2006/09/22

06/09/10 主の言葉を聞け M

2006年9月10日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
主の言葉を聞け     アモス書7章10_17節
讃美歌 70,2_22,389
堀眞知子牧師
7?9章にかけて5つの幻が記されています。これらの幻を神様が、いつアモスに示されたのかは分かりませんが、おそらく一度に語られたのではなく、それぞれ必要な時に語られたものが、このように編集されたのだと考えます。南ユダのテコアの牧者であったアモスを、神様は預言者として召され、北イスラエルに遣わされました。預言者として活動したのは、1年くらいではないかと考えられます。神様が時に応じてアモスに見せられた幻、その説き明かし、そして神様との対話が、アモスの預言者活動を支えたのです。すでに述べましたように、アモスの時代、北イスラエルはヤロブアム2世のもと、経済的に繁栄していました。滅亡まで40年もないなどと、誰も思えないくらい豊かな生活を送り、領土も拡張していました。滅亡の予兆など全く見えない中にあって、繁栄と退廃の北イスラエルに対する、神様の裁きを語る。それは、ノアが箱舟を造っていた時のようなものでした。人々からは戯言を言っているかのように思われ、多くの反対や抵抗もありました。その中で、神様が見せて下さる幻が、アモスを励まし、彼は神様の警告と裁き、北イスラエルに対する御計画を語り続けることができました。
7章には3つの幻が記されています。それぞれ「主なる神(主)はこのように私に示された」という言葉で始まります。これは幻が、神様に起源を持つものであって、アモスの個人的な考えとか、思想ではないことを示しています。突如として、神様が幻をアモスに見させたのです。第1の幻は「食べ尽くすいなご」の幻でした。原文では「見よ」という言葉が2度繰り返されています。「見よ、主は二番草の生え始める頃、いなごを造られた。見よ、王が刈り取った後に生える二番草であった」アモスの驚きと恐れを表しています。 「二番草」とは、最初の干し草の収穫が終わった後に、芽生えてくる草のことです。最初に取れる草は王のものとなり、二番草は庶民のものとなっていたようです。いなごの被害は、すさまじいものです。「食べ尽くす」という言葉が表しているように、いなごの大群が通り過ぎた後には、何も残っていません。二番草が収穫できなければ、人も動物も夏を前に食糧を失うことになります。しかも「主が、いなごを造られた」のです。神様が罰として、いなごを造られました。北イスラエルの不信仰に対する神様の怒り、自然をも支配される神様の御力が、いなごを造られました。アモスは、いなごが大地の青草を食べ尽くそうとしている幻を見ました。それは、北イスラエルの徹底的な滅亡を表しています。そこでアモスは神様に訴えました。「主なる神よ、どうぞ赦して下さい。ヤコブはどうして立つことができるでしょう。彼は小さいものです」「ヤコブ」は北イスラエルを意味しています。アモスは「ヤコブは小さいものです」と言いました。彼が「ヤコブ」と言ったのは「イスラエル」という名前を神様からいただく前のヤコブを意識していたからでしょう。アモスの執り成しの訴えを聞いた神様は、思い直されて「このことは起こらない」と言われました。罰の執行は取り消されました。けれども、それは結果としては延期されたにしか過ぎません。おそらくアモスは、この幻を見せられたことによって、北イスラエルの人々に悔い改めを迫ったと考えられます。それにもかかわらず、北イスラエルの人々は悔い改めませんでした。
 第2の幻は「焼き尽くす火」の幻でした。「見よ、主なる神は審判の火を呼ばれた」神様が、裁きの火を下そうとされていました。裁きの火は、大いなる淵をなめ尽くし、畑も焼き尽くそうとしました。大いなる淵や畑は、約束の地として、神様がイスラエルに与えた土地でした。神様が約束の地カナンの水を涸れさせ、北イスラエル全土を焼き尽くそうとされたのです。そこでアモスは神様に訴えました。「主なる神よ、どうぞやめて下さい。ヤコブはどうして立つことができるでしょう。彼は小さいものです」アモスの執り成しの訴えを聞いた神様は、思い直されて「このことも起こらない」と言われました。これも、いなごの害と同じで、罰の執行は取り消されましたが、それは延期されたにしか過ぎません。この時もアモスは、北イスラエルの人々に悔い改めを迫ったと考えられます。2度目の幻ですから、激しく悔い改めを迫ったでしょう。それにもかかわらず、北イスラエルの人々は悔い改めませんでした。
第3の幻は「下げ振り」の幻でした。「見よ、主は手に下げ振りを持って、下げ振りで点検された城壁の上に立っておられる」「下げ振り」というのは、建物や城壁などが垂直に立っているかどうかを調べる道具です。神様は下げ振りを手にして、城壁の上に立っておられました。第1、第2の幻は、それを見せられたアモスの執り成しの訴えに対して、神様が答えられましたが、ここでは神様がアモスに聞かれました。「アモスよ、何が見えるか」アモスは答えました。「下げ振りです」神様の質問は「何が見えるか」というものでしたが、アモスは下げ振りにだけ目を向けていました。神様が下げ振りを手にして、城壁の上に立っている、その全体の情景は目には入っているでしょうが、彼が見ているのは下げ振りだけでした。神様は、この幻が何を意味しているのかを、アモスに言われました。「見よ、私は、我が民イスラエルの真ん中に下げ振りを下ろす。もはや、見過ごしにすることはできない。イサクの塚は荒らされ、イスラエルの聖なる高台は廃虚になる。私は剣をもって、ヤロブアムの家に立ち向かう」神様は垂直に立っているかどうかを調べる下げ振りによって、北イスラエルを調べるのです。北イスラエルの信仰を調べられます。神様は「我が民イスラエル」と呼ばれました。御自分の民であることは否定されていません。いや、御自分の民であるからこそ、その信仰を判定されるのです。イスラエルは神様によって召された民です。神の民とされた者には、神の民としての使命と責任が伴います。
そもそも北イスラエルは、ソロモンが晩年に神様に背いたこと、その子レハブアムが民の願いを聞き入れなかったので、神様がヤロブアムを北イスラエルの王として立てたことから始まっています。神様は預言者アヒヤを通して、ヤロブアムに約束されました。「私はあなたを選ぶ。自分の望みどおりに支配し、イスラエルの王となれ。あなたが私の戒めにことごとく聞き従い、私の道を歩み、私の目にかなう正しいことを行い、我が僕ダビデと同じように掟と戒めを守るなら、私はあなたと共におり、ダビデのために家を建てたように、あなたのためにも堅固な家を建て、イスラエルをあなたのものとする」ところがヤロブアムは、偶像崇拝の罪を犯し、北イスラエルは、この罪から離れることができませんでした。神様は「我が民イスラエルの真ん中に下げ振りを下ろす。もはや、見過ごしにすることはできない」と言われました。おそらく第1、第2の幻を見せられたアモスが、北イスラエルの人々に激しく悔い改めを迫ったにもかかわらず、全く悔い改めることのなかった北イスラエルに対し、神様は「もはや、見過ごしにすることはできない」と判断を下されたのです。「私は剣をもって、ヤロブアムの家に立ち向かう」と言われました。ヤロブアムの家、それはアモス時代のヤロブアム2世の家系と言うよりは、初代の王ヤロブアムに始まった北イスラエルを指しています。ヤロブアム2世の時代、アッシリアは無能な王によって一時的に衰退していましたが、その後、神様はアッシリアを用いて、北イスラエルを滅亡へと導かれます。「イサクの塚は荒らされ、イスラエルの聖なる高台は廃虚になる」と言われたように、北イスラエルは徹底的に破壊されることになります。第3の幻について、アモスは第1、第2の幻の時のような執り成しの訴えはしていません。もはやアモスが執り成すことができるような幻ではなかったのです。神様には、アモスの執り成しによって思い直す、あるいは延期するというお考えはありませんでした。「もはや、見過ごしにすることはできない」という、神様の強い意志が明らかにされたのです。
アモスは神様から見せられた幻に励まされて、サマリアでベテルで、神様の裁きの言葉を語りました。アモスの預言は、一般民衆だけではなく、ベテルの祭司アマツヤの耳にも届きました。アモスは第3の幻についても語ったので「私は剣をもって、ヤロブアムの家に立ち向かう」という言葉は、アマツヤにとってヤロブアム2世への謀反のように聞こえました。アマツヤは、ヤロブアム2世に人を遣わして言いました。「イスラエルの家の真ん中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません。アモスはこう言っています。『ヤロブアムは剣で殺される。イスラエルは、必ず捕らえられて、その土地から連れ去られる』」アマツヤの言葉は、アモスが語った預言、北イスラエルの滅亡と捕囚については、的確に捉えていますが、ヤロブアム2世については、誤った捉え方をしています。アモスは、ヤロブアム2世が剣で殺されるとは言っていません。神様はアモスを通して「私は剣をもって、ヤロブアムの家に立ち向かう」と言われました。ヤロブアムの家であって、ヤロブアム2世ではありません。アモスは、北イスラエルという国の滅亡と捕囚を語っていますが、ヤロブアム2世が剣で殺されるとは言っていません。歴史的に見ても、彼は剣で殺されることなく、普通に死んで葬られ、彼の子ゼカルヤが王となります。アマツヤはアモスの言葉を、自分の思いで受け取っていました。アモスが北イスラエルのことを語っているのではなく、ヤロブアム2世に対して謀反を起こそうとしていると考えました。
アマツヤはアモスに言いました。「先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。だが、ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから」アマツヤはアモスの自発的な国外退去により、事態を収拾しようと考えました。その理由として、ベテルは王の聖所であると言いました。アマツヤはベテルの祭司でした。ベテルは、北イスラエルの最初の王ヤロブアムが、北イスラエルの宗教的中心地の一つとして、祭壇を築いたところです。ヤロブアムは、北イスラエルの民が、いけにえをささげるためにエルサレム神殿に上るなら、民の心は再びユダの王レハブアムに向かい、彼らは自分を殺して、レハブアムのもとに帰ってしまうだろう、と考えました。そこで彼は、金の子牛を2体造り、人々に言いました。「あなたたちはもはやエルサレムに上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である」彼は一体をベテルに、もう一体をダンに置きました。また聖なる高台に神殿を設け、レビ人でない民の中から一部の者を祭司に任じました。ヤロブアムは新しい祭日を設け、自ら祭壇に上りました。この時から、ベテルに祭司はいましたが、レビ人ではなかったし、王が宗教的支配権を持っていました。北イスラエルでは、宗教的制度そのものが乱れていました。宗教的制度の乱れが、北イスラエルの不信仰を招いていました。
アモスはアマツヤに答えました。「私は預言者ではない。預言者の弟子でもない。私は家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。主は家畜の群れを追っているところから、私を取り『行って、我が民イスラエルに預言せよ』と言われた。今、主の言葉を聞け。あなたは『イスラエルに向かって預言するな、イサクの家に向かって戯言を言うな』と言う。それゆえ、主はこう言われる。お前の妻は町の中で遊女となり、息子、娘らは剣に倒れ、土地は測り縄で分けられ、お前は汚れた土地で死ぬ。イスラエルは、必ず捕らえられて、その土地から連れ去られる」アモスは自分が職業的預言者ではなく、牧畜や農業によって十分な生活を送っていたことを述べ、神様によって「行って、我が民イスラエルに預言せよ」と召されたから、語らざるを得ないことを言います。そして自分に「預言するな」というアマツヤ、神様の警告を受け入れようとしない彼に、再び神様の裁きの言葉を語りました。
神様はアモスを預言者として召され、アモスはアマツヤに「主の言葉を聞け」と語りました。これは神様御自身が「私の言葉を聞け」と命じられているのです。同じように神様は、私達にも「私の言葉を聞け」と命じられています。「私の言葉を聞け」それは神様の命令であると同時に、神様の招きの言葉です。私達は旧約の時代のように、神様が幻の中で語られるということは、ほとんどありません。なぜなら私達には、幻に優るもの、預言者に優るものが与えられているからです。それは2000年前の主イエスの十字架と復活であり、それを証している聖書です。私達は聖書を通して、神様の御言葉を聞くことができます。テモテへの手紙二3章に「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」と記されています。私達が今、手にしている聖書そのものが、神様の霊の導きの下に記されました。もちろん、書き記したのは人間です。また、原本そのものは残っていません。さらに私達は、日本語に訳された聖書を読んでいます。私達が手にしている聖書は、何段階、いや数え切れないほどの人間の手を経て、伝えられてきたものです。けれども聖書は教会の中で生まれ、教会の中で伝えられてきました。その時々において、神様の霊が豊かに注がれ「イエスは主なり」を証言し続けてきたのです。私達は礼拝や祈祷会において、御言葉を聞き、共に祈りを合わせます。御言葉を聞き、祈る中で、生ける神様との交わりが与えられます。生ける神様との交わりの中で、初めて私達の霊性が養われます。知性をもって、聖書を理解するのではありません。霊性をもって聖書を読み、御言葉を聞き、祈りをささげる中で、さらに霊性が養われていきます。聖書を主の御言葉として聞き、祈りを通して主の御言葉を聞く世界が、私達の前に備えられています。主は私達に「私の言葉を聞け」と招かれています。私達の思いではなく、主の御言葉に従って生きる世界が与えられています。主は必要な時に、必要な御言葉を示し、御言葉によって生きる力を与えて下さいます。時に応じて私達の群れに、そして私達一人一人に語って下さる、主の御言葉を敏感に悟らせていただけるように、霊的な目と耳を養っていただけるように、祈り求めたいと思います。