07/06/17 霊の法則 T
霊の法則
2007/06/17
ローマの信徒への手紙8:1~4
訪問介護最大手といわれる「コムスン」が虚偽の申請で事業指定を不正に取得していたことが明らかになり、厚労省から事業免許の更新を拒否されました。コムソンは系列会社に事業譲渡する意向を表明しましたが拒否されました。
ようやく記者会見に応じたオーナー会長はコムソンの経営に深く関わっていたことを認めましたが、介護保険事業から撤退したくない意向のようです。コムソンの社長を引責辞任させるだけで今回の幕引きをねらっているようです。
コムソンは行政処分を受ける直前に事業所を廃止させる手口で処分を免れてきました。今回も系列会社に事業譲渡をする手口を使い事実上処分を回避しようとしました。厚労省も法的には規制できないと追認する姿勢を示しました。
マスコミがコムソンと厚労省を烈しく批判する記事を載せましたので厚労省も系列会社に対する事業譲渡を認めない方向に転換をしましたが、厚労省の対応に不信感を抱かせました。官民のもたれ合いの構図が明らかにされました。
オーナーは引責辞任をしないばかりか介護事業への未練を記者会見で表明しましたが、悪質な脱法行為、信義違反行為に対する真摯な反省がみられませんでした。経営責任も事業譲渡と同じ手法で先送りし、揉み潰そうとしています。
介護保険をビジネスチャンスにした経営感覚には鋭いものを感じますが、モラルハザードを起こした経営者は退場すべきです。バブル時代のジョイアナと同じ感覚で介護ビジネスを起業したセンスは指弾されてしかるべきでしょう。
介護保険、障害者福祉が新たなビジネスの機会を提供しましたが、厚労省には明確なビジョンがありませんでした。役人特有の数あわせが先行し、質より量が優先された結果、いかがわしい業者、社会福祉法人などが乱立しました。
コムソンのような業者が乱立することも制度設計の段階で当然予測された事態ですが、厚労省は無為無策でした。今回の処分により介護サービスを受けているご老人が突然サービスを受けられなくなれば社会的不安を増大させます。
しかし、コムソンは大きいから潰されないと高を括っていたようにも思えます。厚労省の対応をみていてもかつての銀行に対する旧大蔵省のようにも感じさせられます。今回の処分が一罰百戒になるかは厚労省、地方自治体次第です。
肝心なのは現在介護サービスを受けているご老人、介護職員に負担をかけないことですが、数十万単位の人に影響が出そうです。非常事態ですが、役人の無為無策が生んだのですから、役所は休日を返上し総出で対応すべきでしょう。
社会保険庁でも明らかになりましたが、役人は仕事をしないのを特権かのように錯覚しているようです。担当者が少ないので対応しきれないという悲鳴も上がっていますが、民間企業ならば既に倒産し、路頭に迷っているはずです。
介護保険も国民保険の二の舞を演じる恐れがあります。国民の監視の目は厳しくなってきています。徴収された保険料が悪徳業者、政治家、役人、官僚の懐を肥やしているのならば、社会保険庁並みの厳しい処分を覚悟するべきです。
パウロは『心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです』と告白していますが、語調を変えて『今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません』と救いを宣言しています。
パウロの視点は罪と死の法則から霊の法則へと向けられたのです。パウロは肉、サルクスの誘惑の強さに負けてしまう自分を『罪の法則の虜になっている惨めな人間』と表現していますが、肉の虜から解放してくださるキリストの愛と恵みの大きさに目を向けられた時に霊の法則の偉大さに気づかされたのです。 パウロが使っている肉の弱さという表現は肉体的な、性的な弱さのような物質的な事柄ではなく、霊的な事柄を意味しています。肉とは罪であることを知りながらも罪に陥ってしまう人間の弱さ、無力さを表しています。挫折を繰り返す人間の性質を意味しています。肉とは神なき人間の状態を意味するのです。
人間、ユダヤ人にはキリストが来られるまでは神と人間との関係を保ってくれるのは割礼と律法でした。唯一の神はイスラエル民族を神の民とし、イスラエル民族は唯一の神を神とし、神の民の徴として割礼、律法を遵守する契約を結んだからですが、アブラハムのような神に対する信仰が前提条件なのです。
しかし、ユダヤ人は前提条件である信仰を忘れ、割礼と律法を守りさえすれば救われると信じ、さらに神は救わなければならないとまで思い上がるようになりました。律法は神の民が守らなければならない神との契約でしたが、人間は肉の弱さのために律法を守り切れないので律法では人間は救われないのです。
神は神と人間との契約が破綻している世界に契約を修復するために御子を遣わされたのです。御子イエス・キリストは真の人、真の神として地上を歩まれました。御子は罪深い肉の姿で地上に遣わされ、十字架で肉の姿を、罪を罪として処断なされたのです。御子は私たち人間の弱さ、肉の弱さの身代わりになられて十字架につかれ、十字架での血潮により私たちの罪を贖われたのです。
キリスト者は主の十字架での贖いの死により肉の弱さから既に解放されたのです。私たちは肉体の弱さ、信仰の弱さに苦しむかもしれませんが、御子を信じる信仰が神と人間との関係を正常な状態に復帰させてくれるのです。唯一の神、父なる神と、子なる神キリストと、聖霊なる神との三位一体の神を信じる信仰が唯一の神とイスラエル民族との契約を新たな契約に更新させたのです。
御子イエス・キリストとの間で結ばれた新たな契約はユダヤ人を割礼、律法の束縛から解放しました。異邦人がユダヤ人の慣習から解放され、信仰によってのみ義とされることを明らかにしました。罪の法則に従う人間を霊の法則に従って歩む人間へと変えたのです。人間は三位一体の神と共に歩むからです。
律法の要求はイスラエル民族が唯一の神を主として崇め、神の民に相応しい歩みをすることでしたが、新しい律法、福音が律法の支配を終わらせたのです。唯一の神は三位一体の神と捉え直されたのです。神の民は行いではなく信仰により義とされるのです。信仰生活の場は会堂から教会へと移されたのです。
宗教改革を経て『信仰のみ』『聖書のみ』『万人祭司』の原則が確立されました。礼拝は単なる儀式から御言葉中心に変わってきました。私たちは御言葉に育まれ、三位一体の神との関係が正さるのです。それが真の律法の要求です。
旧約聖書ヘブライ語原典には唯一の神を複数で書いてある場合もあるそうです。イエス様も律法では神の言葉を受けた人たちが『神々』といわれているから『私は神の子である』といっても神を冒涜したことにはならないといわれています。礼拝でよく用いられるⅡコリントの信徒への手紙の祝祷には『主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなた方一同と共にあるように』とありますが、三位一体の神について聖書で直接言及された箇所はありません。
三位一体の神を巡るアタナシウス派とアリウス派との神学論争は325年ニカイア公会議でアタナシウス派が辛うじて勝利しましたが、ローマ帝国を二分した戦いに発展しました。アタナシウス派はカトリック、正統という意味ですが、教会を創立しました。16世紀の宗教改革による宗教戦争、信仰の正統性を巡る争いも領土問題にまで発展し、血で血を洗う争いに発展しました。教会が主の体であると共に人間の集まりである証拠ですが、主は歴史を用いられたのです。
近代科学は教会の支配から脱することにより進歩しました。地動説が信じられたから新世界が発見されたのです。ヨーロッパの大航海時代が始まりましたが、植民地時代の始まりでもありました。宣教師が世界宣教命令の実現を目指して全世界に派遣されましたが、教会が植民地政策に荷担したのも事実です。
大航海時代を迎えて人類はグローバルな世界へ一歩を踏み出しました。宣教師はアジアの東端にある日本まで主の福音を携えてやってきましたが、日本には土着しませんでした。戦国時代にはキリシタン大名も現れましたが、江戸幕府はキリシタンを徹底的に弾圧しました。やがて鎖国政策を取り始めました。
日本にキリスト教がもたらされたのは明治維新を経てからです。宣教師が雇われ外人となり日本に科学文明を伝えましたが、日本人は西洋文明を取り入れただけで西洋文化、キリスト教文化を換骨奪胎をして受け入れたようです。内村鑑三、新渡戸稲造などのキリスト教信徒の教育者を生み出したぐらいでした。
先の大戦に敗北し、進駐軍に日本は占領されましたが、アメリカから宣教師が大挙して来日しました。敗戦で心の拠り所を失った人々が教会に集まり、キリスト教ブームが起きましたが、下火になりました。現在のキリスト教の信徒数は人口の1%を切るようです。日本の教会も栄枯盛衰を繰り返しました。
私たちは主が歴史の主であることを忘れてはなりません。主の教会は2000年間立ち続けましたが、歴史の変換点を何回もくぐり抜けてきました。教会の歴史は主の歴史であると共に人間の歴史でもあるからです。主の福音が途絶える危機にも教会は耐えてきました。信仰は信じる者に希望を与え続けたからです。
歴史には主が定められた終わりがあります。人間の歴史は終わりの日に向かって流れる川のようなものかもしれません。川の流れが堰き止められているように見える時もあるかもしれませんが、永遠に止められることはありません。
歴史に終わりがあることを自覚している者と自覚していない者との生き方は根本的に違います。今さえよければよいという刹那主義にはなれないからです。最後の審判を自覚する者には無責任な生き方ができないからです。福音に相応しく生きるという自覚が代々の教会、信徒を励ましてきたからです。 明日を夢見ながら今日を生きている信徒の群れが2000年間も教会を守り通したのです。
確かに人間は罪の法則の下にいるかもしれませんが、信仰により霊の法則の下に生きられるのです。主の十字架が罪の法則を打ち破られたからです。霊の法則を教会の歴史が守り抜いてきましたが、教会の歴史は人間の歴史でもありました。教会も罪の歴史の下から解放されているとはいえませんが、教会が生ける主の御言葉に立ち帰るときには主の教会も日々新たにされているのです。
イエス様の十字架での贖いの死で罪が支配していた世界は終わり、この世は神の支配する世界に移されたのですが、現実の世界では罪が横行しています。ユダヤ人のように法を形式的に守りながらも事実上の脱法行為をする者が絶えません。ホリエモンにしろ村上ファンドにしろグレーゾーンで商取引をしていたことは間違えありません。コムソン、NOVA などは常識を逸脱した商法です。
法の支配はローマ法が起源とされますが、ローマ法が教会法へと発展しました。神の支配を人間が実現させるためには法による支配が必要とされたのです。カトリック教会ではペテロから天国の鍵を受け継いだ教皇は絶対に間違いを犯さない、無謬であると信じられていますが、プロテスタント教会、特に改革長老主義教会では法の支配が強調されます。人間は誤りを犯しやすいからです。
人間は罪を犯しますが、罪を犯した人間の帰る場所を主は用意なされていたのです。聖霊降臨日、ペンテコステに主は聖霊を降され、教会を誕生させられました。主は主の弟子達、私たちのために教会を建てられたのです。聖霊が下ったときには120名ぐらいの信徒群れが、その日に3000名の群れになりました。
信徒の群れの数が増えると様々な問題が噴出してきました。能力に応じて負担し必要に応じて分配される原始共産制も献金を偽る者、不公平な配分などで立ちゆかなくなりました。使徒たちは執事を任命し、実務に就かせましたが原始共産制は崩壊しました。初代教会は使徒たちが集団で指導していたようです。
教会が資産を持つようになり、教会の力が増してきました。教皇を頂点としたヒエラルキー、位階制度が確立し、教会法も整備されてきましたが、腐敗も始まりました。教皇、人間が神の代理人となる制度に異議を唱えたのが宗教改革です。『信仰のみ』『聖書のみ』『万人祭司』は御言葉中心の信仰なのです。
教会の歴史は罪と赦しの歴史でした。人間の言葉ではなく御言葉を信じる信仰が信徒に立ち帰る場、悔い改めの場を提供したのです。御言葉を語るのも人間ですから誤りもありますが、それを超えて主が働かれるのを信じる信仰がプロテスタント信仰です。教会法の確立も人間の恣意的な行動を抑制しています。
教会で主を賛美、礼拝することが律法の要求、主との関係を正しくすることを満たすのです。人間の造り出す制度には欠陥がありますが、主がその欠陥を超えて働かれるのを信じるのが信仰です。例えば選挙で同数ならばくじを引きますが、これを公平な手段と捉えるか、主の意思の表れと捉えるかの違いです。教会はこれからも変化していくでしょうが、生ける主は変わらないのです。
人間は永遠の命を望みますが、永遠の命を与えられるのは生ける主のみです。行いでは永遠の命には到達できませんが、信仰により到達できるのです。永遠の命は教会のみが与えられる秘蹟、サクラメントだからです。主の十字架での贖いの死を信じ、甦りの命を信じる者のみに与えられるサクラメントなのです。
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