06/11/12 アブラハムは義とされた T
アブラハムは義とされた
2006.11.12
ローマの信徒への手紙4:1_8
腎臓売買事件が起きた徳洲会病院で、万波医師が病気で摘出された腎臓を移植したケースが数十件もあることが明らかにされました。万波医師は「捨てる腎臓を有効に利用して何が悪い」と主張していますが、常識的に考えるならば生体移植が可能な腎臓ならば摘出する必要があったのかという疑問が湧いてきます。
マスコミは医療倫理に反する行為だと万波医師パッシングに走っていますが、レシピエント、移植を受けた患者のコメントが報道されていません。腎臓移植は人工透析を受けているレシピエントを機械から解放する究極の治療です。QOL、生活の質を高めるために手段を尽くすのも医者の使命なのかも知れません。
医療関係者のコメントは確かに正しいのですが、人工透析で苦しんでいる患者の苦痛に対する配慮が感じられません。腎臓を移植しなくても人工透析を受ければ生きていくことができるという主張は患者の生活の質を無視した主張です。
万波医師は「脳死移植、生体移植に継ぐ第三の道だ」と主張していますが、レシピエントが充分なインフォームドコンセントを受けてなされた手術ならば、第三者が口を挟む問題ではありません。一方、腎臓を摘出する過程において医療倫理にもとる医療行為がなていないかを第三者機関で検証する必要があります。
日本の医師の世界は保守的です。批判はするがリスクは負わないのが彼らの習性です。万波医師はその様な学会に愛想を尽かしたのだと思いますが、医師の原点である医療倫理に対する配慮が疎かにされていた側面は否定できません。
例えば、ガンを除去した腎臓を移植すればガンが再発する危険性は高くなります。特に免疫抑制剤を服用していればその確率はかなり高くなるでしょう。それでも、例えば、高齢者などでリスクを伴う手術をあえて望む人もいるでしょう。
医師の倫理としては病腎移植は避けるべきなのでしょうが、臨床医の立場からすれば別の医師の倫理が成り立つのかも知れません。廃棄される腎臓を求めて瀬戸内ネットができているくらいですから、万波医師を支持する臨床医もいます。
腎臓移植の第一線に立つ医師の判断をマスコミや医事評論家の感情論ではなく、客観的な事実を積み上げて検証する必要があります。医師は患者の利益を優先しますが、それが他の患者の利益を犯すものであってはならないからです。
腎臓を治療のために必要のないのに摘出されたと訴える人もいますが、マスコミに踊らされている証言のような気もします。廃棄される腎臓でも移植して欲しいという患者の声には、健康な人間には分からない切実なものがあるのでしょう。
臓器移植は究極の医療ですが、日本では移植できる臓器の数が限られています。脳死者からの臓器提供はニュースになるぐらい少ないですし、生体移植もドナーにリスクを負わせるだけではなく、後遺症が出てくる場合も少なくないようです。
素人判断ですが、廃棄された臓器が有効に活用されるのならば、倫理委員会で審査を受けたケースに限って臓器移植を認めても良いのではないでしょうか。第三者の原則論では解決できない問題が今回の事件の裏にはありそうだからです。
神様はアブラハムを祝福の基、源とされる約束を彼に与えられましたが、アブラハムに神様に義とされる功績があったからではありません。神様の約束は律法による義に基づくものではなく、信仰による義に基づくものであったからです。
神様はアブラハムやその子孫、イスラエル民族、ユダヤ人に世界を受け継がせることを約束なされましたが、この約束がユダヤ人の選民意識、ユダヤ人が神様から特別に選ばれた民であるという意識をユダヤ人に植え付けたのです。アブラハムが主に選び分かたれた事実こそユダヤ人が主の民、選民である根拠でした。
アブラハムはハランからカナンの地に入り、その子イサクと共に定住しました。イサクの息子ヤコブは飢饉に遭いましたが、息子ヨセフの招きによりエジプトの地に逃れました。400年に渡るエジプトの地での生活では民の数が増え、イスラエル民族が形成されましたが、エジプトにイスラエルに対する警戒感も与えました。エジプトによる圧政がイスラエルの民を苦しめました。その時にモーセが出現し、イスラエルの民をエジプトの苦役から逃れさすために出エジプトの旅に民を導き出しました。その旅の中でモーセと神様との間で結ばれたのがシナイ契約です。「神を唯一の主とし、イスラエルの民、ユダヤ人は主の民となる」、付帯条件として「主の律法を主の民である徴として守り抜く」契約を結んだのです。
『アブラハムは神を信じた。それが神に義と認められた』のであり、律法を遵守した報酬として義とされたのではありません。律法がイスラエルの民に与えられたのは、アブラハムの召命から500年以上も後の出来事だからです。さらに、労働の対価として支払われるのは報酬であり、形のない恵みではありませんが、『不信心なものを義とされる方を信じる人は、働きがなくてもその信仰が義と認められる』のです。人が義とされるのは信仰であり働きとは無関係なのです。
ユダヤ人には『信仰により義とされる』論理は理解しがたいものでした。彼らは『行いにより義とされる』ことを信じていたからです。パウロは信仰の父アブラハムを不信心な者の中に加えていますが、彼らの理解とは相容れない主張です。ユダヤ人はアブラハムを律法を遵守した理想的な人間、信仰の父として崇めていますが、律法を与えられていないアブラハムが律法を遵守することは不可能であったからです。「神の前で義ではあり得ない人間、無価値でしかない人間が神の前で義とされ、立つことが許される」、信仰の逆説がパウロの福音なのです。
ダビデ王もユダヤ人の理想の王でした。ダビデ王は必ずしも主の御心に沿った生活を送っていた訳ではありませんでしたが、預言者ナタンに罪を指摘されると真剣に悔い改める王でもありました。主の憐れみを最も激しく求めたのです。
『不法が赦され、罪が覆い隠された人々は幸いである』はダビデ自身の体験に基づいています。人間が律法を犯してしまうことはしばしばありますが、主は人間の罪を許し、人間の罪を拭い去ってくださるのです。ダビデ王がバテシバ事件で犯した罪、従順な部下ウリアの妻バテシバとの姦淫の罪、その発覚を恐れてウリアを前線で殺させた罪はダビデ王が犯した最大の罪でしたが、神様はダビデ王を赦してくださいました。『主から「罪を犯したが」罪があると見なされない人々は幸いである』。王は自らの行いによれば主の前に立ち得ないことを自覚していましたが、その彼をも受け入れてくださった主の恵みを賛美しているのです。
パウロは「信仰による義」を論じてきましたが、抽象論に陥ってしまいました。哲学的思考になれているギリシア人には理解できたかも知れませんが、具体的な思考に慣れているユダヤ人には理解しがたいところもありました。そこで、ユダヤ人が最も尊敬する「信仰の父アブラハム」と「理想的な王ダビデ」とを例に出して、彼らが神様の前で義とされたのは信仰によることを論証し始めました。
パウロが論証しようとしたのは人間は神様の前で自らの行いを誇ることはできないと言うことです。アブラハムは「なぜ主を信じた」のかは分かりませんが、ただ主を信じてハランの地を旅立ちました。アブラハムを主は導きましたが、アブラハムは主に対して自らの行いを誇ったことはありません。主からの一方的なご命令にアブラハムが従順に従っただけです。主とアブラハムとの関係は直線的でした。あくまでも主が絶対的な主君であり、アブラハムは僕であったのです。
ユダヤ人と神様との関係は双務的な関係にまで神様の位置が低下していました。彼らは行いによる義を信じていました。人間側が律法を守りさえすれば主の前に立つことができると信じていたのです。さらに律法を守る人間を主は受け入れなければならない、主は救わなければならないとまで奢り高ぶっていたのです。人間と主との関係は行いと救いを取引する商売関係にまで貶められていました。
律法遵守する行いは主に対して功徳を積むことになり、功徳は救いを得るための貨幣となりました。救いは人間と神様との間で取引される商品となりました。律法の遵守は救いに至る道の通行手形に成り下がってしまったのです。主に対する信仰は忘れ去られ、律法が信仰の対象になってきたのです。ユダヤ人の唯一の神ヤーウェに対する畏れ、信仰はいつの間にか形だけのものに成り下がりました。
パウロはその様なユダヤ人の信仰を痛烈に批判したのです。行いに対する報酬は義とされることはない、義とされるのは信仰によるのであると主張したのです。ユダヤ人の尊敬するアブラハムにしろ、ダビデ王にしろ、行いを主が認めたから義とされたのではない、彼らの信仰が義とされたからだと明確に論証したのです。
パウロは行いが貨幣のように流通しているユダヤ人の現状を憂えていました。ユダヤ人が主の民であるのは主に対する信仰があるからであり、割礼と律法が与えられているからではないことを立証したのです。信仰の父、アブラハムは律法が与えられる500年以上も前に主に召し出されたからです。アブラハムはただ主のご命令に従ったのです。前途が全く分からないのに主のご命令に従ったのです。
信仰により義とされるのはアブラハムのような信仰なのです。ユダヤ人の基準からすれば彼に律法は与えられていませんから、律法を知らないアブラハムは不信心な者に分類されますが、彼は行いがなくとも信仰により義とされたのです。
人間は義なる神様の前に立ち得ないものですが、信仰により義とされるので立ちうるのです。人間は行いをいくら積み重ねても義とはされないのです。義、正しいは人間の判断で左右されるものではなく、神様の領域に入るものだからです。しかし、神様は神様を信じる信仰により不信心な者、罪ある者を義としてくださるのです。それは一方的な神様からの憐れみ、恵みによるものです。行いによれば神様の前に立ち得ない無価値な者が信仰により神様の前に立ちうるという逆説、人間の常識からすればあり得ないことが起きるのが福音の真理なのです。
信仰による義は神様が主人、人間が僕である関係、垂直の上下関係です。しかも神様と人間との間には越えられない一線が横たわっているのです。人間の行いによる義は人間の世界の話であり、人間の世界を超越しておられる神様に影響を与えることはできません。人間が義とされるのは神様の愛と恵みによるしかないのです。私たちの努力や精進は人間の世界の範疇の出来事であり、神様には神様の思いがあるのです。人間を救う力は人間の側にはなく神様の側にあるのです。
私たちは自らの想いを神様に投影してしまいますが、人は人、神は神なのです。人間は患難や試練に出会えば私たちの行いに対し罰が当たったと考えるのが常ですが、このような因果応報の世界はキリスト教の世界とは無縁なのです。パウロは『患難は忍耐を生み、忍耐は練達を生み、練達は希望を生み出す。そして希望は失望に終わることはない』と証ししていますが、パウロの努力や精進が希望に至る道を発見させたのではありません。信仰の世界は努力をすれば報われる世界とは違うのです。信仰を持てば忍耐をする力は与えられますが、忍耐をすれば必ず希望に繋がるとは限りません。失望に終わることさえ珍しくはないのです。
例えば、心身障害者が医学の進歩で癒される場合もあります。補助器具により健康な人に近い生活を送られるようになる場合もありますが、信仰の世界に入れば障害が癒されるとは限りません。むしろ癒されることを期待して信仰の世界に入った人は失望する場合が多いでしょう。信仰は障害を癒すためにあるのではなく、どんな人生にも生きる目的があることを明らかにするためにあるからです。
ハンセン病の療養施設にはいくつかの教会がありますが、元患者の方々は信仰を持ったからといって現状が変わったわけではありませんでした。かつて、社会から隔離され、非人間的な処遇を受け続けてきたのですが、彼らは信仰の世界に生きることにより神の国を仰ぎ見ることができたのです。生きている限り永遠に変わるとは思えなかった世界の中でも、生きる喜びを見出すことができたのです。
信仰は現実を変える力でもありますが、変えられない現実の中でも、心の中の世界で自由に生きられる力を人間に与えるのです。いかなる権力でも肉体を殺すことはできても、魂を殺すことはできません。人間の身体は拷問に耐えられないかも知れませんが、心の中にある信仰の世界まで破壊することはできません。
古今東西、殉教した信徒は少なくありませんが、私たちはおそらく平凡な信仰生活を送ることになるのでしょう。主は殉教をするような激しい信仰を私たちに求めてはおられないと思います。主が求められるのは与えられた環境の中で最善を尽くして生きることではないでしょうか。平和で自由で物に溢れる日本に生きる私たちに主が期待なされるのは教会を建て続け、伝道をし続けることでしょう。
私たちは自己満足、傲慢に陥ってはなりません。人間のなす事のできうる範囲は微々たるものでしかないからです。主の思いと私たちの思いとは違うからです。主のなさる経綸は人間の理解を超えているからです。私たちは『僕、聞きます』の姿勢を崩してはならないのです。主の支配の中に私たちは生きているからです。
主の教会は主の肢体です。私たちは主の肢体の一部として主に繋がっているのです。ブドウの実のように根から栄養が送り込まれているのです。汲み尽くすことのできない生命の水に繋がっているのです。主の生命の水に与りましょう。
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