2007/11/27

07/09/02 主の霊によって力に満ち M 

 2007年9月2日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
 主の霊によって力に満ち     ミカ書3章5-8節
讃美歌 83,370,186
堀眞知子牧師
2章において、律法の戒めに反して富を貪り、経済的力を持った者に対する神様の警告を語ったミカは、3章において、政治的指導者・宗教的指導者に対して、神様の警告を語ります。イスラエルは神の宝の民、神の聖なる民として、神様から選ばれた民でした。選ばれた民には契約が与えられ、使命が委ねられていました。人間的思い・欲望・罪が満ちている地上にあって、神様から与えられた律法を守り、神様を畏れ、神様の御心に従って歩み、神様の御栄光を世に現す使命です。ところがミカの時代、民を導くべき政治的指導者・宗教的指導者が、律法の戒めに反していました。
3章は「私は言った」という言葉で始まります。ミカを通して神様が語られた言葉を、そのままに記しています。「私は言った」神様はイスラエルの指導者に対し「私は言ったではないか」と念を押すように語られています。イスラエルの歴史において、神様は絶えず語られました。モーセを通して「十戒」を与えた時、カナン入国を前にしてモーセを通して律法の説き明かしをした時、イスラエルが預言者サムエルに対して王を求めた時、またエリヤを初めとする多くの預言者を通して、神様は絶えず語られました。時に応じて警告も与えましたが、今や指導者は律法に従おうとしません。従おうとしないばかりか、掟を破っていることに気付かなければ、そのことに罪の意識も感じていません。神様は語ります。「聞け、ヤコブの頭たち、イスラエルの家の指導者達よ。正義を知ることが、お前たちの務めではないのか」イスラエルを指導する者の務めは、正義を知ることでした。ここで言われている「正義」は「人として行うべき正しい道義」という意味ではありません。神様の望まれる、神様が求められる「義」です。口語訳聖書では、1,8,9節の「正義」は「公義」と訳されています。アモス書5章の「町の門で正義を貫け」と同じ言葉が使われており、ここも口語訳聖書では「門で公義を立てよ」と訳されています。この「公義」という言葉が、日本語にはもともとありませんので「正義」と訳されていますが、人間の正義ではありません。あくまでも、神様が「義」とされることであり、ヘブライ語では「裁き、掟」という意味もあります。神様の「裁き、掟」であって、人間の思いや道徳ではありません。神様は指導者に「公義を知ることが、お前たちの務めではないのか」と問い掛けていますが、それは「公義を知れ」という御命令です。以前にも申しましたように、ヘブライ語で「知る」というのは、単に知識として知ることではありません。知識として知り、経験として知り、行うことを意味しています。神様の義を行うことが求められています。
けれども、ミカの時代の政治的指導者は、善を憎み、悪を愛し、人々の皮をはぎ、骨から肉をそぎ取っていました。ここでも善と悪は、神様が善とすることであり、悪とすることです。政治的指導者は、公義に反する行動を取っていました。「我が民の肉を食らい、皮をはぎ取り、骨を解体して、鍋の中身のように、釜の中の肉のように砕く」と記されているように、イスラエルの貧しい者を虐げていました。政治的指導者が経済的力を持ち、社会的弱者を虐げるという現象は、当時の国のあり方からすれば珍しいことではありません。むしろ、きわめて普通の現象でした。けれどもイスラエルは別でした。神様の民として、この世の常識に従ってはいけません。申命記17章において、神様は命じられました。「あなたが、神の与えられる土地に入って、そこに住むようになり『周囲のすべての国々と同様、私を治める王を立てよう』と言うならば、必ず、神が選ばれる者を王としなさい。同胞の中からあなたを治める王を立てなさい。王は馬を増やしてはならない。王は大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならない。銀や金を大量に蓄えてはならない。彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない」この戒めは、王だけではなく指導者すべてに求められていますが、彼らは逆の道を歩んでいました。またダビデが全イスラエルの王となった時、イスラエルの全部族は彼のもとに来て「我が民イスラエルを牧するのはあなただ」と言いました。イスラエルの指導者は、民の羊飼いでしたが、ミカの時代の指導者は悪い羊飼いでした。羊を守るのではなく、羊を虐げ、羊を食べていました。ゆえに神様の裁きの言葉が語られます。「今や、彼らが主に助けを叫び求めても、主は答えられない。その時、主は御顔を隠される、彼らの行いが悪いからである」律法の戒めに反しているにもかかわらず、指導者は裁きが下ると、神様に助けを求めていたようです。彼らは神様の義に従うのではなく、自分の正義のために神様を利用していました。しかも、そのことに気付いていませんでした。彼らは神の民としての選びを信じ、誇りに思いつつも、その使命に生きることなく、いや、使命を果たしていないことに気付いてさえいなかったのです。
宗教的指導者である預言者も同じでした。ミカは語ります。「我が民を迷わす預言者達に対して、主はこう言われる」神様は預言者を「我が民を迷わす預言者」と言われました。申命記18章に記されていたように、カナンに入るにあたって、神様は預言者を立てる約束をされ、また真の預言者と偽預言者を見分ける方法を語られました。「私は彼らのために、同胞の中から預言者を立てる。彼は私が命じることをすべて彼らに告げる。彼が私の名によって私の言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、私はその責任を追及する。ただし、その預言者が私の命じていないことを、勝手に私の名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない。その預言者が私の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは私が語ったものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない」ミカの時代、政治的指導者と共に、社会的弱者を虐げる偽預言者がいました。彼らはイスラエルを迷わせていました。「彼らは歯で何かをかんでいる間は、平和を告げるが、その口に何も与えない人には、戦争を宣言する」と記されているように、多くの謝礼金をささげる者には祝福を告げ、十分な謝礼金をささげることができない者には災いを告げました。人々が祝福を望み、災いを望まないという心理を利用して、金銭によって語る言葉を変えました。神様の御名によって、自分勝手に語りました。ゆえに神様の裁きの言葉が語られます。「お前たちには夜が臨んでも、幻はなく、暗闇が臨んでも、託宣は与えられない。預言者達には、太陽が沈んで昼も暗くなる。先見者はうろたえ、託宣を告げる者は恥をかき、皆、口ひげを覆う。神が答えられないからだ」かつて神様が夜、幻の中でアブラハムに「恐れるな、アブラハムよ、私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」と語られたように、イスラエルおいて神様は夜、幻の中で御言葉を語られました。また預言者イザヤ、ハバクク、ナホムが「幻で示された託宣」と語っているように、神様は暗闇の中で託宣を与えられました。けれども自分の思いで預言を、正確に言えば預言ではありませんが、預言者のごとく語っている者には、神様の御言葉は与えられません。本当に夜が臨み、暗黒が臨み、昼も暗くなる、そういうイスラエルにとって暗黒の時代が訪れた時、神様は何も語られません。偽預言者は、多くの謝礼金を積まれても、何も語ることができません。口ひげを覆うという動作は、悲しみと絶望を表すものです。彼らは絶望の淵に落とされます。
このような偽預言者ではなく「私は彼らのために、同胞の中から預言者を立てる。彼は私が命じることをすべて彼らに告げる」という、神様の約束に基づいて立てられた預言者であるミカは語ります。「しかし、私は力と主の霊、正義と勇気に満ち、ヤコブに咎を、イスラエルに罪を告げる」原文でも「しかし、私は」という言葉が強調されています。偽預言者ではない、真の預言者である私は告げる、というミカの立場と姿勢が明らかにされています。金銭に動かされることもなく、世の権力者におもねることもなく、ただ神様から委ねられた御言葉をミカは語ります。それは、イスラエルを喜ばせる言葉でもなければ、安心感を与える言葉でもありません。時代的に言えば、北イスラエルがアッシリアに滅ぼされ、南ユダもアッシリアの攻撃を受けようとしていました。いわば危機の中にあって、ミカは神様の御言葉を語ります。「ヤコブに咎を、イスラエルに罪を告げる」と記されているように、平和を告げる言葉ではなく、イスラエルの罪を宣告する言葉でした。「力と主の霊、正義と勇気に満ち」という箇所は、口語訳聖書では「主の御霊によって力に満ち、公義と勇気とに満たされ」と訳されています。こちらの方が、預言者ミカの立場と姿勢、民から嫌われる言葉をあえて告げざるを得ない、しかし語ることができるミカの力の源を、より明らかにしています。神様の厳しい言葉をミカは「主の御霊によって力に満ち、公義と勇気とに満たされ」ることによって、語ることができました。主の御霊によって力に満ち、公義と勇気とに満たされたミカは語ります。「聞け、このことを。ヤコブの家の頭たち、イスラエルの家の指導者達よ」政治的指導者、宗教的指導者に向かって、ミカは語ります。彼らは「正義を忌み嫌い、まっすぐなものを曲げ、流血をもってシオンを、不正をもってエルサレムを建てる者達」でした。律法に聞き従わず、自らの欲望を満たすために公義を曲げ、圧政や過重な債務の取り立てなどによって、社会的弱者を虐げていました。一部の有力者、富裕な者の繁栄の陰に、多くの貧しい人々の血が流され、神の平和の町であるべきエルサレムが、不正の上に建てられていました。「頭たちは賄賂を取って裁判をし、祭司たちは代価を取って教え、預言者達は金を取って託宣を告げる」公正であるべき裁判が賄賂によって行われ、宗教的指導者である祭司も預言者も、金銭によって動いていました。そのように律法に背き、不正を行いながらも、彼らは神様を頼りにしていました。自分自身を敬虔な信仰者だと思っていました。彼らは言いました。「主が我らの中におられるではないか、災いが我々に及ぶことはない」と。彼らは「自分達は神様から選ばれた民であり、自分達の中にこそ神様がおられる。だから災いが自分達に及ぶことはない」と考えていました。おそらく不正に受け取った利益を神殿にささげ、それをもって自らの信仰を善と見なしていたのでしょう。
偽善者である指導者に向かって、ミカは神様の裁きを告げました。「それゆえ、お前たちのゆえに、シオンは耕されて畑となり、エルサレムは石塚に変わり、神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる」エルサレムが、アッシリアに滅ばされたサマリアのようになることが告げられました。この神様の裁きを聞いた時、南ユダの王ヒゼキヤとユダの民は、神様に立ち帰りました。エレミヤ書26章には、預言者エレミヤの言葉を聞いた長老が「モレシェトの人ミカはユダの王ヒゼキヤの時代に、ユダのすべての民に預言して言った。『万軍の主はこう言われる。シオンは耕されて畑となり、エルサレムは石塚に変わり、神殿の山は木の生い茂る丘となる』と。ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人々は、彼を殺したであろうか。主を畏れ、その恵みを祈り求めたので、主は彼らに告げた災いを思い直されたではないか」と、民の全会衆に向かって言ったことが記されています。列王記下18章に、ヒゼキヤは「父祖ダビデが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行い、主に寄り頼んだ」と記されていましたが、おそらく預言者ミカの言葉を聞くことによって、彼は神様を畏れ、父アハズの道を離れ、神様の恵みを祈り求める者へと変えられたと考えられます。結果としてヒゼキヤの時代、南ユダ王国はアッシリアの攻撃を受けながらも滅びることなく、立ち続けることができました。この事実は100年後のエレミヤの時代にまで、しっかりと語り継がれていたのです。
そしてイスラエルが神の宝の民、神の聖なる民であったように、私達キリスト者も神の宝の民、神の聖なる民として、神様から選ばれた民であり、教会は神様から選ばれた者の群れです。選ばれた群れとして、私達には主イエス・キリストの血によって立てられた新しい契約が与えられ、使命が委ねられています。人間的思い・欲望・罪が満ちている地上にあって、神様から与えられた契約の中に生き、神様を畏れ、神様の御心に従って歩み、神様の御栄光を世に現す使命です。人間的な思いからすれば、その使命に生きる道は、決して容易な道ではありません。けれどもミカがそうであったように、私達は「主の御霊によって力に満ち、公義と勇気とに満たされた」群れです。さらにミカの時代とは異なり、私達には、神様の御言葉を記した聖書が与えられ、神様の御言葉そのものである主イエス・キリストが明らかにされています。
最後の晩餐の後、イエス様はペトロに「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、私はあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟達を力付けてやりなさい」と言われました。するとペトロは「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と答えました。それに対しイエス様は「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、3度、私を知らないと言うだろう」と言われました。その御言葉どおり、大祭司の中庭で、女中を初めとして3人の者から「お前もあの連中の仲間だ」と言われた時、ペトロは3度「いや、そうではない」と否定しました。3度目の否定が終わらないうちに、鶏が鳴きました。イエス様は振り向いてペトロを見つめられ、彼は、イエス様の言葉を思い出して、激しく泣きました。そのようにイエス様を否定したペトロでしたが、主イエスが復活されて50日目、主イエスが約束された聖霊が、弟子達の群れに降り、聖霊に満たされた時、彼は他の弟子達と共に立って、声を張り上げて「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。私の言葉に耳を傾けて下さい」と話し始めました。そして「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」と証することができました。ペトロも、主の御霊によって力に満ち、公義と勇気とに満たされて、主イエスを証することができました。同じ主の御霊が、私達の上にも働かれています。「イエスは主なり」2000年前から証され続けてきた、この真実を現代にあって証する群れとして、この瀬戸キリスト教会の歩みを整えていただきましょう。