2007/11/27

07/08/19 神の愛から引き離せない T

神の愛から引き離せない
2007/08/19
ローマの信徒への手紙8:31~39
 日本は62回目の敗戦記念日を迎えました。300万人以上の犠牲者の血で贖われた日本の平和は危機に瀕しています。戦後レジームからの脱却が平和憲法改正を意味するのならば、首相は歴史の教訓を学んでいないことになります。
 自衛権が国際法では認められていると主張されますが、自衛を宣言さえすれば戦争を合法化できるだけです。先の戦争も自衛戦争でしたから国際法違反ではありません。大使館のミスにより宣戦布告が遅れたのが国際法違反なのです。
 平和に対する罪、人道に対する罪はマッカーサーの指令に基づく事後法であり、当時は国際法違反ではありません。国際社会は戦争そのものを否定したことはありません。国連も安保理決議による武力制裁を認めているくらいです。
 世界平和は全く別の次元から追求されなくてはなりませんが、平和憲法を遵守すれば平和を保てるということではありません。国土を防衛できるだけの自衛力、自衛隊は必要なのですが、集団的自衛権は日本を戦争に巻き込みます。
 日本はアメリカの核の傘に守られていますが、日米同盟を集団自衛権行使まで発展させる必要はありません。日本を直接侵略できるのは中国、ロシアでしょうが、日本には資源がありませんから費用対効果を考えれば割に合いません。
 北朝鮮には不完全な核兵器しかありませんから、日本を攻撃することは不可能です。核ミサイルを完成させるだけの技術、国力もないと思われます。いずれにしろ仮想敵国が日本の防衛圏を侵して本土に上陸するのは不可能です。
 永世中立国スイスはハリネズミ戦法ですが、日本も世界有数の防衛力を備えていますから、自衛に専念すれば安全保障上の問題はありません。普通の国のようになるという主張は自衛戦争を認めることになり、むしろ危険です。
 戦争は人間を狂気の世界に引き込みますから、日本軍が働いた乱暴狼藉は事実でしょう。戦場では人間の脳は正常に機能しないからです。理性、知性を司る前頭葉が貧血状態を起こし、むき出しの本能に支配されてしまうからです。
 兵士だけではなく将校までも血に酔ってしまいます。大本営の参謀さえも正常な判断力を失いました。玉砕、神風特攻隊などで有為の人材を失わせました。国土が焦土と化す前、原爆が落とされる前に日本を降伏させられませんでした。
 日本にはヒットラーのような独裁者はいませんでした。戦況を把握していたのは天皇だけです。東条英機もアメリカが造り上げた虚像です。戦争責任を問われるだけの人間がいないのにも拘わらず戦争に突入し、国を滅ぼしたのです。
 アジアへの侵略は政府の不拡大宣言を無視した前線の司令官が訓令を無視し、暴走したからです。参謀本部は司令官を解任するのではなく、暴走を追認しました。泥縄式に戦線が拡大したのです。日本人の組織の持つ構造的な欠陥です。
 現在の官僚システムも同じ欠陥を抱えていますから、平和憲法の歯止めを失ったら同じ失敗を繰り返しかねません。憲法の制約に従い、国際貢献も後方支援に止めるべきですし、正当防衛以外の交戦が禁じられるくらいが適当です。
 パウロの私たちのために御子をさえ惜しまず死に渡された方とした表現は、ユダヤ人にイサクの奉献、アブラハムが息子イサクを犠牲として献げようとした場面を連想させました。イサクが神のために独り子すら惜しまなかったことを思い出させたのです。神の真実を具体的なイメージを用いて表現したのです。
 パウロは人を無罪とできるのは神だけですから、誰も私たちを裁くことはできません。私たちの信仰は十字架で死なれ、復活なされたキリストにありますから、裁き主はキリストであると主張しているのです。裁き主は神の右に座り、私たちのために執り成して下さいますから、人間は無罪とされるからです。
 34節は使徒信条と主の死、復活、神の右に座わるが同じですが、裁くが執り成すとされている点で異なります。初代教会の信仰は裁き主を罪を宣告する裁判官兼検察官の側面を強調していますが、パウロは罪を執り成す弁護者の側面を強調しています。パウロはキリストの無条件の愛を体験したからです。ダマスコ途上で彼の前に現れた復活の主はキリスト者を迫害してきたパウロの過去を問い質されませんでした。主はパウロの過去を赦されたのです。パウロはキリストを迫害する者からキリストを宣べ伝える者へと変えられたからです。
 パウロはファリサイ派のラビでしたから、律法により主の名を汚す者は石打の刑にしなければならないと確信していました。パウロは唯一の神の代理人、ラビとして裁判官の義務を果たしたのです。パウロが脅迫、殺害の息を弾ませながら主の弟子を探し求めていた姿は悪魔、サターンを連想させるものでしたが、主は赦されたのです。パウロはキリストの愛と恵みを体験したのです。
 艱難、苦悩、危険もキリストの愛から私たちを引き離すことはできないがパウロの信仰です。いかなる天変地異が起きたとしても、私たちはキリストと共に安らぐことができるからです。この世のいかなる災難も人をキリストから引き離すことはできません。むしろ私たちをキリストに近づけさせるからです。私たちはキリストと共に生き、キリストと共に死に、キリストと共に甦ります。キリスト者には死は終わりではなく、天国に至る永遠の命の始まりだからです。
 パウロは現在のもの、未来のものについて語っています。ユダヤ人も現在と来るべき時代とに分けて考えていますが、唯一の神が遣わされるメシアはユダヤ人中心の世界をこの世に実現する覇権者、力の王、ダビデ王の再来でした。
 その他(ヘテロス)は異なったという意味を持ちますから、パウロはローマ世界とは異なった世界が出現したとしても、あなた方は安全であり、神の愛に取り囲まれていると宣言しているのです。この手紙の書かれた直後、紀元70年にはエルサレムは陥落しました。エルサレム教会は地上から消滅したのです。
 パウロはエルサレム陥落を預言したのではありませんが、時代の動きには敏感でした。パウロの元には各地の教会から情報が集まっていたからです。パウロの伝道は信仰におおらかなローマ法によりユダヤ人の迫害から守られましたが、やがて教会にも逆風が吹くことをパウロは予想していたのでしょう。キリストの愛から引き離す艱難、苦難、危険は内なる世界、個人の問題に限定されるのではなく、外なる世界、教会の問題へと拡大していくからです。しかし、パウロは何ものも私たちを神の愛から引き離せないと宣言しているのです。
 ラビ、パウロは脅迫、殺害の息を弾ませながらキリスト者を探し求めていました。エルサレムでは飽きたらず、ダマスコへ向かいました。大祭司からダマスコの諸会堂にあてた委任状を持参していました。キリスト者を逮捕し、エルサレムに連行するためでした。パウロはユダヤ教原理主義のラビでした。大祭司公認のキリスト者狩りのリーダーでした。暴力を用いて主を迫害したのです。
 ところがダマスコに近づいた時、突然「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と呼びかける主の声を聞いたのです。パウロは目が見えなくなり、三日三晩暗闇の中を彷徨いました。アナニアがパウロの元へきますと、目から鱗が落ち、見えるようになりました。パウロは悔い改め、洗礼を受けましたが、アラビアに退きました。バルナバがパウロを捜しにタルソスまで行き、アンティオキア教会に呼び戻したのです。パウロは福音伝道者に変えられたのです。
 パウロは艱難、迫害、危険を経験しましたが、キリスト者に艱難、迫害、危険も与えてきたのです。キリストを迫害する立場から迫害されるキリスト者の姿を見てきたのです。いかなる迫害もキリスト者をキリストの愛から引き離すことができないのを体験したのです。大祭司の権威、権力もいと小さき者の信仰に対し、全く無力だったからです。殺害の息を弾ましていたパウロには見えなかった信仰の力でしたが、悔い改めの経験がパウロの目を開かせたのです。
 パウロが経験してきた艱難は私たちの想像を超えますが、パウロに迫害されたキリスト者の姿は想像できます。キリスト者は異端者でしたから、律法によれば石打の刑です。監禁、拷問、虐殺は日常茶飯事だったでしょうが、名もない信徒が信仰を守り通したのです。ユダヤ人のキリスト者に対する憎悪は律法に基づいています。異なる神を礼拝する者が民の中から出れば、唯一の主が怒られるからです。ローマに支配されていたユダヤ人は主が怒られていると感じていました。ユダヤ人は主の名を汚す者、異端者に敏感に反応したのでしょう。
 パウロはユダヤ人の理解できない世界、主の十字架と復活により開かれた永遠の命に至る世界を示したのです。ユダヤ人がメシアに求めたのはこの世の力、権力でしたが、キリストが示されたのは真実の愛と恵みでした。艱難、苦難、危険を乗り越えさせるのは力ではなく、愛と恵みであることを示したのです。
 現実の世界は力が支配していますが、未来の世界を支配するのは神の愛です。パウロは生まれる前から主に選ばれた人であったのでしょう。パウロはユダヤ人であると共にローマ市民でした。ローマとユダヤとの二重国籍者でしたし、バイリンガル、ギリシア語とヘブライ語の二カ国語を母国語としていました。エルサレムの高名なラビ、ガマリエルの門下生でした。キリスト者を迫害する時に見せたような類い希な行動力を備えていました。パウロの知性、理性、感性は突出していました。各地の教会を結びつけた統率力も傑出していました。
 しかしパウロが誇ったのは自らの弱さでした。パウロの肉体にはトゲが与えられていました。パウロはトゲが与える痛みを拷問台での痛みに例えていますが、サタンから彼が思い上がらないように送られた使いだと表現しています。パウロは拷問台で苦しみながらも信仰を証したキリスト者の姿を思い浮かべました。主がいわれた私の恵みはあなたに対して十分であるが理解できました。
 キリストの愛から私たちを引き離す力、艱難は個人の力に比べれば余りにも大きすぎます。パウロの奨めは異次元の世界での出来事のように思えます。私たちはマザーテレサやガンジーになれませんが、ユダヤ人から正義の人の称号を贈られたシンドラーにはなれるかもしれないと思いました。シンドラーはドイツの諜報員としてポーランドで働きました。食いしんぼーで女たらしの闇屋、ブローカーでした。ナチス党員の立場を利用してユダヤ人のホーロー工場をただ同然で手に入れ、ユダヤ人の熟練工を酷使し、生活用品を生産しました。
 ユダヤ人を搾取する典型的な事業家でしたが、ユダヤ人が迫害され、虐殺されるのを見ているうちにユダヤ人を救う側に回ったのです。カトリックの信者でしたが、信仰深い信徒でもありません。戦況が悪化し、ユダヤ人は強制収容所に収容されましたが、シンドラーは1200人のユダヤ人従業員を工場ごと故郷のチェコに移転させるのに成功しました。女性、子供が間違えてアウシュビッツに輸送されたのを救い出しました。賄賂を有効に使ったからです。シンドラーは聖人君主ではなく、英雄豪傑でもありません。むしろ闇の世界でしか生きられない人間でしたが、結果として多くのユダヤ人の命を救いました。事の成り行きに任せている内に引き返せられなくなったようにも感じられました。
 シンドラーにはユダヤ人は使い切れないような財産を生み出す玉手箱でした。最初は卵を産み出す鶏を殺させないようにしただけかもしれませんが、いつの間にか伝説上の人物になってしまったのです。彼の最初の決断はほんの小さな一歩だったかもしれませんが、一歩一歩の積み重ねが大きな差となったのです。
 私たちは平和で自由で物に溢れた日本に住んでいますから、殉教を求められるような事態に出会うとは思えません。日々の生活の中で主の愛と恵みを証しし続けることが求められるだけですから、私たちは主から冷たくもなく熱くもない。むしろ冷たいか熱いか、どちらかであった欲しいといわれかねません。
 私たちの信仰生活でもほんの小さな一歩が大切なのです。私たちはマザーテレサのようになる必要はないのです。マザーは聖職者、シスターですから、信徒とは根本的に違うのです。信徒には信徒の生活があるからです。平凡な日常の生活の中にこそ、主の福音、主の愛と恵みを証し続ける機会があるからです。
 あの人はどこか違うと思っていた人が後からクリスチャンだと分かったという話はよく耳にします。伝道を第一にする信徒もいれば、黙々と奉仕を続ける信徒もいるからですが、どちらも主の目には尊いのだと思われます。印象に残る証しができる人もいれば、印象に残らない証ししかできない人もいます。私たちの目は劇的な悔い改めに向けられがちですが、平凡も非凡の内なのです。
 主が与えられた賜物は様々なのです。弱さが賜物として生かされる人もいれば、強さが主の働き人として生かされる人もいるからです。与えられた賜物以上のことを望まず、与えられた賜物で満足するのも信仰です。主は必要な物を必ず与えておられるのですが、私たちがそれに気づかない場合が多いからです。
 私たちを神から引き離すのは私たち自身の貪りかも知れません。危機には身構えますが、欲望には抵抗しがたいからです。人は欠乏に苦しみますが、満たされ過ぎても我を忘れます。与えられた物に感謝して生きるのが信仰なのです。