2006/09/25

06/09/24 正しいものは一人もいない T

正しいものは一人もいない
2006/9/24
ローマの信徒への手紙3:9?20
 国旗掲揚や国歌斉唱をめぐる東京都教育委員会の通達や指導が、東京地裁で違法とされました。国旗・国歌法案を成立させる過程で、政府は同法案を教育現場に持ち込まないことを国会答弁、官房長官会見で明言していたのにも拘わらず、教育現場では日の丸掲揚、君が代斉唱が義務づけられてきました。都教委の教育現場に対する過剰な干渉は教職員に対する大量処分となって表れています。
 日の丸や君が代には軍国主義の精神的支柱として利用された歴史があります。誰もが素直に受け入れられない現実があります。教職員が式を妨害するのは許されませんが、国旗掲揚や国歌斉唱を拒む自由はあります。東京地裁の思想良心の自由に基づく判決は常識的な判断だと思えます。むしろ、教育委員会が教育現場に日の丸掲揚、君が代斉唱を義務づけている現状が異常だと思えます。
 将棋の米長九段が園遊会で全国の学校に日の丸掲揚、君が代斉唱を広げるのが仕事であると胸を張ったのに対して天皇があまり共感を示さなかったのが思い出されます。国旗、国歌は強制させるものではなく、自然と国民の中に広がっていくのを待つべき性質のものだと思います。国技館で相撲を見に行った人々が優勝式で日の丸を仰ぎ見て、君が代を歌うのは自然な流れからくるものでしょう。
 私も学生時代、体育会系の日の丸掲揚、君が代斉唱には反発し、日の丸に対し後ろ向きになりましたが、今は若気の至りだと思っています。日の丸、君が代に対する国民の思いも時代と共に変化してきました。ワールドカップやオリンピックで日の丸や君が代に対し敢えて反対する者は現代の日本にはいないでしょう。
 都教委のような押しつけに対し現場が反発するのはむしろ自然な成り行きのような気がします。日の丸、君が代に反対するイデオロギー的な反対論を支持しているわけではありませんが、自然に日の丸、君が代が根付いていくを待つ姿勢が必要だと思えます。国旗、国歌を強制すれば、副作用の方が多くなります。
 多民族国家は国旗、国歌の元に集まるしかないのです。国旗に忠誠を誓うことが国家に忠誠を誓うことを意味するからです。国旗は国家の統合の象徴としての意味を持つからです。例えば、アメリカでは何処へ行っても星条旗が掲揚され、行事では必ず国歌が歌われます。彼らのアイデンティティーが国旗、国歌だからです。肌の色が違う人たちが国旗、国歌で一体感を感じられるからです。
 日本は単一民族ですから、敢えて国旗、国歌の元に集まらなくても良いはずです。それなのに国旗、国歌が強調されるのはそれなりの理由があるはずです。単一民族をさらに単一化させる理由があるからです。国家の効率が最も高いのが全体主義国家です。日本の指導者は戦前の全体主義国家を目指しているようです。
 国旗、国歌は国家から強制されるべきものではありません。日本が誇れる国であるのならば愛国心は自然に湧いてきますし、国旗、国歌を大切にするようになります。日本を子供たちが誇れるような国にすることが先決です 。そうすれば、子供たちも自然に愛国心を持ち、国旗、国歌を大切にするようになります。
 パウロはユダヤ人が唯一の神から選ばれた理由は、神の民、選民としての権利ではなく、特別な責務、律法、旧約聖書を守り抜いてきた責務にあると述べましたが、それだからと言ってユダヤ人には優れた点があるのでしょうか、全くないと断定しています。ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるからです。
 パウロは10節から18節までに旧約聖書から自由に引用した聖句を並べていますが、ヘレニズムユダヤ教から得た伝承によるものでしょう。パウロは先ず『正しいものはいない。一人もいない』と引用を始めています。人間の特性を「神の意志を悟る者もなく、神を探し求める者もいない。ただ迷いの中にいて、だれもが役に立たない者となった。善を行う者も一人もいない」、と述べています。次に、「彼らは人を欺き、死の世界に引き込んでしまう。欺瞞に満ちた話をし、悪意に満ちた口調で話す」、さらに、「破壊と悲惨に満ちた行動で人を傷つけ、不法な行いで平和の道を閉ざし、神への畏れを知らない」、悪を数え上げています。
 パウロは人間の悪を数え上げましたが、彼は人間の悪の状態が人間を絶望へと導くのではなく、むしろ希望へと導くことを確信していました。律法、十戒は唯一の神がユダヤ人に与えられたものですが、ユダヤ人はそれを守ることができませんでした。ユダヤ人は「律法を守れば救われる」と考えていましたが、律法に対する理解は時代を経るに従い、形式的なものへと変わっていきました。
 イエス様の時代には律法は形式的な法、細則に変わっていました。際限もなく広がる細則を人々は守ることができなくなっていましたが、それに連れて便宜的な手段が認められるようになりました。例えば、安息日には1km程度、会堂への道のりしか歩いてはいけませんでしたが、ハンカチを置けばさらに1kmを歩くことができるなどの律法学者が考え出した便法がまかり通っていました。
 『正しい者は一人もいない』、パウロは律法を実行することは人間には不可能であると考えていました。律法は人間の罪を指摘しますが、指摘された罪を実行する力は与えないからです。総ての人の誇りは神の裁きの前には空しく、全世界が神の裁きに服さざるを得なくなるのです。神の言葉を委託されたユダヤ人でさえ神の怒りを免れ得ないのならば、総ての人は神の怒りを免れ得ないのです。
 律法を遵守することで救いを得られると考えている人たちは、努力と成果を自らの功績として誇り、栄光を自分自身に帰してしまいます。律法による義、行いによる義は自分自身の業を誇り、栄光を神に帰することがないからです。『律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義、正しいとされないからです』。 ユダヤ人は『律法を実行することにより義、正しいとされる』と信じ込んでいましたが、パウロは『律法によっては、罪の自覚しか生じない』と断言していたです。ユダヤ人には律法は人間が努力すれば守れるものであり、パウロには律法は人間がいくら努力しても守りきれないものであったのです。それならば、律法の役割はなにか、人間に罪の自覚を与えさせるために律法が与えられたのです。
 パウロは『律法による義』を認めません。主を信じる『信仰による義』のみを認めました。パウロの信仰の根本には十字架の信仰、『人間は罪人だからこそ主は十字架に架かられ、三日後に甦えられた』、があります。主は恩寵、深い憐れみにより罪人、罪深い者をあたかも善人のように取り扱ってくださるのです。
 パウロの人間理解の根本には、人間はいかに努力しても『神の前で義、正しいとされない』、という思いがありました。シナイ山契約、『私はあなた方の主となる』、『イスラエル民族、ユダヤ人は主の民となる』はユダヤ人の選ばれた民、選民としての徴でした。ユダヤ人は神から選ばれた民の徴として「割礼と律法の遵守」に文字通り命を賭けました。安息日にローマ兵に襲われたユダヤ人が、安息日を守るために無抵抗のまま惨殺されたという話が伝わっているくらいです。
 ユダヤ人には律法を守ることが命を守ることよりも大切であったのですが、ユダヤ人は律法を守りきることができませんでした。イスラエル民族の歴史は、「神から離れる。預言者が神に立ち帰るように迫る。神から離れるイスラエル民族、王は神の裁きを受ける。神に立ち帰る。また神から離れる」、の繰り返しです。
 人間が律法を守るのには限界がありましたが、律法に囚われるユダヤ人は、律法を人間の思いに合わせて改変してきました。律法学者が聖書には書かれていない細則を造り上げました。日々の生活が人間の造った律法に縛られ、生活が息苦しいものとなっていました。神の意志、律法がなおざりにされてきたのです。
 人々は人間の造った律法、細則を守るのに一生懸命になり、神を見失っていました。割礼、神殿参りなどを形ばかりにすませることで神への義務を果たしていると錯覚していたのです。生ける神への信仰は、偶像崇拝とそれほど違わなくなっていたのです。「神への義務さえ果たせばよい!」、と堕落していったのです。
 律法学者の堕落は民から生ける神に対する信仰を奪っていったのです。彼らの「口では律法を説きながら行いにおいて律法を犯している」生活はユダヤ人を堕落させていきました。主の民としての誇りだけが強く、内実の伴わないユダヤ人は信仰的に疲弊していったのです。イエス様が登場なされたのはその様な時です。
 イエス様は神の律法を否定なされたのではなく、人間が造った律法、細則に囚われる民を憐れまれたのです。イエス様の福音は『イエス様を信じることで神の国へ行ける』という単純なものでした。現実の生活にも信仰的にも疲弊している民は主の福音を受け入れました。福音を主の十字架と甦りが証ししました。
 パウロは最初の信仰告白『ナザレのイエスは主である』、を律法、旧約聖書を通じて証ししましたが、人間の罪の歴史も旧約聖書には書かれています。人間の罪、律法を与えられていながら律法から離れてしまうユダヤ人の罪を考え続けましたが、『律法は罪の自覚しか生じさせない』、ユダヤ人には思いつきもしない結論に到達しました。律法に対する新しい理解がパウロの目を開けさせました。
 律法に囚われている世界では人間は罪人でしかありません。人間には律法の要求を完全に満たす力が与えられていないからです。律法による義を求めれば、『正しい者は一人もいない』からです。『律法による義』は、人間の努力や精進により神に義とされようとしますが、神に栄光を帰することがないから罪なのです。
 『信仰による義』は人間が罪深いことを認めて、総てを神の裁きに委ね、栄光を神に帰するから神に義、正しいとされるのです。主の恩寵、主の愛と恵みに総てを委ねる信仰こそが、パウロの証ししている信仰なのです。福音は人間の努力や精進には関係がないのです。むしろ、ユダヤ人が囚われていた罪の世界、律法を守るための努力や精進の世界が神の義からユダヤ人を遠ざけていたのです。
 パウロは『律法によっては、罪の自覚しか生じない』ことを発見した時に、彼の福音理解が新しい段階に入ったのです。彼にはラビとしてキリスト教徒を迫害した過去がありました。律法では『主の名を汚す者』は石打の刑で殺さなければなりませんでした。パウロは『律法による義』では有罪とされますが、『信仰による義』、恩寵の世界では無罪とされる全く新しい福音理解に到達したのです。
 人間の世界では『正しい者は一人もいない』のは事実ですが、それだからこそ福音によって開かれた新しい世界を生きることが必要なのです。ユダヤ人は律法に囚われているが故に、異邦人は罪を知らないが故に罪の世界に生きているのです。だから、生ける主に総てを委ねて生きていかなければならないのです。
 私たちの世界には具体的な法律があり、刑罰を受けるのは法律に反したときだけですが、信仰者として生きていくためには、この世の法を超えた神の法、戒めに従わなくてはなりません。主は『私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』、『隣人を自分のように愛しなさい』の二つの戒めを言われました。
 『主を愛する』、『隣人を愛する』が基準ですが、法律のように具体的な条文がありません。主の示された戒めの原則は愛ですが、愛という抽象的な表現は私たちの行動の規範としては曖昧です。律法のような行動の規範がないので戸惑いますが、『私たちの内なるキリスト』を信じ、内なる声に耳を傾ければよいのです。
 私たちが信仰生活を続ける中で、内なる声が聞こえてくるようになります。御言葉を聞き、祈りを合わす中で私たちは内側から変えられてくるのです。内なる人は私たちが自覚しない間にゆっくりと成長していきます。時には劇的に成長し、新しい信仰の段階に進む場合もありますが、一生に何回かの希な出来事です。
 信仰の世界はむしろ『急がば回れ』の世界です。地道な信仰生活の積み上げがいつの間にか想像すらできなかった世界に私たちを導いてくれるのです。禅宗の悟りの世界はキリスト教には無縁な世界です。生ける主と愛を交換できる世界、教会員と愛で繋がる世界、喜びに満ちた世界がキリスト教的な世界です。悪霊、悪魔が跋扈する世界、恐怖が支配する世界はキリスト教的な世界とは違います。
 信仰の世界は一人一人の個性が尊重される世界です。一人一人が神様から与えられた掛け替えのない命を持つから尊いのです。教会は一人一人の持つ賜物が最も生かされるように配慮しなければなりません。全体主義的な教会は私たちの目指す教会ではありません。私たちは個性を生かす教会を目指しているのです。
 瀬戸キリスト教会は開拓伝道からできた教会ですから、一人一人の個性を互いに知り合っていますが、伝道圏を考えれば知らないことの方が多いでしょう。教会が個性を持ち、自主独立を重んじるのはよいのですが、周りの教会との交わりも大切にしなくてはなりません。その辺の兼ね合いが非常に難しいのです。
 パウロは明確に全体教会へのビジョンを持っていました。教会のネットワークは帝国内に張り巡らさていました。彼がエルサレム教会への献金を自ら携えて上京したのが何よりの証拠です。伝道圏が停滞期に入っているように見えますが、瀬戸キリスト教会が伝道圏の協力によってできたことを思えば、我々にできうることをなすべきでしょう。『隣人を自分のように愛しなさい』、を実践しましよう。
  

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