2006/10/30

06/10/29 信仰により義とされる T

信仰により義とされる
2006/10/22
ローマの信徒への手紙3:27_31
 ペンシルバニア州のランカスター郡でキリスト教系小学校に自動小銃を持った男が乱入し、立て籠もりました。女子生徒だけが取り残され、5名が射殺されました。射殺された少女は処刑されたかのように頭を打ち抜かれていたそうです。
 この地方にはプロテスタントの一派アーミッシュ派の信徒が世俗社会から離れて住んでいます。18世紀のままの生活様式を守りながら今も生活しています。電気、ガス、水道、自動車を使用せず、馬車を使う独特の文化を守っています。
 アーミッシュ派はスイスで始まり、ドイツ語圏に広がりましたが、ヨーロッパで激しい弾圧を受けたので18世紀にアメリカへ渡ってきました。「ペンシルベニア・ダッチ」という古いドイツ語を受け継ぎ、無地で質素な服装をしています。
 彼らは一般市民と離れて住み、彼らだけの共同体を造り、自給自足の生活を営んでいます。参政権や徴兵などの国民の権利や義務さえも拒否しています。教育が子供を堕落させると信じ、子供たちには英語の読み書き程度しか教えません。
 犯人に銃を突きつけられた少女たちの中で、最年長の13歳の少女が「私を撃ってほかの子たちを放してください」と犯人に身代わりを申し出て射殺されました。彼女の妹も姉に続いて犯人に身代わりを申し出て重傷を負わされました。
 それにも拘わらず、アーミッシュの人々は犯人の奥さんを5人の少女たちの葬儀に招くいたそうです。犯人の奥さんをアーミッシュの人々は抱擁したそうです。聖書にある『恨みに思うことがあれば赦してあげなさい』を実行したのです。
 このアーミッシュの絶対平和主義が全米の人々に深い感動を与えたそうです。アーミッシュの絶対平和主義は徹底しており、第二次世界大戦では良心的徴兵拒否が認められました。看護の手伝いや落下傘づくりをしていたそうです。
 少女は主が弟子に『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない』と言われたのをその身をもって実行したのです。聖書の世界に生きる少女は主の十字架での死に倣い、友の身代わりになって死んでいったのです。
 アーミッシュの生きている世界は私たちが生きている世界とはあまりにも違い過ぎます。戦争が絶えない世界から隔絶された世界、18世紀にタイムスリップしたような世界に生る彼らの規範は「信仰のみ、聖書のみ、万人祭司」なのです。
 北朝鮮が核実験を強行しました。テロとの戦いの先は見えません。国家機能が既に破綻し、国民が難民キャンプでしか生きていけない国もあります。世界の平和、世界の安全保障は危機に晒されています。軍事的緊張が世界を覆っています。
 軍事力で一部の先進国だけの平和が保たれている世界は人類にとって不幸な世界です。武器に頼る社会、一部の者が資源を搾取する世界に人類の未来はありません。世界の資源を再配分することができれば、世界は飢えから解放されます。
 アーミッシュの世界は私たちが失ったものを思い起こさせます。権謀術数が渦巻く国際政治の中で、絶対平和主義を唱える日本はドン・キホーテのようですが、非対称の武力抗争が続く世界の明日を開く鍵が平和憲法に秘められています。
 人の誇りとするのは行いの法則によるのか、信仰の法則によるのかとパウロは問いかけています。パウロの主張する行いの法則は、ユダヤ人が律法に囚われている姿の象徴です。ユダヤ人の救いに対する感覚は損益勘定的な面がありました。律法の細目、ミシュナに定められた小さな規定を一つ守れば神様の利益の方に記載したのです。人生を通じて預金を励み、神様に貸しを作ろうとしたのです。
 それに対してパウロは人が義、正しいとされるのは律法の行いではなく、信仰によると考えていました。パウロは律法をいくら遵守しても神様の前では義、正しいと主張できないと考えていました。神様は唯一の主であり、真実な御方ですから、人間が神様の前で自らの努力や精進を誇ることはできないからです。
 人間と神様との関係を損得勘定表で表わせば、人間の神様に対する負債は無限大であり、神様の人間からの利益は0にしかすぎません。行いの法則では人間には無限の負債、罪があるので、神様の前には立つことができないのです。天秤の一方に人間が乗っても、片方に神様が乗っていれば天秤は微動すらしないのです。
 しかし、信仰の法則によれば人間と神様は釣り合うのです。神様はイエス様の十字架により無限の負債のある人間の負債を損得勘定表から除外されたのです。神様の前に立ち得ない人間が神様の愛と恵みを信じることにより、神様の前に立つことが許されたのです。それは、神様からの一方的な恵みによるものなのです。
 パウロはさらに唯一の主、神様がユダヤ人だけの神様であるのかと疑問を投げかけています。律法には『聞け、イスラエルよ。我らの神、唯一の主である』と記されているからです。パウロは神様はユダヤ人だけの主ではなく、異邦人の主でもあると主張するのです。神様は全世界の人々の唯一の主であるからです。
 パウロは割礼を施されたユダヤ人も信仰のゆえに義とされ、割礼のない異邦人も信仰によって義とされると主張しています。信仰の法則によれば、神様は人間を天秤の上でも釣り合うようにして下さったのですから、ユダヤ人であるか、異邦人であるかは問題にならないのです。ただ信仰のみが問題にされるからです。
 しかし、パウロは信仰によってのみ義とされるからといって、律法の働きを否定したのではありません。パウロは律法を本来神様から与えられたものですから、神様の意思が表されているものであると考えていました。ユダヤ人が神様の律法と人間の律法とを混同したのが、ユダヤ人が神様から離れていった原因だと考えました。パウロは信仰が神様の律法をむしろ確立するものだと考えていました。
 ユダヤ人が律法を忠実に実行しようとしたのは神様の怒りから逃れる道だと考えていたからです。ユダヤ人は神様の怒りから逃れる道のみを考えていました。神様の愛と恵みを追い求めることを忘れていました。怒りから逃れる道、行いの法則に従う道は律法を戒律として忠実に守ることに尽きます。一方、神様の愛と恵みを求める道、信仰の法則に従う道は神様の御心を積極的に追い求める道です。
 行いの法則は神様からの怒りを買わないことを第一にするので、「何々をしてはならない」という世界です。信仰の法則は神様の御心に沿うことを第一にするので、『何々をしよう』という世界です。消極的な世界から積極的な世界に変えられたのです。律法は神様の御心に従い、神様の国を実現するために神様から人間に与えられたものですが、ユダヤ人は神様の御心を取り違えてしまったのです。
 パウロは信仰の法則によって人間が救われると考えていました。パウロはローマの市民権を持っていましたが、氏素性が正しいユダヤ人でした。有名な律法学者であるガマリエルの門下生でした。ステファノが石打の刑に合い殉教した時にも現場にいました。エルサレムでキリスト教徒を迫害もしました。パウロが回心したのはダマスコ途上でのことです。ステファノの殉教から2年後のことです。
 パウロが教会の敵であったことはローマ帝国内の諸教会に知れ渡っていたでしょう。パウロは行いの法則によれば教会の敵であった過去が清算されることはありませんが、信仰の法則によればパウロの過去の罪が主の愛と恵みにより清算されるのです。パウロがダマスコ途上で生ける主に出会ったから、信仰の法則を見出すまでには時間が掛かったと思います。ダマスコでの暗黒の3日間、暗闇の中で苦闘しました。その後、アラビアで3年間に渡る黙想の日々を過ごしました。
 パウロはバルナバに見出され、タルソスからアンティオキアに連れてこられました。アンティオキアで主の弟子たちがキリスト者、クリスチャンと呼ばれるようになりました。アンティオキアから三回にわたるパウロの伝道旅行が始まりました。パウロは伝道旅行の中で異邦人伝道者としての使命を確信しました。
 パウロの信仰の軌跡を見れば、ダマスコ途上の回心までの行いの法則に従っていラビとしての人生から、信仰の法則を見出した異邦人伝道者としての人生までには、主のために味合わわなければならなかった様々な患難と試練があります。パウロは試練の中で主の恵みが弱さの中に表されることを知らされたのです。
 ラビとしてのパウロは強さを誇っていました。異邦人伝道者としても強さを誇っていた時もあるでしょうが、むしろ弱さを誇るように変えられたのです。パウロを行いの法則から信仰の法則へ変えたコペルニクス的転換は、主の御声、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』を聞かされ、『私は弱いときにこそ強いからです』と信仰を告白できた時でしょう。
 行いの法則は神様に対する恐怖に裏付けされたものですが、信仰の法則は神様に対する愛に裏付けされたものです。恐怖は人の心を縛り付けてしまいます。生きている喜びさえも奪ってしまうのです。愛は人の心を解放します。生きている喜びを与えてくれます。転換点は生ける主の愛と恵みを信じる信仰なのです。
 『信仰により義とされる』世界は、ユダヤ人の発想にはない世界です。異邦人はこの世の神々を信じていますから、義なる神という発想はありません。異邦人が求めたのは人間に功徳を与える神々でした。人間から奪う神々より人間に与える神々でした。ユダヤ人には奪う神、異邦人には与える神々が常識でした。
 その中で、パウロは信仰により義とされると主張したのです。ユダヤ人には180度、発想が転換した世界であす。異邦人には全く新しい未知の世界でした。人間の歴史にイエス様が登場なされたので、人間の世界に福音、喜びの訪れが届けられたのです。人間の歴史が主の福音により質的な転換を遂げたのです。
 私たちはイエス様がこの世に遣わされたので、既に神の国は到来したが、イエス様の再臨までは未だ神の国は完成しない世界を生きています。この世界は信仰の法則に支配された世界です。行いの法則では神様に救われるには相応しくない人間が、信仰の法則により神様の一方的な愛と恵みにより救われるのです。
 10月31日は宗教改革記念日です。ルターは1517年10月31日に「九十五カ条の提題」を発表しました。ローマ教皇がサン・ピエトロ大聖堂の建築資金を集めるためにカトリック教会が贖宥状、免罪符を乱発していたのを批判したのです。
 九十五カ条の提題は教会の信仰を糺すためになされたのですが、ローマ教皇はルターを破門にしました。ルターを支持する信徒はカトリック教会、教皇に抗議し立ち上がりました。抗議する者、プロテスタントと呼ばれるようになりました。
 ルターもパウロも始めから教会、ユダヤ人に叛旗を翻したのではありません。周囲の状況が彼らを追い込んでいったのです。プロテスタント教会、異邦人教会は結果として建てられたのです。救済史は人知を越える歴史の積み重ねなのです。
 ルターはパウロのローマの信徒への手紙から信仰義認の教説に到達しました。宗教改革の三原則「信仰のみ、聖書のみ、万人祭司」は聖書のみを除き、初代教会の信仰に帰れというものでした。信仰復興運動、リバイバル運動なのです。
 教会の歴史、ユダヤ人の歴史も信仰を見失う、信仰覚醒運動が起きるの繰り返しです。人間は信仰の法則を示されながらも、行いの法則に囚われてしまうのです。人間は神様の愛と恵みにより救われるという信仰に確信が持てなくなるのです。代価を支払うことなしに救われては損得勘定表の帳尻が合わないからです。
 人間の考える損得勘定表では、人間の努力や精進により神様の方に少しでも利益を付け加え、人間の方の負債を軽くするしかないのですが、神様の損得勘定表ではイエス様の贖いの死により人間の負債はイエス様に肩代わりされたのです。主は神様と人間とを天秤に掛けても釣り合うという奇跡を起こされたのです。
 信仰により義とされる世界、信仰の法則が支配する世界は人間の常識から懸け離れた世界かも知れませんが、永遠の生命に至る唯一の道なのです。古来から人間は永遠の生命を得るために様々な努力をしました。権力者は不老不死の薬を求めて権力と財力を使い果たしましたが、手に入れることはできませんでした。
 しかし、永遠の生命に至る道は私たちの目の前にあったのです。主の福音を信じる道こそが永遠の生命に至る道なのです。私たち人間の側には何の条件、制約もないのです。王侯貴族であろうとも、億万長者であろうとも主の福音を受け入れない者には永遠の生命に至る道は閉ざされています。塵芥のような存在でも、犯罪者でも主の福音を受け入れる者には永遠の生命に至る道が開かれるのです。
 神様の前では信仰によってのみ義とされるのですから、人間はいかなる意味でも差別されることはありえません。人間の信仰をこの世のいかなる権力も妨げることはできないのです。主の福音には世界を根本から変える力があるからです。
 信仰生活は私たちに信仰の法則に総てを委ねる力を与えてくれるのです。私たちは行いの法則が支配している世界で日常生活を送らざるを得ないのですから、信仰の法則に導く力を御言葉から得なくてはならないのです。いつも信仰を意識した生活を送らなければ、この世の基準、行いの法則に身を寄せてしいます。
 私たちは主が十字架で示された愛に生かされていることを誇りにしましょう。私たち一人一人は取るに足りないものでしかありませんが、主は私たち一人一人を掛け替えのない者として愛してくださっているからです。主の愛と恵みにより選び分かたれた私たちには、主の愛と恵みを人々に宣べ伝える義務があるのです。