2007/11/17

07/06/24 霊の思いは命と平和である T

霊の思いは命と平和である
2007/06/24
ローマの信徒への手紙8:4~11
 万能細胞、ES細胞が新たな医療技術、再生医療の面で注目を集めていますが、倫理上の問題から各国で対応が分かれています。ブッシュ大統領はES細胞の利用に否定的で、「生命を故意に壊す研究」として拒否権を行使しました。
 生命倫理の規制が厳しくない国ではES細胞に関する研究が加速されています。韓国ではデーターの捏造が発覚し、国民的英雄が詐欺師と分かったくらいです。厳しい規制は国際競争からの脱落を意味するのが世界の現状です。
 日本では京都大学のみがES細胞を作成し、研究機関に配布しているようですが、理化学研究所がES細胞の大量培養に成功したようです。日本でもES細胞に対する規制が厳しく、研究機関と国によるダブルチェックが入ります。
 倫理上の最大の関門はES細胞が受精卵、胚を破壊して作成される点にあります。生命の始まりは卵子が受精して時点だとすれば、ES細胞は生命を破壊した結果得られるものですから、殺人行為だと批判されても仕方ありません。
 ブッシュ大統領を支えているアメリカのキリスト教保守派は生命の尊厳を訴え、人工中絶にも反対して国論を2分させています。ヨーロッパでもキリスト教保守派の勢力が強い国ではES細胞に対するが規制が強い傾向がみられます。
 米欧の規制に嫌気をさした企業がアジアに進出しています。世界の企業間での特許を巡る争いが激しくなっていますから、ES細胞の大量培養技術は日本の武器になります。受精卵を破壊してES細胞を作成しなくて済むからです。
 生命技術の進歩はヒトインスリンを大量に供給し糖尿病患者を救いました。新しい技術、医薬品を生み出しましたが、ES細胞からの臓器形成による再生医療の面でも期待されています。自己免疫作用を防ぐことができるからです。
 しかし、サイボーグのようになっても生き続けたいという人間の本能に応えるのが科学の使命だと考える人もいますが、ブッシュ大統領のように考える人もいるのです。人間としての尊厳を保った人の死を再考する必要があります。
 さらにES細胞から再生させられた臓器はガン化しやすいという研究報告もあります。不老不死は人間の永遠の夢ですが、彷徨えるオランダ人のように彷徨い続けなくてはならないのなれば不老不死は人間に不幸をもたらすでしょう。
 病腎移植をしなければならなかったのは死体腎臓が極端に不足していたからですが、ES細胞から腎臓を形成できれば人工透析から自由になれる患者は数十万人をくだらないでしょうし、糖尿病ならば膵臓を移植すれば完治します。
 臓器移植のための臓器形成だけではなく、難病にも有効な治療法が期待できそうですが、生命を犠牲にした医療である点では変わりません。他国との競争ばかりに目を向け、生命倫理についての議論を積み重ねなければ後悔します。
 日本にはキリスト教倫理のような生命倫理が存在しません。科学技術至上主義が日本の価値基準の根本にありますから公害列島であった時を思い起こす必要があります。新しい技術は利用する人間側次第で毒にも薬にもなるからです。
 パウロは『肉に従って歩むものは肉に属することを考え、霊に従って歩むものは、霊に属することを考えます』と人の歩む道のりを二分して考えています。肉の思いは死に繋がる道であり、霊の思いは命と平和に至る道だからです。
 肉の思いは道徳的な罪、倫理的な罪を意味するのではなく、むしろ神様との関係を乱す行為を意味しています。ユダヤ人は形式的な律法に忠実でしたから道徳的、倫理的な水準はギリシア人、異邦人と比べれば遙かに高かったと思われますが、律法の目的である『汝の主を愛せよ』を忘れ去っていました。
 ユダヤ人が行いによる義に執着したのは唯一の神の姿、形が見えないからでしょう。異邦の神々、偶像は具体的な姿をしていますので、礼拝の対象が分かりやすいからです。祭儀を執り行うにしても、偶像の前に献げ物を献げ、偶像を拝むのは目に見え、耳で聞こえるので人間の五感に訴える力が強いからです。
 出エジプトの旅の中でもイスラエルの民はモーセが神様に召されてシナイ山に上っているのを待ちきれなくり、不安に陥りました。アロンは民から金の耳輪などを集めて金の子牛の像を鋳造しました。イスラエルの民は『これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々である』といい、祭壇を築き、献げ物を献げました。民は金の子牛の前で飲み食いし、戯れました。律法を授かる前の事件でしたが、イスラエルの民でさえも偶像礼拝の道に走ったのです。
 このように肉の思いは人間にこの世の様々な神々、偶像を礼拝するように仕向けるのです。人間は肉の支配下にある限り唯一の神を信じられないのです。肉の思いに従う者は神に敵対し、神の律法に従い得ないからです。人間を肉の支配から解放し、霊の支配下に導くのは神の霊なのです。キリストの霊が宿っている限り、体は罪によって死んでいても霊は義によって命とされるのです。
 主を信じる者はたとえ肉の思いに囚われ、罪を犯してもキリストの十字架での贖いの死により罪を赦された者とされるのです。イエス様を死者の中から復活させられた方は人間の内に宿っている霊により死ぬはずの体をも生かしてくださるからです。罪が支払う報酬は死ですが、神が与えられる賜物は永遠の命だからです。私たちは生ける主により永遠の命に与ることができるのです。
 人間が肉の思いから離れることは不可能ですし、肉の思いは罪を犯させます。罪の結果、人間は死を避けられませんが信仰によりキリストの復活、永遠の命に与ることができるのです。行いによる義は神ではなく人間の力により義とされるという人間の傲慢さ、神なき姿の象徴でしたが、信仰による義は人間の無力さを悟り、生ける主に総てを委ねる信仰ですから神に受け入れられるのです。
 信仰は『神は神であり、人は人である』ことが前提になります。神の世界と人の世界とは質的に異なる世界、異次元な世界だからです。三位一体の神は人間のイメージを超えた存在です。十字架、キリスト受難像、マリア像などは人間の想像を具体化したものに過ぎず、三位一体の神とは無縁な存在なのです。
 神は人を神に似せて創造なされました。人間は神をかたどって造られましたが、神と人間が同じ姿であることを意味していません。人間だけが神と応答できる存在であることを意味しているのでる。偶像は人間の想像力が造り出した産物に過ぎませんが、神は人間のイメージを遙かに超えたお方だからです。
 人間が神の姿を想像できないのは神の領域と人間の領域とが異なるからです。ユダヤ人の父祖アブラハムは神からの呼びかけに従順に従いました。アブラハムの唯一の神に対するイメージがどんなものであったかは分かりませんが、パレスチナ、オリエント地方の神々、偶像とは全く異なる神、唯一の神でした。
 人間にはアニミズム、霊魂や精霊の存在を信じる信仰が自然ですから、唯一の神を信じる信仰は人間には受け入れがたいものですが、アブラハムは唯一の神、生ける主を信じたのです。創造主がイスラエル民族を神の民として選ばれた理由は人間には分かりませんが、イスラエル民族は主を受け入れたのです。
 ユダヤ人の信仰は契約に基づく信仰です。「唯一の神はユダヤ人の主となる」「ユダヤ人は割礼と律法を遵守する」、これが契約の条件なのですが、ユダヤ人はしばしば律法から離れ去り、主との契約を一方的に破棄してしまいました。唯一の神は偶像礼拝の道を歩むユダヤ人に裁きをもたらされましたが、民は悔い改めませんでした。預言者の声を無視する王が続出し、ユダヤは滅びました。
 ユダヤ人の歴史は偶像礼拝に走る王、悔い改めを迫る預言者、悔い改める王、再び偶像礼拝をする王、再び預言者の登場、悔い改める王の繰り返しでしたが、イエス様の誕生までの300年間は預言者が現れませんでした。ユダヤの民は救い主を待ち望んでいたのですが、彼らが待ち望んでいたのはダビデ王の再来であり、ユダヤ人を中心にした世界の実現、ダビデ・ソロモン王朝の再現でした。
 ユダヤ人の救い主、メシア待望はイエス様により実現したのですが、ダビデ王の再来を望んだ民の期待を裏切るものでした。武力によるローマからの解放を望んだ民は魂の解放、永遠の命を説かれるイエス様を理解できませんでした。律法、行いによる義を理解できても信仰による義は理解できなかったからです。律法の世界は具体化されていますが、信仰の世界には基準がないからです。
 プロテスタント信仰は「信仰のみ」、「聖書のみ」、「万人祭司」で表されますが、信仰の基準が明確ではありません。カトリック教会には分厚い信条集がありますが、日本キリスト教団の信仰告白は半ページにしか過ぎません。このようにプロテスタント教会には明確な基準がないので教会は無数に存在します。
 ユダヤ人キリスト者が割礼と律法に拘ったのも、信仰により義とされるだけでは不安だったからです。救いの確信が欲しかったからです。彼らは律法、戒めに縛られる生活に馴染んでいたからです。割礼、律法から自由だと宣言されることはむしろ彼らを不安に陥れたのです。自由は不安を引き起こしたのです。
 霊の支配を実感できなければ永遠の命を信じられないのが人間です。唯一の神をイメージできないユダヤ人には割礼、律法が神の身代わりなのです。金の子牛の代わりが割礼、律法なのです。信仰の世界に入るためにユダヤ人は徴を求め、ギリシア人は知恵を探しますが、永遠の命には到達できなかったのです。
 主が復活なされたから人間にも永遠の命に至る道が開かれたのです。信仰とは主の十字架での死と復活を信じることなのです。私たちの常識、徴や知恵、奇跡や哲学から離れ、真の人であり真の神であるイエス様を信じることなのです。神の領域と人間の領域とは異なる次元に属するからです。偶像礼拝は人の思いを偶像に投影させますが、真の礼拝は神の意志が反映されるからです。
 信仰の確信、信仰のリアリティは被造物である人間が創造者である神の唯一絶対性を認めることができるか否かにかかっています。ヨブ記には義人ヨブの苦闘が述べられています。神はヨブをサタンに『地上で彼ほどのものはいない。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている』と自慢されたのです
 ところがサタンは神がヨブが財産に恵まれ、家族にも恵まれているから神を崇めているのだと主張しました。神はサタンにヨブから命以外のものを奪い取ることを許されました。ヨブは突然家族を失い、財産を失いましたが、神を非難することはありませんでした。サタンはヨブを酷い皮膚病に罹らせました。
 ヨブの三人の友人はヨブを見舞いに来ました。彼らはヨブが罪を犯したから苦難に遭うのだから悔い改めて神に赦しを請うようにと勧めましたが、ヨブは断じて罪を犯していないと主張します。三人の友人は因果応報の考えをヨブに認めさせようとしましたが、ヨブは無垢、無罪であると主張して譲りません。友人たちはヨブを慰めにきたはずでしたが、無罪を主張するヨブの頑迷さに怒り始めました。ヨブへの慰めが怒りに転じました。ヨブと友人との激論はさながらヨブへの糾弾集会の様相を呈してきましたが、突然神が介入なされました。
 神はヨブに『天地が創造されたときにお前はどこにいたか。全能者と言い争うつもりか』といわれました。ヨブは『私の知識を超えた驚くべき神の御業をあげつらっていました。それゆえ私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます』と答えました。神は創造主、人は被造物であることを弁えたのです。
 ヨブ記で描き出された人間模様は私たちの住む世界を反映しています。因果応報は最も素朴な人間の信仰だからです。多神教の世界、アニミズムの世界では霊魂や精霊が人間の行いに応じて人間に報いるのが当然です。人間の常識的な世界観からすれば良い行いには良い報いがあり、悪い行いには悪い報いがあるのは当然だからですが、信仰の世界では神が神の御業をなさるだけのです。
 ヨブの友人たちは常識の世界に生きていましたし、ヨブもまた常識の世界から抜けきれていませんでしたが、全能者から天地創造の御業を指摘され、初めて人間の限界を悟らされたのです。人間は人の思いに神の思いを重ねてしまいがちです。「御心ならば」はよく使われる言葉ですが、神の思いを人が知ることはできないのです。あくまでも人間が想像した神の御心に過ぎないのです。
 神の世界は人間の理解、想像を超えた世界、異次元の世界であることを認めるのが信仰です。人間が理解できる世界は宇宙、マクロの世界から、素粒子、ミクロの世界までのわずかな部分なのです。人間の常識、感覚では理解できない世界があることを科学が示しています。イエス様が『幼子のごとく』といわれたのは人間の常識、感覚を初期化、フォーマットせよということなのです。
 私たちが信じるのは御子ナザレのイエス・キリストなのです。聖書が描き出すイエス様の人格、神格を信じるからです。信仰の世界と神学の世界とは異なります。信仰はイエス様を信じるのであり、神学は学問に過ぎないからです。人格を言葉化、ロゴス化できないように、信仰もまた言葉化できないのです。御言葉はイエス様の人格、神格を人間が言葉化するものですから、論理的には不可能なのですが、御言葉に論理を超えて命を与えるのが聖霊の働きなのです。