という意味であり「カルナイム」は「雄牛の角」という意味であることを指摘し「あなたがたは雄牛の角の強さで空虚を得た」と皮肉を語っています。それは、アッシリアによる滅亡の預言へとつながります。軍事力を頼みとするものは、軍事力によって滅びるのです。「しかし、イスラエルの家よ、私はお前たちに対して一つの国を興す。彼らはレボ・ハマトからアラバの谷に至るまで、お前たちを圧迫すると、万軍の神なる主は言われる」神様がアッシリアを用いて、北イスラエルを北から南まで滅ぼされます。北イスラエルという国そのものが滅亡するのです。「私達は自分の力で、ロ・ダバルとカルナイムを手に入れた」と喜んでいますが、軍事力によって得たのは、いくつかの町にしか過ぎず、逆に軍事力によって国そのものを失うことになります。
神様によって宝の民とされたイスラエルは、神様に愛され守られると共に、責任と使命を負っていました。私達も同じように、神様によって召され、宝の民とされた群れとして、神様に愛され守られると共に、責任と使命を負っています。それは神様に召された群れとして、神様を愛し、聖日礼拝を重んじ、神様との交わりである祈りを重んじ、日々、証の生活を送ることです。私達は「主の日」主イエス・キリストの再臨の日を待ち望む群れですが、その日には裁きが行われます。私達の地上の歩みに従って、審判が下ります。裁き、審判と申しますと、何か恐ろしいものと思われるかもしれませんが、信仰に生きる者には何も恐れるものはありません。また「私は何もできなかった」と自らの力の足りなさや弱さを嘆くこともありません。むしろ神様は、自らの弱さに泣く者と共におられます。自分の力の足りなさを知り、弱さを知り、自らの力やこの世の力に頼るのではなく、神様に信頼し、神様にすべてを委ねる者を、神様は顧みて下さいます。神様から与えられた賜物に従い、つたない歩みであっても、ただ神様の方に目を向けて歩む者を、神様は愛されます。そして神様は、公正に裁かれる御方です。神様の裁きの確かさを信じ、裁きの日である「主の日」を喜びをもって待ち望む群れとして、瀬戸キリスト教会の歩みを整えていただきましょう。