06/11/19 まことの契りを結ぶ M
2006年11月19日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
まことの契りを結ぶ ホセア書2章18_25節
讃美歌 11,338,247
堀眞知子牧師
神様の御命令により、淫行の女ゴメルを妻としたホセアには、イズレエル、ロ・ルハマ、ロ・アンミの3人の子供達が与えられました。ところがゴメルは、ホセアと3人の子供達を捨てて愛人の下へ行ってしまいました。夫を離れて愛人に走るゴメルの姿は、そのまま北イスラエルの姿を表しています。ホセアは「告発せよ、お前たちの母を告発せよ」という言葉で語り始めます。それは法廷を意識した言葉です。3人の子供達の母ゴメル、それは同時に北イスラエルでした。自分の妻を告発するホセアと、御自分の民であるイスラエルを告発する神様が、共に法廷に立っています。ホセアは「彼女はもはや私の妻ではなく、私は彼女の夫ではない」と訴えますが、それは同時に「イスラエルは、もはや私の民ではなく、私はイスラエルの神ではない」という神様の訴えです。「彼女はもはや私の妻ではなく、私は彼女の夫ではない」という訴えは、離婚訴訟の形をなしていますが、ホセアの心からゴメルへの愛が消えたのではありません。愛しているけれども訴えざるをえない、ホセアの苦しみがあります。それは同時に神様のイスラエルに対する思いです。契約違反であるがゆえに「イスラエルは、もはや私の民ではなく、私はイスラエルの神ではない」と宣告せざるをえない、それでもイスラエルを愛し続けている神様の思いです。「彼女の顔から淫行を、乳房の間から姦淫を取り除かせよ」これは異教の神々の飾り(いわゆるお守りのような物)を取り除くことですが、イスラエルが、この神様の御言葉を聞いて、立ち帰ることを待っておられます。けれども、イスラエルが背き続けるなら、罰を下さざるをえません。「さもなければ」神様はホセアを通して宣告します。「さもなければ、私が衣をはぎ取って裸にし、生まれた日の姿にして、さらしものにする。また、彼女を荒れ野のように、乾いた地のように干上がらせ、彼女を渇きで死なせる。私はその子らを憐れまない。淫行による子らだから。その母は淫行にふけり、彼らを身ごもった者は恥ずべきことを行った」
続いて、ゴメルの姿を通してイスラエルの罪が述べられます。第1の罪は、ゴメルが「愛人達について行こう。パンと水、羊毛と麻、オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ」と語っているように、愛人達を追い求めたことです。それは異教の神々を追い求めた、イスラエルを表しています。ゴメルは自覚を持って愛人達の下に走りました。彼女は自分が必要とする物すべてを与えてくれるのは愛人達だ、という間違った認識によって彼らの下に走りました。そこで判決が下されます。「それゆえ、私は彼女の行く道を茨でふさぎ、石垣で遮り、道を見出せないようにする。彼女は愛人の後を追っても追いつけず、尋ね求めても見出せない」ゴメルは愛人達の後を追うけれども追いつけないし、彼らを訪ね求めても見出すことができません。そこで初めてゴメルは「初めの夫のもとに帰ろう、あの時は、今よりも幸せだった」と言います。
第2の罪は、ゴメルとイスラエルの無知です。ホセアは語ります。「彼女は知らないのだ。穀物、新しい酒、オリーブ油を与え、バアル像を造った金銀を、豊かに得させたのは、私だということを」ゴメルもイスラエルも、必要な物すべてを与えてくれているのは、夫ホセアであり、神様であることを知りませんでした。神様はイスラエルに約束の地カナンを与え、その地の実りを与えて下さいました。異教の神々バアル像を造るための金銀さえ、神様から与えられた物でした。しかも知らなかったのは、単純に無知であったからでもなければ、知らされていなかったからでもありません。申命記7章に記されていたように、神様はモーセを通してイスラエルに対して「これらの法に聞き従い、それを忠実に守るならば、私は先祖に誓った契約を守り、慈しみを注いで、あなたを愛し、祝福し、数を増やす。あなたに与えると先祖に誓った土地カナンで、あなたの身から生まれる子と、土地の実り、すなわち穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油など、それに牛の子や羊の子を祝福する」と約束されました。穀物、新しい酒、オリーブ油は契約に定められた賜物でした。御自分の民イスラエルに対する、神様の愛の現れでした。そこで判決が下されます。「それゆえ、私は刈り入れの時に穀物を、取り入れの時に新しい酒を取り戻す。また、彼女の裸を覆っている、私の羊毛と麻とを奪い取る。こうして、彼女の恥を愛人達の目の前にさらす。この手から彼女を救い出す者は誰もない。私は彼女の楽しみをすべて絶ち、祭り、新月祭、安息日などの祝いを、すべてやめさせる。また、彼女のぶどうといちじくの園を荒らす。『これは愛人達の贈り物だ』と、彼女は言っているが、私はそれを茂みに変え、野の獣がそれを食い荒らす」無知には、すべての賜物を取り上げるという罰が下されます。
第3の罪は忘却です。ホセアを通して神様は宣告されます。「バアルを祝って過ごした日々について、私は彼女を罰する。彼女はバアルに香をたき、鼻輪や首飾りで身を飾り、愛人の後について行き、私を忘れ去った」ゴメルは自分の思いのままに愛人の下に走り、夫ホセアを忘れました。イスラエルも異教の神々を追い求めて、まことなる神様を忘れました。この忘却は記憶喪失とか、いわゆる物忘れではありません。契約に基づく夫婦の関係、契約に基づく神様とイスラエルの関係、契約に基づく義務と責任、それらを忘れ去ったのです。いわゆる不倫を犯す人々は、自分達が結婚していることを全く忘れ去ってしまっているのではありません。結婚していることは覚えていながら、結婚に伴う義務や責任を忘れているのです。ゴメルは愛人達を、イスラエルは異教の神々を追い求めることによって、まことの関係に対して不誠実でした。そこで判決が下されます。けれども、この判決は罰を科すのではなく、約束に変えられています。「それゆえ、私は彼女をいざなって、荒れ野に導き、その心に語りかけよう。その所で、私はぶどう園を与え、アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。そこで、彼女は私に応える。おとめであった時、エジプトの地から上ってきた日のように」エジプトで奴隷生活を強いられていたイスラエルが、助けを求める叫び声を上げた時、神様は叫び声を聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされて、救いの御手を伸ばされました。モーセを指導者として召し出され、エジプトの地から約束の地カナンへと導き上られました。荒れ野の旅は、決して楽な生活ではありませんでした。イスラエルは何度も不平不満を口にしました。けれども荒れ野において「十戒」を与えられ、試練を通して彼らの信仰は鍛えられたのです。イスラエルは、もう一度、荒れ野の旅を経験することによって、アコルの谷が希望の門として与えられます。アコルの谷はヨシュア記7章に記されていましたが、カナン侵入において、イスラエルは敵を滅ぼし尽くしてささげるように、神様から命じられていました。けれどもアカンは自らの欲望に囚われて、敵の分捕り品であった金銀などを自分の物にしました。そこで全イスラエルは、神様の御命令に反したアカン一族を殺しましたが、その場所がアコルでした。苦悩の谷が、新たなる希望の門へと変えられるのです。
約束の判決を語った後「その日が来れば」という言葉で始まる、イスラエルに対する約束が語られます。神様の罪の告発と裁き、そして祝福の約束は、表裏一体なのです。今お読みいただきましたように「その日」という言葉が3回繰り返されています。「その日」とは未来であり、現在の裁きの向こうにあって、神様の救いの御業が明らかにされる日です。第1に、その日が来れば、神様とイスラエルの間に、正しい結婚関係が再び築かれます。イスラエルは神様を「我が夫」と呼び、もはや「我が主人(バアル)」とは呼びません。神様は、カナンの地にある、あらゆるバアルの名を、イスラエルの口から取り除かれます。イスラエルは偶像バアルから、完全に離れます。もはやバアルの名が唱えられることはありません。神様とイスラエルの関係が、夫と妻の関係として示され、契約に基づく深い交わりが、再び明らかにされます。
第2に、その日には、神様がイスラエルのために、野の獣、空の鳥、土を這うものと契約を結ばれます。弓も剣も戦いもこの地から絶ち、彼らを安らかに憩わせられます。神様はイスラエルと、とこしえの契りを結ばれます。神様がイスラエルと契りを結び、正義と公平を与え、慈しみ憐れまれます。その契りは、まことの契りです。そしてイスラエルは、まことなる神様を知るようになります。21,22節に「私は、あなたととこしえの契りを結ぶ」「私は、あなたと契りを結び」「私はあなたとまことの契りを結ぶ」というように「契りを結ぶ」という言葉が3度繰り返されています。神様のイスラエルに対する、深くて強い愛情が現れています。契りを結ぶことによって、新しい秩序と平和がもたらされます。イスラエルはまことの神様を知ります。もちろん今まで、イスラエルがまことの神様を知らなかったのではありません。むしろ神様の宝の民として、諸民族の中から選ばれ、神様を知らされているにもかかわらず、異教の神々に走っていました。その日には知識としてではなく、生きた人格的な交わりとして、イスラエルはまことの神様を知ります。
第3に、その日が来れば、神様御自身が「私は応える」と言われます。イスラエルが神様の愛に応えることにより、神様は天に応え、天は地に応えて、必要な雨を降らせ、光を注がれます。地は、穀物と新しい酒とオリーブ油を生み出すように応え、豊かな地の実りが与えられます。神様とイスラエルの関係が回復し、新たな契約関係の中に生きることにより、創造主である神様の御命令によって、すべての被造物が応えます。神様の怒りによって名付けられた、ホセアの3人の子供達の名前が祝福の名前に変わります。イズレエルは大量殺人の場所、流血の場所ではなく「神が種を蒔く」という元の意味を取り戻します。前回も申しましたように、イズレエルはカナンにあっては平野の広がった場所であり、肥沃な土地でした。神様が約束の地カナンに、イスラエルを種として蒔かれます。神様の宝の民としての地位を取り戻します。神様はロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れむ者(ルハマ)とされ、ロ・アンミ(我が民でない者)に向かって「あなたはアンミ(我が民)」と言われます。神様との間に新しい契約が結ばれ、イスラエルは「我が神よ」と応えます。
この25節は、ペトロの手紙一2章10節に引用されています。2章9節からお読みします。「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れて下さった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです」キリスト者は第1に「選ばれた民」であり、第2に「王の系統を引く祭司」であり、第3に「聖なる国民」であり、第4に「神のものとなった民」です。私達に、このような4つの呼び名が与えられているのは、私達の力によるのではありません。ただ神様の恵みと憐れみによるものです。さらに、このような呼び名が与えられている私達には、義務と責任が伴います。教会は「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れて下さった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるため」に召し出された者の群れです。このように申しますと、義務と責任を負わされているように感じられ、何かしら重たい気分になるかもしれません。けれども私達もまた、2000年の教会の歴史の中に加えられました。2000年の教会の歴史の中で生きてきた人々が皆、優れた能力を持った信徒だったのではありません。むしろ名もない、市井の目立たない人々がほとんどです。さらに初代教会には、多くの奴隷がいました。未亡人や若い婦人達もいました。当時の奴隷は「命ある道具」であって、人間ではありませんでした。未亡人は、この世的には何の力ももっていませんでした。女性達は、つい最近まで公的な権利は与えられていませんでした。そのような、世にあっては力のない人々によって、教会は建てられ、保たれ、2000年の時を経て、この瀬戸の地まで宣べ伝えられてきました。その背後には、神様の御手が働かれていました。世にあっては力のない人々を用いて、神様が福音を伝え、暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れて下さったのです。同じ神様の御手が、私達の上にも働かれています。このままの私達を、神様が福音の伝道者として用いて下さいます。
さらに私達は異教の地に住んでいます。キリスト者人口は1%にも満たない日本において、神様の奇しい御業によって、キリスト者として召し出されました。ペトロが2000年前に語ったように、私達は「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」者の群れです。以前、東京神学大学教職セミナーに参加した時、アメリカの教会から宣教師として遣わされた教授が、日本へと向かう時、先輩の牧師から「君は2000年前のローマに遣わされるようなものだ」というふうなことを言われた、と語られました。そういう意味では、ペトロが手紙を書いた時代と、今の日本は同じような状況です。特に瀬戸キリスト教会の信徒の多くは、クリスチャンホームの生まれではありません。私自身も、神棚と仏壇のある家庭で育ちました。まことの神様を知りませんでした。家の近くにカトリック系の幼稚園があり、そこに通うことになって、初めてイエズス・キリストという名前を知りました。カトリック系だったので、毎朝「イエズス様、マリア様、ヨセフ様」と言ってお祈りしました。神様、仏様以外の存在を知りました。けれども、それから信仰を与えられるまで30年近い歳月を必要としました。神様の憐れみと恵みによって、神様の民として召し出され、2000年の教会の歴史の中に、主イエスの再臨の日まで続く教会の歴史の中に加えられました。感謝以外のなにものでもありません。神様は私達一人一人に「私は、あなたととこしえの契りを結ぶ」「私はあなたとまことの契りを結ぶ」と約束して下さっています。この恵みに感謝し「我が神よ、我が主よ」と応える群れとして、瀬戸キリスト教会の歩みを整えていただきましょう。
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