2006/10/30

06/1015 新しい生命の約束 M

2006年10月15日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
新しい生命の約束     アモス書9章11_15節
讃美歌 11,495,504
堀眞知子牧師
アモス書最後の章は第5の、そして最後の幻から始まります。それはアモスが、祭壇の傍らに立っておられる神様を見たことから始まります。第1?第4の幻と異なり、アモスは神様御自身を見ました。さらにアモスの目に訴えるのではなく、神様御自身が語られ、アモスへの問い掛けはありません。これまでは裁きが不可避であることをアモスに示されましたが、ここでは神様は破滅を宣告します。「柱頭を打ち、敷石を揺り動かせ。すべての者の頭上で砕け。生き残った者は、私が剣で殺す。彼らのうちに逃れうる者はない。逃れて、生き延びる者は一人もない」1章に「あの地震の2年前に」と記されていましたが、この神様の言葉は、地震を予言しているかのようにも受け取れます。正しい礼拝がささげられていない北イスラエルの神殿、その建物全体が崩れ落ちます。破滅は神殿から始まります。神殿に詣でていた人々の頭上に、屋根が崩れ落ち、倒れた建物の破片が落ちてきて、彼らは建物の下敷きになります。かろうじて逃れ出て生き残った者は、神様御自身が剣で殺すと言われています。誰一人として、神様の裁きの手から逃れる者はいません。
さらに神様は、追及の手をゆるめません。「たとえ、彼らが陰府に潜り込んでも、私は、そこからこの手で引き出す。たとえ天に上っても、私は、そこから引き下ろす」陰府は死者がいる所で、地下深い所と考えられていました。天は神様がおられる所です。人間の手が届かない場所です。イスラエルが、そのような場所へ避難したとしても、神様は必ず見つけ出して、裁きをなされます。「たとえ、カルメルの頂に身を隠しても、私は、そこから探し出して連れ出す。たとえ、私の目を逃れて、海の底に隠れても、そこで、蛇に命じてかませる」カルメル山は、北イスラエルの北西に位置し、地中海へ突き出るような頂です。かつて、エリヤがバアルの預言者と戦った場所です。カルメルの頂には洞穴が多くあり、人が隠れやすい場所でした。カルメル山は500メートルくらいの山ですから、決して高い山ではありません。けれども周囲は平原で、西は地中海でしたから、実際よりは高く見えたようです。カルメル山の洞穴に隠れても、神様は必ず探し出されるし、海の底に隠れても、海に住む蛇にかませるようにする。神様の罰から逃れることはできません。「たとえ捕らわれ、敵の前に連れて行かれても、そこで、剣に命じて殺させる。私は彼らの上に目を注ぐ。それは災いのためであって、幸いのためではない」当時の北イスラエルは、ヤロブアム2世のもと、経済的に繁栄し、領土も拡張していました。アッシリアによるサマリア陥落まで40年もありませんが、アッシリア捕囚など、全く考えられない状況の中にありました。そのような中で、神様はイスラエルが捕らわれて、敵の前に連れて行かれても、と裁きの言葉を語られています。かつて神様は、ヤコブに「あなたがどこへ行っても、私はあなたを守る」と約束されました。その神様が「私は彼らの上に目を注ぐ」と言われました。けれども、それは幸いのためではなく、災いのためです。神様に背いたイスラエルが、どこへ隠れても、約束の地カナンから離れても、目を注いで、罪に対する裁きを下す、と神様は宣言されました。
イスラエルに目を注ぎ、必ず裁きを下される神様を、アモスはほめたたえます。「万軍の神なる主。主が大地に触れられると、地は揺れ動き、そこに住む者は皆、嘆き悲しむ。大地はことごとくナイル川のように盛り上がり、エジプトの大河のように沈む。天に高殿を設け、地の上に大空を据え、海の水を呼び集め、地の面に注がれる方。その御名は主」神様が大地に触れるだけで、自然も人間も動揺します。神様は、人々が嘆き悲しむような災害をもたらされる御方です。創造主である神様は、天地万物を支配される御方です。アモスは、自然のすべてに及ぶ神様の御力をほめたたえます。神様は自然界を自由に治める御方です。
そのような御力を持った神様が、イスラエルを選ばれました。申命記7章において、神様はモーセを通して「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」と言われました。神様は地上の全部族の中から、特別にイスラエルを選ばれました。御自分の民とされました。その神様が「イスラエルの人々よ。私にとってお前たちは、クシュの人々と変わりがないではないか」と言われました。クシュとはエチオピアのことです。当時のイスラエルにとっては、はるかな遠い国です。そのクシュとイスラエルが、神様にとって何の変わりもないと言われました。諸国民は、すべて神様の御支配と御計画のもとにあります。神様の前には何の変わりもない。それは自らを神様の民と自負しているイスラエルにとって、受け入れることのできる言葉ではありませんでした。
しかも続けて、神様は「私はイスラエルをエジプトの地から、ペリシテ人をカフトルから、アラム人をキルから、導き上ったではないか」と言われました。神様がイスラエルをエジプトの奴隷状態から救い出し、約束の地カナンまで導かれたできごとは、イスラエルにとって重要な歴史です。出エジプトの歴史の中で、イスラエルは生ける神様を実体験として知り、かつ神様の民として「十戒」を与えられました。出エジプトのできごとは、神様がイスラエルの神様であり、イスラエルが神様の民であり、彼らが神様と契約関係の中に生かされていることの証でした。ところが神様は、ペリシテ人やアラム人を導き上ったことと、出エジプトのできごとは同じだと言われました。ペリシテは、イスラエルがカナンに入った時からの敵でした。アラムは、イスラエル王国が成立した頃からの敵でした。イスラエルに敵対するペリシテとアラムも、同じように神様が導き上ったと言われたのです。この言葉は、イスラエルに衝撃を与えたでしょう。神の民としての誇りを傷つけられ、アモスに対する怒りは激しくなったと考えられます。イスラエルは、大きな勘違いをしていました。神様がイスラエルを選ばれた、そこには特別な使命があったからです。イスラエルは神様の民として、日々の生活の中で神様に仕え、神様を証していかなければなりませんでした。イスラエルに対する神様の恵みの根拠は神の選びにありますが、イスラエルが信仰をもって応えなければ意味を失います。選びは特権意識の根拠ではありません。けれども彼らは、誤った認識に囚われ、神様への正しい礼拝を忘れ去っていました。神様を知らされた民が、それにふさわしい歩みをしない時、神様の裁きは厳しいものとなります。
北イスラエルの滅亡が宣告されます。「見よ、主なる神は罪に染まった王国に目を向け、これを地の面から絶たれる」しかし、同時に神様は「これを地の面から絶たれる」という言葉を打ち消すかのように言われます。「ただし、私はヤコブの家を全滅させはしないと、主は言われる。見よ、私は命令を下し、イスラエルの家を諸国民の間でふるいにかける。ふるいにかけても、小石ひとつ地に落ちないように。我が民の中で罪ある者は皆、剣で死ぬ。彼らは、災いは我々に及ばず、近づくこともない、と言っている」神様は、イスラエルをふるいにかけると言われました。ふるいは粗い網目で作られていて、小石などはふるいに残りますが、麦などの穀物は下に落とされます。「ヤコブの家を全滅させはしない」と約束された神様は、残りの民を備えられます。神様はイスラエルを裁かれます。そして罪に対しては厳しい罰を下されますが、必ず「残りの民」が備えられています。地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている時も、神様に従う無垢な人ノアを通して、人間を救われました。ソドムとゴモラの罪が非常に重かった時も、ロトとその家族を救われました。預言者エリヤの時代、北イスラエルがアハブの妻イゼベルの影響を受けて、バアル信仰に陥った時も、バアルにひざまずかなかった7000人を残されました。
神様はイスラエルをふるいにかけ、滅ぶべき罪人に対しては「これを地の面から絶たれ」ますが「ヤコブの家を全滅させはしない」という約束に基づいて、回復と祝福の預言が語られます。今、お読みいただいた箇所です。「その日」とは、神様が宣言されたことが起こる日、イスラエル王国が回復する日です。その日には神様は「ダビデの倒れた仮庵を復興し、その破れを修復し、廃虚を復興して、昔の日のように建て直す」と約束されました。仮庵とは、一時的な住まいのことであり「ダビデの倒れた仮庵」とは、滅亡した南ユダ王国を指しています。繰り返しますが、アモスが預言者として召された時、北イスラエルの滅亡まで40年もありませんでした。けれども南ユダ滅亡までは、170年以上の時がありました。以前にも申しましたが、アモスが預言者として召された時、アッシリアは無力な王のために一時的に衰退しており、北イスラエルと南ユダは領土を拡張し、経済的に豊かな時代でした。自分達の国が滅亡するなど、誰も想像しない中にあって、アモスは両王国の滅亡、そしてダビデ王国の回復を語りました。ダビデ王国の回復は、人間の業ではなく、神様の御業としてなされます。そして領土が回復されます。
神様の厳しい裁きの後に、再建の日が語られています。新しい生命の息吹が約束されています。再建されたダビデ王国の情景を、神様はアモスを通して語られます。「見よ、その日が来れば、耕す者は、刈り入れる者に続き、ぶどうを踏む者は、種蒔く者に続く。山々はぶどうの汁を滴らせ、すべての丘は溶けて流れる。私は、我が民イスラエルの繁栄を回復する。彼らは荒らされた町を建て直して住み、ぶどう畑を作って、ぶどう酒を飲み、園を造って、実りを食べる。私は彼らをその土地に植え付ける。私が与えた地から、再び彼らが引き抜かれることは決してない」穀物の実りが豊かにあって、収穫が終わらないうちに、次の種蒔きのために畑を耕す仕事が始まります。ぶどうの収穫も豊かにあって、収穫したぶどうを酒槽に入れて踏み終わらないうちに、次の種を蒔く仕事が始まります。ぶどう畑のある山々には、ぶどう酒を造るための酒槽が置かれていますが、あまりにも収穫が豊かで、できあがったぶどう酒が流れ出て、その流れ出たぶどう酒があまりにも多くて、ぶどう酒で丘が溶けて流れるほどであると言われています。
神様が御自分の民である、イスラエルを回復されます。イスラエルに対する怒りの代わりに、神様の憐れみと祝福が与えられます。捕囚から帰還した民が、バビロンによって荒らされたエルサレムの町を建て直し、そこに住むことができます。約束の地カナンに永住し、自分が種を蒔いた収穫物を食べ、飲むことができます。神様が、約束の地カナンにイスラエルを定住させるから、もう引き抜かれることはありません。最後にアモスは「あなたの神なる主は言われる」と断言します。イスラエルに回復と祝福、そして新しい生命の約束を与えて下さるのは「あなたの神なる主」です。「あなたの神なる主」他の神々ではない、人間でもない、唯一なる神様が、イスラエルに新しい生命を与えて下さいます。さらにイスラエルに留まるのではありません。「エドムの生き残りの者と、我が名をもって呼ばれるすべての国」と語られているように、あらゆる民族が、神様の御支配のもとに置かれ、救いの希望が与えられ、新しい生命の約束が与えられます。
使徒言行録15章には「エルサレムの使徒会議」が記されています。異邦人が主イエスを信じるようになった時、ある人々が「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ救われない」と教えていました。それに対してパウロやバルナバが反論したのです。この問題を巡って、最初の使徒会議が開かれました。ファリサイ派からキリスト者になった人々は「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と主張しましたが、ペトロは「私達は、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」と言いました。そしてパウロとバルナバは、自分達を通して神様が異邦人の間で行われた、あらゆる徴と不思議な業について話しました。これらを聞いていたヤコブが、今日の11,12節を引用して、神様はイスラエルを通して異邦人を召されることを語りました。
 アモスは、北イスラエルに対する裁きを語る預言者として召し出されましたが、最後に神様の救いの約束を語りました。新しい生命の約束を語りました。それはイスラエルに留まらず、イスラエルを通して異邦人に及ぶことを預言していたのです。人間に対する新しい生命の約束は、神様に背いている北イスラエルへの裁きと共に語られました。新しい生命の約束と、罪に対する裁き。神様は御独り子イエス様を地上に遣わされ、十字架の死と御復活によって、約束を成就されました。主イエスによってのみ、この約束は完全に成就されたのです。神様は罪を黙認される御方ではありません。神様は義なる御方であり、罪は罪として刑罰を与える御方です。同時に御自分にかたどり、御自分に似せて創造された人間を愛し、救われる御方です。
 私達は、すでに新しい生命の約束の中に生かされています。私達の知恵とか力とか努力によるのではなく、主イエスの御業によって、約束の中に生きる者とされました。なぜ、私達が召し出されたのか、選ばれたのか、その理由は分かりません。確実なのは、私達の側に理由があるのではなく、神様の一方的な恵みによるということです。この恵みに感謝すると共に、この地にあって先に召し出された者として、与えられた使命に生きる者とならせていただきましょう。選ばれたことを自分の力として誇るのではなく、ただ神様の恵みによって選ばれた、その事実の前に謙虚な思いをもって、日々の生活を送らせていただきましょう。そして私達の信仰生活が家族への、友人への証の生活となるように、神様によって豊かに用いていただきましょう。