2007/11/27

07/07/22 神の子とされる T

神の子とされる
2007/07/22
ローマの信徒への手紙8:18~25
新潟県中越沖地震は3年前の中越地震の教訓が生かされ、緊急体制が比較的早く敷かれましたが、インフラの復旧には課題を残しました。1000人の負傷者、1万人を超す被災者が避難所生活を強いられている現状には心が痛みます。
中越地震までは自衛隊に緊急出動を要請するのが政治的な意図から遅れましたが、緊急出動が直ちに行える体制に移行した成果が表れました。地震当日の夕食から自衛隊が給食任務に就いたのは初めてのケースではないでしょうか。
神戸震災の時にも自衛隊の活動には目覚ましいものがありましたが、政治的な判断が遅れ、緊急出動が遅れました。中越地震でも自衛隊の出動を要請するのに手間取りました。その点では国の危機管理が一歩前進したと思えました。
政府、自治体の支援体制が随分スムーズに行われるようになりましたが、東京電力の危機管理能力のなさには驚かされました。原電の事故隠しによる信用失墜が教訓として受け継がれておらず、危機管理体制の甘さが露見しました。
柏崎市から原電の運用停止を命じられたのは、原電の危機管理体制に対する不信任状です。原電と地元自治体との蜜月関係は事故隠しから綻び始めましたが、今回の地震により原電の設計にまで不審の目が向けられ、破綻しました。
原電から黒煙が2時間も上がり続ければ、地元の人たちの不安はいかばかりであったでしょうか。東電の首脳陣には地元住民を配慮する姿勢が見られず、お金次第でどうにでもなる人、地獄の沙汰も金次第と思っていたのでしょう。
原電の事故隠しでは東電は数千億単位の欠損を出したはずですし、プルサーマル計画も延期されました。今回の事故により原電は数年単位で稼働を停止せざるを得ないでしょうし、株主総会では経営責任を厳しく追及されるでしょう。
東電はコンプライアンスに構造的な問題を抱えています。独占事業に安住し、官僚主義が蔓延しているからです。経営陣自らが責任逃れ、問題の先送りをしているからです。事故隠しが発覚した時にも首脳陣が責任を回避したからです。
トップが責任をとらない組織は腐敗します。下は上を見習うからです。雪印乳業、日興證券でさえも市場から退場させられた時代にトップが平然と口を拭えるのは独占企業だからです。モラルハザードは社会保険庁と同じレベルです。
電力会社には原電を安全に稼働させる社会的な責任があります。一企業の利益よりも国益が優先するからです。独占が許されるのは国益に適う場合だけであり、独占を経営陣の保身、企業の利益追求に利用するのは許されません。
電力会社べったりの経産省もさすがに国民の目が気になったようです。参議院選の票の行方は政府の危機管理能力、東電に課するペナルティーに左右されるからです。電力会社の管理能力に対して国民は不信感を抱いているからです。
地球温暖化対策、炭酸ガスの排出量削減の切り札は原子力ですから、電力会社の管理能力の欠如は国家的、地球的な問題です。原電を海外に売り込んでいますが、維持管理のノーハウがなければ輸出できる目処も立たないからです。
 ユダヤ人は歴史を主の日を境にして二つの時代に分けて考えていました。現在生活している時代、今の時代は主の日、裁きの日に刷新され、新しい時代が始まると考えていたのです。預言者イザヤが『(創造主が)見よ、私は新しい天と新しい地を創造する』と預言してるからです。ユダヤ人、パウロには『現在の苦しみは将来、(主の日に)現わされるはずの栄光に比べると取るに足りない』と思えるのです。現在は罪、死、滅びが蔓延する世界ですが、主の日、終わりの日には世界が根底から揺り動かされ、罪の世界が打ち砕かれるのです。
 被造物、自然界も人間が神の子、神の家族の養子とされる時を切に待ち望んでいるのです。パウロはアポカロドキアというギリシア語を用いて、地平線上に太陽が昇ろうとする直前の曙光、最初の兆しを観察している人の姿を描き出しています。太陽の昇り始める直前まで暗黒が世界を支配しいるのですが、創造主は太陽、救い主イエス・キリストをこの世に遣わされることにより、暗黒の世界に太陽を昇らせ、暗黒の世界を白日に晒される世界に変えられたのです。
 アダムの犯した罪により『土は呪われるものとなった』のですが、創造主、唯一の神は被造物が滅びへの道から解放される日、自由に与れる日、神の子が栄光に輝く日を用意なされていたのです。被造物が今日まで共に呻き、共に産みの苦しみを味わっているように、霊の初穂をいただいている人間も神の子とされること、体が贖われることを心の中で呻きながら待ち望んでいるからです。
 パウロはユダヤ人の描く終わりの日のイメージをなぞりながらも、終わりの日以後のイメージが決定的に違うことを明らかにしています。ユダヤ人が待ち望んでいた救い主メシアはこの世の王、ダビデ王の再臨でした。ユダヤ人を武力によりローマの支配から解放する救い主メシアでした。ユダヤ人が中心となる世界、ユダヤ人の憧れ、ダビデ・ソロモン王朝を復興するメシアでした。
 ユダヤから預言者の声が絶えてから既に400年間が経ちました。ユダヤの支配者は次から次へと代わり、現在はローマの支配を受けています。ユダヤ人は日々の生活が苦しければ苦しいほどメシアを激しく待ち望んだのです。イエス様の時代にはメシア運動が盛んになり、自称メシアがローマに対しテロやゲリラを仕掛けたりしましたが、ローマの支配を打ち破ることはできませんでした。
 イエス様はメシアとして民衆の期待を集めました。民衆はイエス様こそユダヤ人をローマの支配から解放してくれる救い主、メシアだと思いましたが、十字架刑であっけなく死なれました。ユダヤ人には『木に掛けられた者は呪われよ』ですから、イエス様はメシアではあり得ませんでしたが、主を信じる者には主の十字架は罪の赦し、贖いの象徴でした。主は私たち人間の罪をその身に負って下さったからです。主は私たちの罪の身代わり、罪の贖いとして十字架刑を受けられたのです。イエス様の十字架により新しい世界が拓かれたのです。
 見えるもの、現実の世界に対する希望は主を信じる者の希望ではありません。私たちは主を信じることにより既に救われていますが、主が再び地上に来られる日、主が再臨なさる日、主の日には生ける主と顔と顔とを合わせることができるのです。私たちの希望はユダヤ人が待ち望んだようなメシア、この世の王にあるのではありません。永遠の命を与えてくださる生ける主にあるのです。
 「贖う」は「買い戻す」とも訳されます。ルツ記ではモアブ人のルツがユダヤ人、ナオミの息子の嫁となりましたが、ナオミは、夫、息子にも先立たれました。ナオミがユダに帰るのにルツもついて行きました。ナオミの夫の親戚ボアズがルツを「買い戻し」、嫁にしました。「ゴーエール」、「買い戻しの権利がある親類」は「贖い主」を意味します。権利のある親戚が失ったものを「買い戻す」、ボアズが夫が死んで寡婦であるルツの失った権利を買い戻し、妻としたのです。エジプトの奴隷の労役からユダヤ人を贖い出されたのが出エジプトの御業です。
 新約聖書では「買い戻す」に加えて「買い取る」と言う言葉も「贖う」と言う意味で使われています。神様が人間の罪を御子の命を贖い代、代金にして買い取られたのです。神様の贖い代は無限であり、人間の罪の贖い代は有限だからです。
 人間は神様の前では無罪であることを主張できません。アダムとエバが神様から食べるのを禁じられていた木の実、禁断の木の実を食べたのが人間の罪の始まり、原罪です。原罪は人間が神様に対して不従順な存在であることを示しています。人間は神様中心の世界よりも、自己中心の世界を求めるからです。
 人間が罪を自覚できなければ、主の十字架の意味も理解できません。病的に罪を自覚できない人もいますが、多くの人には罪を自覚する機会があると思います。キリスト教で罪と表現されるのは、この世の罪、六法全書に反する罪ではありません。神様と人間との関係を損なうのがキリスト教で言われる罪です。
 律法は神様の栄光を現すためにユダヤ人に与えられたものでした。唯一なる神、主がアブラハムを選び出し、アブラハムは主に従ったのです。アブラハムを祝福の基とされ、アブラハムの子孫、イスラエル民族、ユダヤ人を神の民とされたのです。唯一の神とユダヤ人との間に契約が結ばれたのです。唯一の神ヤーウェはユダヤ人を主に選ばれた民、選民なとされ、彼らの主となられたのです。ユダヤ人は主の民の徴として割礼、律法を守ることを主に誓ったのです。
 律法は主の民としての義務であり、律法の目的は主の栄光を現すことでしたが、ユダヤ人には律法を守ることが目的になり、主の栄光を軽んじるようになりました。律法を守ることが目的化し、律法が一人歩きを始めたのです。形式的な律法に囚われるユダヤ人は律法主義、形を変えた偶像礼拝に陥りました。
 預言者がユダヤから400年間途絶えた後にバプテスマのヨハネが登場しました。『悔い改めよ。天の国は近づいた』、民に悔い改めを迫り、悔い改めのバプテスマを施しました。ヨハネが捕らえられた後、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』、イエス様は福音を宣べ伝えられました。
 「悔い改める」とは180度方向転換することを意味します。自分の想いに従って歩んでいる方向を神様に向かって歩む方向へと180度方向転換することを悔い改める言います。自己中心の生活から神様中心の生活へと改めるのです。
 罪を悔い改めれば主が罪を負って下さります。ユダヤ人は犠牲を神様に献げることにより罪を贖おうとしましたが、犠牲は人間の罪を贖うだけの贖い代に相当しません。人間の方が犠牲よりも遙かに価値があるからですが、イエス様、神様の御子の血は人間とは比べものになりません。御子の血は何回も献げられる犠牲の血とは違い、たった一回だけ献げられれば必要にして十分なのです。
 日本人がキリスト者に感じる違和感は「罪」という概念でしょう。自らを罪人と表現するキリスト者を理解できないからです。日本人には煩悩、除夜の鐘で除去する百八の煩悩の方が分かりやすいでしょうが、煩悩と罪への誘惑は比較的近い意味を持つかもしれません。しかし罪は三位一体の神との関係が崩れることを意味しますから、仏教的な煩悩や悟りの世界とは根本的に異なります。
 日本人には道徳の方が馴染みやすでしょうが、日本的道徳観と西洋的な道徳観とは根本的に異なります。江戸時代は論語、戦前は修身が日本人の道徳感を育んできましたから、儒教、朱子学の「忠、孝」が日本的道徳の中核になります。時代遅れかも知れませんが、主君には忠、両親には孝が基準なのです。
 一方、キリスト者の基準は生ける主です。主の前で正しいか、正しくないかが判断の基準になります。西洋にも忠、孝に相当する徳目はありますが、絶対者はあくまでも生ける主です。教会の歴史を振り返れば、ローマ法王が主の代理人であった時代から、プロテスタント教会が宗教改革三原則『信仰のみ、聖書のみ、万人祭司』に立脚し、法王の権威を否定する時代へと変わりました。
 時代の流れと共に、プロテスタント教会の教派も盛衰を繰り返していますが、絶対者、生ける主を信じる点においては変わりません。キリストの十字架による贖いの死と復活の命を信じる点においては代々の教会は変わらないのです。この世での生活よりも永遠の命への希望に生きるのがクリスチャンだからです。 私たちは神の子、神の養子とされているのですから神の国の相続人なのです。『私たちの国籍は天にある』のです。地上での生活を無視するわけではありませんが、神の国を待ち望んで生きなくてはならないからです。『目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです』と奨められているからです。
 パウロは艱難に遭遇した人生を振り返りながら『艱難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み出す。そして希望は失望に終わることはない』と証しています。パウロの人生は人間の絶えうる限界を超えていたように思われますが、主にある楽観主義が彼を支えていました。パウロの視線の向こうにはいつも復活の主がおられました。現在の艱難は主の日に報われると確信していたのです。
 私たちもパウロのような主にある楽観主義を持ちましょう。一人一人が抱えている問題は様々ですが、主が再臨なされる日には神の子とされるからです。主は信仰を持たない家族も御許に招いてくださるでしょう。神の国では私たちはこの世の姿とは異なる姿をとるのでしょうが、時間、空間を超越した存在に変えられるのでしょう。安芸教会の西澤長老はダンテの神曲の翻訳本を出版されていますが、天国でダンテと話ができるのを楽しみにしておられるそうです。
 誰にでも死は公平に訪れます。死を迎える体勢を生きている間に整えておかなければなりません。死期を迎えている人にも不必要な延命治療を施し、一分一秒でも生き長らえさせるのが日本の医療システムだからです。延命治療を望まないことを書類に明記しておかなければ、緩和治療、尊厳死を迎えらません。
 私たちは神の国へ移される日を待ち望みながら、主から与えられた生を主に召された者に相応しく生きることが大切です。私たちには神の国をこの地上に拡げる義務がありますが、それに必要な行動力も主が与えられるからです。