2006/10/30

06/10/22 神の恵みにより義とされる T

神の恵みにより義とされる
2006/10/22
ローマの信徒への手紙3:21_26
 根津医師が祖母が実の娘の代理母になり、孫を出産したと発表しました。50歳代の祖母は既に閉経していましたが、治療により子宮の機能を回復させたそうです。30歳代の娘と夫との体外受精卵を祖母の子宮に戻し、出産させました。
 根津医師は過去にも体外受精卵の「着床前診断」など生命倫理に問題のある治療を産婦人科学会にも図らず行ってきた前歴があります。彼は最先端の生殖医療を積極的に取り入れることが、患者の利益になると考えている産婦人科医です。
 根津医師は確信犯ですから、彼と生命倫理を議論しても無意味でしょう。彼は医師免許を所持し続ける限り、より高度の生殖医療技術を取り入れた手術をし続けるでしょう。彼のクリニックを尋ねる患者もなくなることはないでしょう。
 医師が患者の求めであればどのような治療をしても構わないのならば、医師は単なる技術者に堕落してしまったと言えます。売買された腎臓の移植手術を求められるままに施し、臓器売買も時には必要だといった医師と同じレベルです。
 生殖医療は加速度的に進歩しています。原理的には精母細胞と卵母細胞さえあれば、それらを基にして精子と卵子を創り、体外受精させれば受精卵ができます。受精卵から胚を創り、人工子宮で育てれば、赤ちゃんまで育てることは可能です。
 SFで描かれている未来社会が現実となる可能性があります。赤ちゃんは工場で出産されるので少子化は克服されます。総てが計画的にコントロールされる世界ですが、その様な世界に人間が果たして適応できるかが先ず問題になります。
 「赤ちゃんは天からの授かり物」というのが日本人の生命観です。人間が顕微鏡下で精子を卵子に受精させ受精卵を創ることからして日本人の生命観に反します。さらに赤ちゃんを工場で育てる発想は日本人の生命観とは相反します。
 キリスト教的な倫理観からすれば、生命の主は人間ではなく神様ですから、西欧諸国では生殖医療に厳しい制限が加えられています。向井さんがアメリカで代理母により双子を得ることができましたが、州により法律が違うからです。
 人間は自然に不用意に手を加えると環境破壊が起き、人類の存続にも拘わることを学びましたが、生命に手を加えることは人間社会を破壊する一歩に繋がりかねません。科学技術は必ずしも人類に幸せをもたらすとは限らないからです。
 人間の自然を従わせるという使命感が、結果として環境破壊を起こしたのです。産婦人科医の子供に恵まれない夫婦に自分たちの血を引いた子供を授けたいと思う善意、使命感が、結果として人類を破滅に導く可能性が高いのです。
 生殖医療を人間の善意、使命感で判断してはならないのです。自分の遺伝子を残したいのは生物としての本能ですが、人間は養子を迎えることもできます。子供を欲しい夫婦の要求を社会が無制限に許容するのは根本的に間違っています。
 生命倫理の確立は現代文明が環境破壊を引き起こした過ちを繰り返さないためにも必要なのです。無原則な生殖医療の普及は社会を根底の部分から破壊するかも知れないからです。厚労省は世論に迎合し、政策判断を誤ってはなりません。
 パウロは神の義、正しさは律法の世界ではなく、福音の世界に表されるていると主張しています。律法は人間に何が罪であるかを自覚させるために必要ですが、人間には律法を守り抜く力はありませんでした。ユダヤ人は律法を守れば救われると考えていましたが、それが不可能であることを歴史が証明しています。
 しかし、律法と預言者、旧約聖書によって証しされた神の義、イエス・キリストを信じる者総てに与えられた神の義が、神様の方から一方的に人間に与えられたのです。神の義はユダヤ人とギリシア人、異邦人、総ての国民との間に何の差別を設けることなくイエス・キリストを信じる者に者総てに与えられたのです。
 人間は皆、罪を犯してしまいます。ユダヤ人は律法を遵守する生活を送ろうとしましたが、むしろ形式的な律法、ミシュナ、細則に囚われてしまい、神様の御心から離れた生活を送るようになりました。イエス様が『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。』と言われたように、律法や安息日を形式的に守ることには熱心でしたが、神様の御心を蔑ろにしていました。
 神様は義なる御方、正しい御方なのです。神様の前に立てるのは義なる人間、正しい人間のみですが、人間は義、正しい存在ではあり得ないのです。それなのに人間は神様の前に立つことが赦されているのは、イエス・キリストによる贖いの業を通したからなのです。神様の恵みにより無償で義、正しいとされるのです。
 イエス様は私たちの罪をその身に負って十字架に付かれました。イエス様の十字架での贖いの死は私たちの身代わりに受けられた死なのです。私たちは神様の前では有罪でしかないからです。イエス様の側には十字架での死を受ける理由はありませんでしたが、私たちを神様の前に立たすために受けられた死なのです。
 イエス様の十字架での死は人間の努力に対する神様からの褒美ではありません。人間の側には十字架での死に相応しい行いなどはあり得ないからです。主の十字架は神様の一方的な恵みでしかないのです。神様は人間の罪を償う供え物を自ら人間に与えて下さったのです。神様の前に立ち得ない人間、罪を犯し続けてきた人間の罪を見逃すために和解の供え物を自ら用意して下さったのです。さらにイエス様の十字架での血潮は、神様の祭壇に振りかけられる犠牲の血なのです。
 神様はアブラハムを召し出されてから、イスラエル民族、ユダヤ人を見守られていました。イスラエルの民の歴史は神様から離れる、預言者が悔い改めを迫る、神様に立ち帰る、また神様から離れるの連続でした。1000年の間、神様は忍耐なされていたのですが、ダビデ・ソロモン王朝がイスラエルを統一しました。エルサレム神殿が建てられましたが、再び混乱に陥り、南北に分裂しました。
 預言者が預言していたメシア、救い主はダビデ王から1000年後、ローマの平和が続く時代、世界伝道に最も相応しい時代を選びこの世に遣わされたのです。総ての道がローマに通じる時代こそメシアの誕生に相応しい時代でした。神様はダビデの子孫、ナザレのイエスをメシア、救い主として遣わされたのです。
 主の福音はエルサレムからローマ帝国内に張り巡らされたハイウェイ、道路網に沿って広がっていきました。主の教会が帝国内に広がり『イエスは主である』と告白する信徒が増えてきました。神様は義なる方、正しい御方であることを明らかになされたのです。生ける主を信じる者を義、正しいとなさるためです。
 ユダヤ人は神様の前では義なる者、正しい者であろうとしました。彼らの規範は割礼と律法の遵守でした。割礼はユダヤの男性としての徴でした。割礼は律法を規範として生活していることの徴でもありました。ユダヤ人は離散の民として全世界に移り住みました。紀元70年、エルサレムが陥落してからイスラエル共和国独立までの2000年間、ユダヤ人には故国がありませんでした。2000年間の間にユダヤ人は全世界の人々と血が混じりましたが、ユダヤの女性は子供を産むと7日目には割礼を受けさせました。割礼がユダヤ人である徴となったのです。
 律法は神様とユダヤ人との間の契約です。唯一の主、ヤーウェがイスラエル民族、ユダヤ人の主となり、ユダヤ人が主の民となる条件として律法を守ることを誓約したのです。ユダヤ人は律法に忠実であろうとしました。「主の名を妄りに唱えてはならない」を守り、主の名を主と読み換えてきたので主の名が分からなくなったくらいです。ヤーウェは後代の研究の結果、類推した主の名です。
 ユダヤ人が律法を守ろうとして真剣であったのは事実ですが、現実の生活の中で律法を守りきれなかったのも事実です。ある人たちは人里離れた場所に修道院を造り、隠遁生活を始めました。彼らはひたすら律法を守り抜こうとしたのです。一方、多くの人たちは律法を守るために努力をしましたが、律法に徹した生活と日常生活とは両立しませんでした。律法学者は様々な便法を編み出したのです。
 パウロは人間に守りきれない律法でも罪の基準、規範になり、ユダヤ人に罪の自覚を生じさせる働きを持つと考えました。律法が与えられていない異邦人でも罪の自覚を持つ人もいますが、いずれにしろ人間は神の前では罪人でしかないのです。その罪人が神の前で義なる者、正しい者として受け入れられたのです。
 神様の愛と恵みにより「神は義なる方ですから、罪人を犯罪者として罰せられる」世界から、「神は義なる方ではありますが、イエスの十字架での贖いの死により、罪人を愛する息子として受け入れられる」世界へと移されたのです。「神に罰せられるべき者が神に受け入れられる」、「福音の逆説」が成り立つのです。
 律法に囚われる人の世界は自らの救いのために何をなし得るかを考えている人の世界です。人間が救われるためにする努力や精進は人間の罪を消し去ることはできないのです。ユダヤ人は律法を遵守すれば神様に受け入れられると考えたのですが、パウロは救いのために人間のなし得ることは何もないと断定したのです。
 神様の恩寵、イエス様の十字架での贖いの死と甦りこそが私たちに与えられた約束の成就なのです。私たちの努力により救いを得る道、下から救いに至る道は閉ざされているのです。あくまでも救いは神様からの恩寵、上から救いの道が開かれるのを待つしかないのです。それがイエス様の十字架であり甦りなのです。
 私たち日本人の思考には努力や精進による救いの陰が色濃くまとわりついています。名人、達人の境地に達した者を尊敬する日本人の思考も精進の世界の延長線上にあります。キリスト教では名人、達人になる必要はないのです。私たち人間のいかなる努力や精進も、神様の前に出れば無に等しいものだからです。
 私たちは神様が主イエス・キリストの十字架での贖いの死と甦りによって示された愛と恵みを素直に受け入れるだけでよいのです。例え、地上でどんな罪を犯していても主は赦されるのです。主の前にへりくだり、悔い改めればよいのです。
 パウロは「福音の逆説」、「神に受け入れられない者が神に受け入れられる」を主張しています。人間側がいかに努力しても神への道が開かれることはなく、神様の愛と恵み、主の十字架と甦りが神への道を開くのです。前者は下からの神学、後者は上からの神学と言われていますが、私たちの教会は上からの神学を信じています。人間の努力や精進では決して神の国を見ることはできないからです。
 しかし、神様の愛と恵みを知った人間にはそれに相応しい生き方があります。信仰を持つ者は救われるために努力や精進を重ねるのではなく、主の愛と恵みに応えるために努力や精進を重ねるのです。単に努力や精進を重ねることが人生の目的なのではなく、神の国のために奉仕することこそが人生の目的なのです。
 ギリシア哲学、ストア派ではストイックな生き方、禁欲的な生き方を目指しました。また、禁欲的な生活を教義にしている教派や教会も珍しくはありませんが、私たちの教会では禁欲的な生活を送ることに意味があるとは思っていません。むしろ、教会は神の国の雛形ですから、平安な教会生活が送られるべきなのです。
 私たちは「救われるために何かをしなくてはならない」という強迫観念に捉われることが良くあるのですが、「救われるためには何もしなくても良い」のです。しかし、「救われた者に相応しい生き方」はあります。「救われた喜びを人に伝える」義務があります。伝道がキリスト者としての第一の義務になるのです。
 さらに、「救われた者には教会を建てる」義務があります。主の福音は教会に委ねられているからです。「教会抜きの信仰」はあり得ません。宗教改革の三原則は「聖書のみ、信仰のみ、万人祭司」ですが、聖書は教会が伝えてきたものです。数多くの福音書と手紙から現在の新約聖書27巻を選び出したのも教会です。数多くの写本から聖書の本文を何回にもわたり改訂してきたのも教会です。
 信仰は達磨大師の面壁9年、壁に向かい座禅を組み続ける修行の結果得られるものではありません。毎週、聖日礼拝を捧げるために教会に集い、講壇から語られる御言葉に接し続けることにより得られるものなのです。聖書を読むこと、祈ることも大切ですが、生ける主の御言葉に接することが何よりも大切なのです。
 万人祭司は教会制度の問題ですが、たとえ牧師であろうとも主の前では一信徒なのです。牧師は講壇に上がっている間は主の代理人として主の御言葉を取り次ぎますが、講壇を下りれば一信徒に過ぎません。牧師、長老には按手が授けられていますが、主の御用のために選び分かたれたのであり、特権ではありません。プロテスタント教会ではカトリック教会のような叙階制度がなく、按手を施すだけです。牧師と信徒は司祭と信徒のように明確に区別される関係にはありません。
 私たちの信仰生活において大切なことは、「神に受け入れられない者が受け入れられている」現実に感謝することです。「救われるためには何もしなくても良い」のですが、「救われた者に相応しい生活がある」ことを弁えるべきです。
 信仰生活は教会生活が基本です。教会生活から離れた信仰生活はあり得ません。日曜日に礼拝に集うのは御言葉に接するためです。礼拝の中で平安が与えられ、日々新たにされる力が与えられるのです。礼拝は空気のようなものかも知れません。礼拝に集える間は意識することはありませんが、礼拝に集えなくなれば生きていく力が枯渇してくるのです。礼拝厳守、それが信仰生活の基本です。