06/12/03 揺らぐことのない愛 M
2006年12月3日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
揺らぐことのない愛 ホセア書3章1_5節
讃美歌 75、?112、?115
堀眞知子牧師
週報にも記されていますように、本日より待降節(アドベント)に入ります。これは11月30日にもっとも近い聖日に始まり、12月24日まで続きます。4つの聖日を含み、今年は22日間です。アドベントはクリスマスの準備の期間です。イエス様の御降誕を覚え、祈りつつ備える時です。先週の祈祷会後に、クリスマスの飾り付けもしました。教会の1年はアドベントから始まります。今日は教会暦でいえば、1月1日にあたります。アドベントはラテン語のAdventusu(到来)が語源になっています。イエス様が来られる。それは2000年前のベツレヘムの家畜小屋だけではなく、主イエス・キリストの終末の再臨をも含めて、お出でになることを希望を持って待ち望むことでもあります。私達の教会も、主イエス・キリストの再臨の希望に生きる群れとして、特にこのアドベントの時を過ごさせていただきましょう。
さて、前回も申しましたように、神様の御命令により、淫行の女ゴメルを妻としたホセアには、イズレエル、ロ・ルハマ、ロ・アンミの3人の子供達が与えられました。ところがゴメルは、ホセアと3人の子供達を捨てて愛人の下へ行ってしまいました。神様の御命令であるがゆえに、ホセアは自身の思いとは異なった、淫行の女ゴメルと結婚し、彼女を愛し、3人の子供を与えられました。それにもかかわらず妻に裏切られ、子供と共に残されたホセア。彼は失意と共に、不条理をも感じていたでしょう。神様の御命令に従った結婚、神様の御命令によって名付けられた3人の子供達。忌まわしい流血の地を思い起こさせるイズレエル。神様に憐れまれていないことを知らされるロ・ルハマ。神様から私の民でないと言われたロ・アンミ。人生において結婚、新たなる家庭を築くことは神様の祝福と恵みであると共に、個人の喜びと悩みが生まれます。もちろん人間は、喜びを求めて結婚しますが、人生には困難や苦難が伴います。結婚したがゆえに生ずる困難や苦難もあります。愛情にあふれた家庭にあっては、困難や悩みも家族で分かち合い、支え合うことによって、それらは実際より薄くなり、かえって家族の結び付きが強くなり、希望が生まれ、自分の存在、相手の存在を認め、さらに愛情が深まっていきます。逆に愛情がなければ、相手の喜びは妬みに変わり、困難や悩みは2倍にも3倍にもふくれあがり、失意と絶望のどん底に落とされます。ホセアは意に染まぬ結婚をし、それでも神様から与えられた妻としてゴメルを愛し、3人の子供を与えられました。呼ぶたびに心が痛む3人の子供を神様から与えられた子供として受け取り、家族を愛したと考えます。すべて神様の御命令に従ったにもかかわらず、ゴメルはホセアを裏切って愛人の下に走りました。ホセアにとって、これほど不条理なことはありません。一方、ゴメルは愛人の下に走り、おそらく愛人に捨てられ、その後、どのような事情があったのかは分かりませんが、奴隷として売られてしまいました。
失意のどん底にあるホセアに、神様は再び命じられました。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように」夫ホセアに愛されながらも、愛人の下に走ったゴメルを「愛せよ」と神様は命じられました。裏切った妻を愛しなさい。人間的な思いからすれば、最初の結婚の命令がそうであったように、納得のいくものではありません。自分だけではなく、3人の子供達を捨て、家庭を捨てて愛人の下へ走った妻です。今、愛人に捨てられて奴隷として売られている、自業自得だ、と思うのが一般的な考え方です。ゴメルに対するホセアの愛情は消え、憎しみが生まれ、あるいは、もう忘れてしまいたいという思いから無関心であっても当然です。ところが神様は「夫に愛されていながら」と言われました。ホセアは、なおもゴメルを愛しているのです。私達の思いからは考えられないことですが、ホセアはゴメルを愛しているのです。なぜでしょうか。私は考えます。ホセアの預言者としての活動は、最初に神様から「行け、淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ」と命じられたことから始まりました。ゴメルとの結婚は、神様からの召しであり、ホセアにとってゴメルは、神様によって定められた結婚相手でした。確かに申命記24章には「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなった時は、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」と記されていて、離婚が認められています。けれどもイエス様は、マルコによる福音書10章において、ファリサイ派の人々から「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねられた時「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返されました。そして彼らが「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えると、イエス様は「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、2人は一体となる。だから2人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせて下さったものを、人は離してはならない」と答えられました。神様によって結び合わせられた以上、何があろうともゴメルはホセアの妻でした。ですから彼は愛人の下に走ったゴメルに、離縁状を書くこともしませんでした。どこへ行こうとも、誰の下に行こうとも、ゴメルはホセアの妻でした。神様に命じられた結婚であり、ホセアとゴメルは結婚という契約関係の中にありました。契約に基づいた関係であるがゆえに、ホセアは何があろうとも、ゴメルを愛し続けていたのです。契約に基づいた愛であるがゆえに、決して揺らぐことのない愛でした。
結婚という契約ゆえに、ゴメルを愛し続けるホセアに、神様は「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ」と命じられました。そのようにホセアに命じる理由として「イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように」と言われました。イスラエルはまことなる神様を知らされ、神様の宝の民とされ、神様との契約関係の中に生かされているにもかかわらず、神様に背き、異教の神々を追い求めていました。干しぶどうの菓子はぶどうの収穫期である秋に、異教の神々の祭りに食べるものでした。ですから、干しぶどうの菓子を愛するとは、異教の神々の祭りに熱中している、イスラエルの姿を表しています。異教の神々を追い求めているイスラエルを、なおも神様は愛していると言われました。ホセアがゴメルを愛し続けたように、神様のイスラエルに対する愛は、契約に基づいた愛であるがゆえに、決して揺らぐことのない愛でした。いや正確に言えば、神様のイスラエルに対する愛が、契約に基づいた愛であるがゆえに、決して揺らぐことがなかったように、ホセアはゴメルを愛し続けたのです。背信の民イスラエルを「愛している」と言われた神様、この御言葉に励まされて、ホセアは神様の御命令に従います。
ホセアは銀15シェケルと、大麦1ホメルと1レテクを払って、自分を裏切った妻ゴメルを買い取りました。出エジプト記21章によれば、奴隷の代価は銀30シェケルでした。すべてを銀で払うことができなかったのは、ホセアは銀を持っていなかったのかもしれません。ホセアの出身地、彼の職業については何も記されていません。銀で払いきれず、大麦で補ったことからすると、彼は農業に従事していたのかもしれません。豊かな暮らしはしていなかったのでしょう。いずれにしろ、ホセアにとっては高い代価を支払って、不貞の妻ゴメルを買い取ったのです。もともと淫行の女でした。ホセアの妻となり、3人の子供を産んでも家庭を捨て、愛人の下に走り、転落の末に奴隷となった女でした。それでもホセアはゴメルを愛し続け、神様の御命令どおり、彼にとっては多額の代価を支払って、再び妻として迎えました。ホセアはゴメルに言いました。「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間、私のもとで過ごせ。私もまた、お前のもとに留まる」再び妻として迎えるにあたり、淫行をしないこと、他の男の下へは行かないこと、ホセアだけの妻であり続けることを命じました。そして同時に、ホセア自身も淫行をしないこと、ゴメルだけの夫であり続けることを約束しました。
ホセアがゴメルだけの夫であり、ゴメルがホセアだけの妻であり続けることは、神様とイスラエルの関係を象徴しています。ですから4,5節には、イスラエルのことが語られます。「イスラエルの人々は長い間、王も高官もなく、いけにえも聖なる柱もなく、エフォドもテラフィムもなく過ごす。その後、イスラエルの人々は帰って来て、彼らの神なる主と王ダビデを求め、終わりの日に、主とその恵みに畏れをもって近づく」ホセアの下に連れ戻されたゴメルに、淫行をしないこと、他の男の下へ行かないことが命じられたように、イスラエルも、まことの神様に立ち帰るために、異教の神々に走らない生活が求められています。同時に「王も高官もなく」と記されているように、いわゆる国家体制から遠ざかることが求められています。これは北イスラエルが王国の名の下に、王や高官が先立って、異教の神々を礼拝してきたことによっています。また「いけにえも聖なる柱もなく、エフォドもテラフィムもなく」と記されているように、異教の習慣から完全に離れることが求められています。もともと、いけにえやエフォドやテラフィムは異教の習慣ではありませんでした。ノアやアブラハムやダビデもいけにえを献げましたし、レビ記にはいけにえに関する詳細な規定が記されています。サムエル記上23章、30章によれば、ダビデはエフォドを用いて神様の御心を尋ねています。いけにえやエフォドやテラフィムが、イスラエルの歴史の中で、神様のため、あるいは神様の御心を尋ねるためではなく、異教の影響を受けて偶像崇拝へと変わってしまっていました。神様は、それらを取り去ると言われました。イスラエルは、何もかも取り去られるのです。神様によって与えられる懲らしめの期間は、イスラエルにとって楽なものではありません。これらの預言は、サマリア陥落、北イスラエル王国の滅亡、アッシリア捕囚を予告しています。サマリア陥落、北イスラエル王国の滅亡、アッシリア捕囚は、かつての荒れ野の旅のように、困難を伴います。けれども荒れ野の旅によって、イスラエルに「十戒」が与えられ、神様と契約が結ばれ、イスラエルの信仰が育まれたように、神様に立ち帰る訓練の期間を通して、彼らの信仰は回復されます。
こうして国家体制も含めて、異教的習慣から完全に離れ去った後、イスラエルはまことなる神様、まことなる王のもとに帰ることができます。「その後、イスラエルの人々は帰って来て、彼らの神なる主と王ダビデを求め、終わりの日に、主とその恵みに畏れをもって近づく」と記されているように、その時は、イスラエルの神である主と王ダビデの下に、彼らは再び一つとなることができます。イスラエルが、神様とその恵みに畏れをもって近づく日です。ホセアを通して、これらの預言が語られた時、ホセア自身が、そしてイスラエルが考えることができたのは、南ユダ王国と北イスラエル王国の統一であり、ダビデの家系を継ぐ者が統一王国の王となり、イスラエルがまことなる神様のもとに、信仰的にも政治的にも一つになる日でした。それが「終わりの日」でした。
しかし、新約の時代に生かされている私達キリスト者は、もっと深い神様の御計画を、この預言から知ることが許されています。主イエス・キリストを求める日であり、全世界の人々が聖書において証されている唯一の神、父・子・聖霊なる、三位一体の神様の下に一つとされ、その恵みに畏れをもって近づく日です。「終わりの日」は、主イエスが再び来られる日です。マタイによる福音書28章に記されているように、主イエスは弟子達に「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と言われました。これは「世界宣教命令」と呼ばれています。「世界宣教命令」に従って、弟子達は御言葉を宣べ伝え、2000年後の今日、私達もキリスト者として召し出されました。正しい福音を知らされ、信じる者へと変えられた私達は、今度は正しい福音を宣べ伝える者へと召し出されています。「終わりの日」まで続く教会の歴史の中に加えられています。
最初に申しましたように、今日からアドベントに入ります。神様が愛する御独り子イエス様を、人間として地上に遣わして下さいました。ここに神様の愛が明らかにされています。御自分に背き続ける人間をなおも愛し、救いの御手を伸ばして下さった神様の御業が、イエス様を通して私達の目に明らかにされました。イエス様が十字架の上で流された血潮によって、新しい契約が結ばれました。私達は、イエス様が十字架の上で流された血によって贖い取られ、神様との新しい契約関係に生きる者とされました。私達の業ではなく、神様の一方的な御業です。新しい契約に基づいて、神様は私達を愛して下さっています。主イエスが立てられた契約であるがゆえに、神様の愛は決して揺らぐことがありません。神様の契約に基づく、揺らぐことのない愛によって、私達は愛されています。今朝もまた、聖餐の恵みに与ります。離れた地に住む兄弟姉妹の祈りによって聖餐卓が備えられ、教会員の奉仕によって聖餐式セットを覆う布も備えられました。神様が一つ一つ、整えて下さっていることを思います。同時に「世界宣教命令」において、主イエスは「すべての民に父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と言われました。福音伝道は、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けることであり、それは同時に聖餐に与る者を一人でも多く招くことです。揺らぐことのない愛によって愛されている私達が、正しい聖餐式を守り、重んじることを通して、御言葉が宣べ伝えられていきます。教会暦において、新年を迎えた今朝、御言葉を正しく宣べ伝え、洗礼と聖餐式を重んじ、神様の揺らぐことのない愛に生きる群れとして、瀬戸キリスト教会の歩みを整えていただけるように、新たな思いをもって祈りを合わせましょう。
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