07/07/08 主が先頭に立たれる M
2007年7月8日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
主が先頭に立たれる ミカ書2章12-13節
讃美歌 67,234A,Ⅱ195
堀眞知子牧師
「十戒」の一番最後で「隣人の家を欲してはならない」と命じられています。また約束の地カナンに入るにあたって、それぞれの部族に嗣業の地が与えられました。土地は神様のものであり、神様がイスラエルに与えられたものでした。レビ記25章において、神様は「土地は私のものであり、あなたたちは私の土地に寄留し、滞在する者にすぎない。あなたたちの所有地においてはどこでも、土地を買い戻す権利を認めねばならない。同胞の一人が貧しさゆえに所有地の一部を売ったならば、それを買い戻す義務を負う親戚が来て、土地を買い戻さねばならない。買い戻す力がないならば、それはヨベルの年(50年目)まで、買った人の手にあるが、ヨベルの年には所有地の返却を受けることができる」と言われました。嗣業の地は神様から与えられたものであり、子孫へと受け継がれていくものでした。列王記上21章に、北イスラエルの王アハブが、ナボトが所有しているぶどう畑が欲しくて、彼と売買の交渉をした話が記されていました。アハブの要求に対してナボトは「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけて私にはできません」と答えました。ナボトは信仰に基づいて、アハブの申し出を断りました。機嫌を損ねたアハブに、妻であるシドンの王女イゼベルは「今イスラエルを支配しているのはあなたです。私がナボトのぶどう畑を手に入れてあげましょう」と言って、不法な手段をもってナボトを殺し、ぶどう畑を手に入れました。この事件の後、預言者エリヤに神様の言葉が臨み、エリヤはアハブに彼の家の破滅と、イゼベルの悲惨な最期を告げました。
アハブの時代には「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけて私にはできません」と王に対しても、信仰に基づいて答えることのできる者がいましたが、それから100年以上を経たミカの時代には「隣人の家を欲してはならない」「土地は私のものであり、あなたたちは私の土地に寄留し、滞在する者にすぎない。ヨベルの年まで、買った人の手にあるが、ヨベルの年には所有地の返却を受けることができる」という律法は、完全に無視されていたようです。貧富の差が拡大し、地主と小作人のような関係が進んでいたようです。2章は「災いだ」という言葉で始まります。これはヘブライ語原文では「ああ、災いなるかな」という感嘆詞です。悪いことが行われている現状に対する、神様の怒りと悲しみと嘆きの声で始まります。「寝床の上で悪を企み、悪事を謀る者は。夜明けと共に、彼らはそれを行う。力をその手に持っているからだ。彼らは貪欲に畑を奪い、家々を取り上げる。住人から家を、人々から嗣業を強奪する」と語られています。他人の土地を欲しいと願う者は、夜も寝ないで、土地を得るための計画を練っていました。そして夜が明けるやいなや、計画を実行に移しました。「力をその手に持っているから」という言葉が表しているように、彼らは神様から与えられた知恵や力や富を、あたかも自分で得たかのようにして、自分の思いのままに使いました。彼らは貪欲に他人の畑や家を求め、子孫に受け継ぐべき嗣業の地を奪いました。正当な手段をもって手に入れることができない時は、力づくで手に入れました。他人の嗣業の地を得ることは、本来の所有者を奴隷として扱うことです。同じくレビ記25章において、神様は「同胞が貧しく、あなたに身売りしたならば、その人をあなたの奴隷として働かせてはならない。雇い人か滞在者として共に住まわせ、ヨベルの年まであなたのもとで働かせよ。エジプトの国から私が導き出した者は皆、私の奴隷である。彼らは奴隷として売られてはならない。あなたの神を畏れなさい」と言われました。彼らは、この掟にも背きました。
このような律法無視、不法が平然と行われているユダに対して、神様は裁きを宣告されます。3節は「それゆえ」という言葉で始まります。神様への背信と悪、社会的弱者への虐待に対する、当然の罰として語られます。「見よ、私もこの輩に災いを企む。お前たちは自分の首をそこから放しえず、もはや頭を高く上げて歩くことはできない。これはまさに災いの時である。その日、人々はお前たちに向かって、嘲りの歌を歌い、苦い嘆きの歌を歌って言う。『我らは打ちのめされた。主は我が民の土地を人手に渡される。どうして、それは私から取り去られ、我々の畑が背く者に分けられるのか』それゆえ、主の集会で、お前のためにくじを投げ、縄を張って土地を分け与える者は、一人もいなくなる」「私も災いを企む」と語られているように、悪事を謀った者に対して、神様も災いを御計画されます。神様から与えられた嗣業の地を重んじない者は、神様によって土地を奪われます。神様が外国の力をもって、ユダに罰を下されます。彼らは外国に囚われの身となり、軛を課せられ、頭を高く上げて歩くことはできません。現実に軛を課せられると共に、国を失った民として、捕囚の民としての惨めさを味わうことになります。自国にあるように、堂々と歩くことはできません。外国の民、ユダの国を滅ぼし、ユダの民を捕らえた民から嘲られることになります。かつてカナンに入った時、イスラエルはくじによって土地を分配し、縄を張って境界線を決めました。けれどもユダが滅ぼされる時、同胞から強奪した土地は、外国の民の所有となり、いかなる手段を使っても取り返すことはできません。
このように神様は、ミカを通して警告を語られましたが、ミカの預言に反発する者もいました。おそらく富のある者に対して、心地よい言葉を語る偽預言者達がいたのでしょう。いつの時代でも人間は、自分を裁く言葉より、自分を褒めそやす言葉に心を引かれます。ミカに対して「たわごとを言うな」と非難する人々がいました。ミカは彼らの言葉を取り上げて言います。「たわごとを言うな」と言いながら、彼らは自らたわごとを言う、とミカは逆に非難します。ミカに反発する者達は「こんなことについてたわごとを言うな。そんな非難は当たらない。ヤコブの家は呪われているのか。主は気短な方だろうか。これが主のなされる業だろうか」と言いました。ミカに反発する人々は、神様を自分達の基準で考えていました。自分達にとって都合の良い神様、いわば偶像の神々を作り出していました。イスラエルは特別な民であって、神様から祝福されている。神様が自分達を呪われるはずがない。神様は気の長い御方であって、すぐに怒りを表すような御方ではない。確かにイスラエルは、神様によって選ばれた民であり、神の宝の民でした。けれども、その選びに対しては、特別な祝福と共に、律法が与えられ、特別な使命が与えられていました。与えられた律法を守らない者、使命を果たさない者には、当然のこととして裁きが下されます。神様は気短な御方ではありませんが、不正を見逃す御方ではありません。神様は裁きを好まれる御方ではありませんが、イスラエルの罪をそのままにしておくことのできる御方ではありません。神様は地上に、御自身の義が立てられること、イスラエルが御自身に忠実に生きること、それらを通して全人類が救われることを、何よりも望んでおられます。ですから神様は「私の言葉は正しく歩む者に、益とならないだろうか」と反問されます。これは反問と言うよりも、神様は「私の言葉は正しく歩む者には、必ず益となる」と断言されているのです。「私の言葉に従って歩め、私の律法を守れ、そこに祝福がある」と神様は約束されています。
その約束にもかかわらず、神様に背いて歩み続けるイスラエル。神様は、再び罪を告発されます。「昨日まで我が民であった者が、敵となって立ち上がる。平和な者から彼らは衣服をはぎ取る、戦いを避け、安らかに過ぎ行こうとする者から。彼らは我が民の女たちを楽しい家から追い出し、幼子達から、我が誉れを永久に奪い去る」かつて神様が御自分の宝の民として選ばれたイスラエル、それが今や神様に敵対する存在となっています。富のある者、権力のある者が、経済的弱者、平和を好む者、抵抗しない者、女性、幼い子供を虐待しています。罪を犯し続けるイスラエルに、神様はミカを通して裁きを宣告します。「立て、出て行くがよい。ここは安住の地ではない。この地は汚れのゆえに滅びる。その滅びは悲惨である」神様に背き続けたイスラエルに「立て、出て行くがよい」と命じられました。「ここは安住の地ではない」約束の地カナン、神様の嗣業の地が、イスラエルにとって安住の地ではない。それは神様が、イスラエルをカナンの地から追い出されること、イスラエルが捕囚の民として異国に連れて行かれることを意味しています。神様が与えられた土地であるがゆえに、イスラエルの罪の結果として、神様が奪われます。先にも述べましたように、ミカを通して語られる厳しい裁きに反抗する者、彼らに迎合する偽預言者がいました。「誰かが歩き回って、空しい偽りを語り『ぶどう酒と濃い酒を飲みながら、お前にとくと預言を聞かせよう』と言えば、その者は、この民にたわごとを言う者とされる」この世的欲望を満たしたい者にとって、偽預言者の言葉は、心地よい響きをもっており、彼らの欲望を十分に満たすものでした。ミカを通して神様は語ります。「イスラエルが望んでいるのは、私の真理や計画ではなく、自らの欲望である。それは空しい偽りである。偽りを語る者には、ぶどう酒と濃い酒でも飲まして、私の預言者ではなく、あなたの預言者になってもらえばよい」と。
罪の告発と厳しい裁きを語った後、神様は復興の預言を語られます。「ヤコブよ、私はお前たちすべてを集め、イスラエルの残りの者を呼び寄せる」神様は「残りの者を呼び寄せる」と言われました。創世記6章に記されていたように、ノアの時代、地上には悪が増し、人間は常に悪いことばかり考えていました。地が堕落し、不法が満ちている中にあって、ノアは神様に従って歩む無垢な人でした。神様は、洪水によって地上にある命あるものを滅ぼされましたが、ノアには箱舟を造ることを命じられ、彼とその家族、1つがいずつの動物を守られました。また預言者エリヤがイゼベルに命を狙われ、北イスラエルから南ユダに逃亡した時、彼は自分の命が絶えることを願いました。神様がエリヤに「エリヤよ、ここで何をしているのか」と尋ねられ、エリヤは「私は、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者達を剣にかけて殺したのです。私一人だけが残り、彼らはこの私の命をも奪おうと狙っています」と答えました。それに対して神様は「エリシャに油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。私はイスラエルに7000人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である」と言われました。エリヤは「私一人だけが残り」と思っていましたが、神様は7000人を残され、さらにエリヤの後継者エリシャをも備えられていました。罪と悪が満ちる中にあって、神様は、御自分の計画を地上において現され、御心を示されるために、常に残りの者を備えられ、集めて下さいます。神様は「私は彼らを羊のように囲いの中に、群れのように、牧場に導いて一つにする。彼らは人々と共にざわめく」と言われました。神様が牧者として、イスラエルの残りの者を集め、安全な囲いの中に、牧場に導いて一つの群れとされます。神様が打ち破る者となって、イスラエルの残りの者に先立って上られます。すると残りの者も打ち破って、門を通り、外に出ます。イスラエルの王である神様が、イスラエルの残りの者、すなわち悪と不正が満ちる中にあっても信仰を守ってきた者に先立って進み、神様が信仰者の先頭に立たれます。
新約の時代に生きる私達にとって「残りの者」は主イエス・キリストを信じて、与えられた地上の人生を歩み続ける者であり「羊の群れ」は主の教会であり、先頭に立たれる「牧者」は主イエス・キリストです。ヨハネによる福音書10章で、イエス様は「私は羊の門である。私を通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く」と言われました。イエス様は、御自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って進まれます。イエス様が先立って歩まれ、私達キリスト者が、その後に従って行く。その光景は12-13節に書かれている光景と同じです。
同時に12-13節の御言葉は、終末の日、主イエス・キリストの再臨の日を思い起こさせます。パウロがテサロニケの信徒への手紙一4章に「主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残る私達が、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、私達生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、私達はいつまでも主と共にいることになります」と記した光景を思い起こさせます。神様のラッパが鳴り響くと、主イエスが天から降って来られ、すでに眠りについた者も地上にある者も、主イエスにあって生き続けた者、教会生活を送り続けた者が呼び集められ、主イエスが先頭に立たれて、天へと上げられます。そして主イエスが先頭に立たれるのは、再臨の日だけではありません。私達の地上の人生において、常に先頭に立って進んで下さっています。「私は良い羊飼いである」と言われた主イエスの御声に聞き従って、与えられた地上の人生を最後まで歩み続けることができるように、私達の日々の信仰生活を神様によって養っていただきましょう。
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