2007/11/27

07/07/15 神の相続人 T

神の相続人
2007/07/15
ローマの信徒への手紙8:12~17
 久間元防衛大臣の原爆投下に対する「しょうがない」発言はマスコミ、平和運動家からの激しいパッシングに会いましたが、敗戦国日本が「勝てば官軍」である戦勝国の不条理を受け入れるためにはそう思わざるを得ませんでした。
久間氏の発言はアメリカが対ソ連戦略のために原爆を投下した結果、ソ連から侵略を受けることもなく敗戦を迎えられ、日本が南北に分割されることはなかったというものです。団塊の世代までには常識的な歴史認識だと思います。
「しょうがない」発言には敗戦国の悲哀が感じられましたが、久間パッシングは敗戦の事実を抜きにした道徳論、倫理観です。最大の戦争犯罪は負ける戦争を始めたことにあります。原爆の責任も当時の指導者に帰すると思います。
イギリスの哲学者、グレインはイギリスがヨーロッパで行った地域爆撃、無差別爆撃を戦争犯罪である主張しています。ヨーロッパではアメリカの石油施設、軍事施設、インフラなどへの精密爆撃の方がドイツを疲弊させたそうです。
地域爆撃は都市住民を無差別に殺戮しましたが、軍事上の成果はあまり上がらなかったそうです。グレインは戦争の目的がたとえ正義に基づくものであれ、民間人の殺戮は明らかな戦争犯罪であり、合理化できないと主張しています。
彼はアメリカ軍による東京大空襲、都市に対する絨毯爆撃、原爆投下も同列に論じています。地域爆撃が勝利を得るための必要不可欠な戦術、戦略ではなく、むしろ精密爆撃の方がより確実で大きな戦果を得られたと主張しています。
原爆も都市中心部に照準を合わせたのは無差別殺人であり、他の手段でも同等の効果を得られたと主張しています。原爆の威力を示すためには、都市部から離れた場所、海上にでも投下すれば効果を示すことはできたはずだからです。
しかし、原爆は2発も投下されました。日本人からすれば明らかな人体実験ですが、敗戦国の身では沈黙せざるを得ませんでした。戦勝国が敗戦国を裁くのですから、戦勝国の戦争犯罪は免責、罪に問われないのが当然だからです。
敗戦国の人間は不条理を感じつつも自らの犯した戦争犯罪を考えれば不条理を合理化する論理を受け入れて「しょうがない」と自嘲せざるをえません。日本がドイツ、朝鮮のように南北に分断されなかったことを喜んだからです。
日本、ドイツでは言論の自由がありませんでしたが、イギリスでは地域爆撃に抗議する運動が宗教界、政界を巻き込んで起こったようです。ドイツ軍の無差別爆撃を受けた住民の方が受けていない住民よりも地域爆撃に反対しました。
都市が破壊される悲劇に遭遇した住民は復讐よりも悲劇が繰り返されないように願いましたが、国民は復讐を願ったようです。空軍は復讐の怨念からか、ドイツを破壊しつくそうとしましたから、イギリスの地域爆撃は戦争犯罪です。
それと同じ論理をアメリカのイラクにおける軍事行動に適用すれば戦争犯罪に問われるものも少なくないでしょうが、テロが想定されていない時代の法であるのも事実です。テロに対する法的、道徳的、倫理的な積み重ねが必要です。
 パウロはローマの信徒へ『兄弟たち、私たちには一つの義務があります』と語りかけています。ローマ市民の義務は祖国を防衛する任務、兵役に就くことでした。やがて兵役の代わりに税金を納めることが普通になってきましたが、祖国のために死を厭わないのがローマ市民です。元老員の議員も兵役に就きました。将軍としてのキャリアを積んだ者しかリーダーには成れなかったのです。
 パウロは兵役、血税が死をイメージするのを思い浮かべながら、肉に従って生きることが死に繋がるのを表現しようとしています。『肉の思いに従う者は罪と死の法則の下にあり、神に敵対し、神の律法に従っていないからですが、霊によって体の仕業を絶ち、肉の誘惑から離れられれば生きられるからです』。
 一方『神の霊に導かれる者は霊の法則の下にあり、皆神の子とされるのです』。キリストを死者の中から復活させられたお方が死ぬはずの体をも生かしてくださるからです。霊の法則の下にいる者は復活の命に与ることができるからです。
 パウロは肉の思いに従う者と霊に導かれる者とをローマの養子制度をイメージしながら説明しています。ローマでは養子にされれば実家との関係はすべて精算されます。債務、借金を相続する必要はなくなりますが、財産も相続できなくなります。血縁関係がなくとも兄弟姉妹とされます。たとえばクラウディス帝がネロに皇位を相続させるために養子にしましたが、血縁関係のない娘オクタヴィアと結婚させるためには元老員の特別立法が必要とされたぐらいです。
 神の霊は人間を罪の法則の下から霊の法則の下へと移したのです。霊は人を肉の奴隷から解放し、神の子とさせたからです。人は神の子供、神の相続人とされたからです。父なる神を『アッバ、父よ』、お父ちゃんと呼ぶことが許されるのです。私たちが神の相続人、キリストと共同の相続人とされたからです。
 パウロは肉に従って生きる世界から霊に従って生きる世界へ養子に出されたイメージを用いて表現しています。信仰を持つことにより法的にも神の子とされるイメージはローマ人には強烈な印象を与えたでしょう。『アッバ、父よ』はユダヤ人の表現ですが、ローマ人にもニュアンスは伝わったはずです。父なる神を実の父親のように表現できる幸いを分かち合うことができたはずです。
 『アッバ、父よ』はユダヤ人だけではなくローマ人にも強い印象を与えました。ローマ人にも父親の権威は絶対だったからです。たとえ皇帝になったとしても、父親には絶対に服従したからです。神の権威は父親のように絶対であると信じられたからですが、父親の愛のように慈愛深いものでもありました。
 キリスト者はこの父なる神の支配の下に移されましたから、キリスト者はこの世の権威に囚われる必要はなかったのですが、自由だからこそ上の権威に従いなさいとパウロは諭したのです。イエス様が再臨なされる日を心待ちにしていたからです。『主が再臨なさる日は近い』が初代教会の信仰でした。主の再臨なさる日が2000年間も先延ばしにされるのを想像だにした者はいません。
 パウロは主の再臨なさる日をわくわくしながら待ち望んでいました。主の養子とされた幸いは復活の望みを確かにし、永遠の命への信仰を確かなものとしました。主イエス・キリストと共に苦しみ、共にその栄光にも与るからです。パウロのイメージは終わりの日に受ける栄光を待ち望むものであったからです。
 『アッバ』はアラム語で子供が父親に呼びかける時に使う言葉です。日本語では「お父ちゃん」というようなニュアンスを持つ幼児語だそうです。ユダヤでもローマでも父親の権威は絶対でした。たとえ成人しても子供は子供でした。口答えなどは絶対に許されなかったそうです。子供を育てるのは母親の役割でした。父親は子育てには無関心、非協力でしたが、子供には厳格でした。
 唯一の神、父なる神は厳格ですが慈愛に満ちた父親のイメージのようです。旧約聖書の世界では唯一なる神ヤーウェは父親のイメージ通りですが、新約聖書の世界になると母親のイメージがついて回ります。カトリックのマリア信仰は母親のイメージを聖母マリアに投影したものでしょう。イエス様にもいつも子供や病人、障害者と共におられた優しいイメージを感じる人が多いでしょう。
 旧約聖書の神は妬む神、裁きの神であり、新約聖書の神は愛する神、無条件で赦してくださる神であると思いこんでいる人は少なくないようですが、旧約聖書の神も新約聖書の神も同じ唯一の神です。旧約聖書の時代には三位一体の神と言う概念はありませんでしたが、唯一の神ヤーウェは父なる神と同じです。
 イスラエル民族は遊牧民族ですから農耕民族の神とは根本的に違いますが、唯一の神はイスラエル民族だけに自らを啓示されたようです。しかしイスラエルの民族は農耕民族の豊饒の神々に惑わされました。偶像礼拝、高きところで捧げる犠牲、バアル礼拝などは豊饒の神々に捧げられたものです。ローマは多神教、多文化、多言語国家でした。初代教会の誕生から300年にも満たないうちにキリスト教化しましたが、豊饒の神々の影響からは脱し切れませんでした。
 日本では八百万の神々が現代でも生きています。天皇が国造り神話から始まる八百万の神々を体現しているのです。日本は農業国ですから豊饒の神々に対する信仰が厚いのです。日本人の思考には唯一の神を信じるキリスト教は馴染みにくいのかもしれません。キリスト教は日本では1%に満たない少数派です。
 豊饒の神々はたくさんの子供を産む母親のイメージですから、父親のイメージを受け入れがたいのでしょう。多神教の文化の中で育ってきた私たちは母親的な神々から父親的な唯一の神に神のイメージを変えなくてはならないのです。ユダヤもローマも父系社会ですから、唯一の神のイメージも父親なのでしょう。
 私たちはその父親の相続人、養子として迎えられたのです。父なる神の相続人として神の国を受け継ぐのですが、主権は父親、父なる神にあるのです。子供としての自由は与えられていますが、父親を超えることはできないのです。父親にも父親として果たすべき義務があります。御子をこの世に遣わされたのは神の憐れみによりますが、人間的に考えれば父親の義務だとも思えます。
 イザヤ書には『私は造ったゆえ、必ず負い、持ち運ぶ、かつ救う』とありますが、父なる神の創造主としての義務を果たされる決意が記されています。さらに私たちはキリストの苦難、十字架で示された御業にも与っていますから、子なる神、キリストと共に苦しむならば、共にその栄光にも与れるのです。
 少なくともユダヤ人、初代教会の人々は唯一の神に父親のイメージを重ねていたのです。現代ならばセクハラとも言われかねませんが、父親のイメージの唯一の神は母親のイメージの豊饒の神々と歴史を通して争ってきたのです。 
 私たちは神の相続人ですから、神の子なのです。神の国へと招かれているのです。『私たちの国籍は天にある』のです。地上での歩みを終えれば天に帰るのです。地上での歩みは肉に従わざるを得ませんが、霊の働きにより浄められるのです。人間は悪魔にも天使にもなれるからです。戦場での英雄が必ずしも平和な時代の英雄になれないからです。むしろ犯罪者になる場合さえあります。
 イギリスの都市がドイツから無差別爆撃を受けたときにはイギリスの国民は復讐を誓いましたが、被災者はむしろイギリスの報復爆撃、無差別爆撃に反対したそうです。都市が爆撃を受ければ火災により上昇気流が生じ、中心部は無酸素状態になります。熱風だけではなく、酸欠で人々は亡くなるのです。防空壕に避難していた人々も酸欠で命を奪われ、死体が丸太棒のように転がっていたそうです。都市への無差別爆撃は民間人の死体の山を築き上げたのです。
 この悲惨な現場を見せつけられた人たちの半数は都市への無差別爆撃に反対したそうですが、残りの半数はドイツの都市への無差別爆撃、復讐を支持したそうです。都市爆撃を経験せず、被災をニュースで知らされた人たちは復讐に燃え上がったそうです。イギリスの戦略爆撃機チームの司令官、元帥ですが、ロンドン空襲を体験していたそうですが、都市爆撃に執着したそうです。アメリカの司令官も日本の焦土作戦に固執しました。復讐を望んだからでしょう。
 人間の感情の動きは論理的ではありませんから、復讐に燃え上がるときも、冷静に判断を下せるときもあります。日本軍も悪いこともしたし、良いこともしたでしょう。いずれにしろ、人間はジキル博士とハイドのようなものです。善良な一面と悪辣な一面とを併せ持ちますから、悪から遠ざかるように努力することはできても悪と無縁な生活はあり得ません。それが人間の宿命なのです。
 ですから、イエス様の十字架での贖いの死が必要だったのです。人間であれ
ば罪から無縁な人はいません。イエス様は『情欲を抱いて女を見る者は心の中で姦淫をしたのである』と言われました。男なら誰でも姦淫の罪を犯したことになります。心の中で思うだけではこの世の法では裁かれませんが、神の律法によれば有罪なのですから、誰でも父なる神に対して負債を負っているのです。
 主の十字架での死は私たちの罪、負債を帳消しにしてくれるのです。神の御子キリストの贖い代は無限であり、人間の負債は有限だからです。天秤は御子の方に一方的に傾き、微動すらしないからです。神の相続人である私たちの贖い代は神の御子であり、神御自身でもあるのです。たとえ肉の欲望に負け、道を踏み外したとしても、悔い改めれば、主の十字架により罪が赦されるのです。
 神を『アッバ、父よ』と呼びかけられる私たちは神の子なのです。父なる神がキリストに注がれている愛が私たちにも注がれているのです。父親が不肖の息子を見捨て去らないように、父なる神も私たちを見捨て去ることはないのです。むしろ『アッバ』には父親に甘える幼児のような響きが感じられます。
 父なる神には豊饒の神々のような優しさが感じられないかもしれませんが、『アッバ』と言う呼びかけに応えられる神は正義と公正を求められる神であると共に恵み、慈しみを与えられる神でもあるのです。三位一体の神は親しく『アッバ』とも『我らの救い主イエス・キリスト』とも呼びかけられる神なのです。