2007/01/02

06/12/17 世界を受け継ぐ者となる T

世界を受け継ぐ者となる
2006/12/17
ローマの信徒への手紙4:13_17
 万波医師による病気の腎臓の移植の実態が明らかにされましたが、院内の調査によれば手術は適正に成されていたようです。レシピエントからは万波医師を擁護し、感謝する声が聞かれこそすれ、非難をする声は聞かれなかったようです。
 素人判断では移植できるぐらいの腎臓をなぜ摘出したのが理解できませんが、廃棄処分をする腎臓を有効に活用するのが一律に禁止されるのも行きすぎだと感じられます。医療行為と生命倫理の狭間でなされた医療行為に疑問が浮かびます。
 今回のマスコミ、医療関係者の生命倫理を笠に着た万波パッシングには疑問を感じました。彼らの正義感は傍観者の口先だけの正義感です。当事者である患者の苦悩に配慮しない正義感は国民の臓器移植に対する偏見を助長するだけです。
 マスコミは万波医師の主張を真面目に取り上げることを怠り、週刊誌の三面記事のように扱いました。万波医師の病腎移植は死体腎移植、生体腎移植に加えて第三の道を模索した結果です。事なかれ主義の医師会側の方に問題を感じます。
 日本の腎臓移植希望者1万5千人に対し、死体腎移植は150例程度だそうです。人工透析で生命を保っている患者は30万人もいます。透析患者には腎臓移植が究極の医療なのですが、現実に腎臓移植を受けられるのは100人に1人程度です。 彼らは一日おきに透析を受けなければ死ぬのです。糖尿病の合併症から人工透析を受ける患者が最も多いのです。合併症から透析を受ける患者は高齢者が多く、全身に合併症が現れています。透析に病院に通えない人もいることでしょう。
 腎臓が移植されれば透析に通う必要もなくなり、治療は内服薬だけで済ませられます。QOL、生活の質が格段と良くなり、透析を受け続ける生活とは次元の異なる生活が送られるようになるのです。その手段の一つとしての病腎移植です。
 肝臓でもドミノ移植があります。肝臓移植を受けた患者の肝臓を他の患者に移植する医療です。数少ない脳死体からの肝臓を有効に利用する手術法です。健康な腎臓を移植するのが最善ですが、病腎移植も考えられない方法ではありません。
 脳死者からの臓器提供を増やすことですが最善の方法ですが、現在の臓器移植法では宝を期待するようなものです。脳死移植はスペインが100万人当たり35名程度ですが、日本は1名未満です。キリスト教国との差は歴然としています。
 キリスト教国と日本との死生観は根本的に違います。臓器移植法をドナーの遺族の同意で臓器の摘出を可能にすべきだとの議論もありますが、日本人には抵抗が大きいでしょう。学校教育の中で脳死、臓器移植を取り上げる必要があります。
 次に生体移植ですが、ドナーは肉体だけではなく精神的な後遺症に苦しむ場合が多いようです。精神科医を含めた生体移植専門チームを立ち上げる必要があります。移植コーディネーターによる丁寧なカウンセリングが必要とされています。
 第三の道として病腎移植も考えて良いと思います。主治医の職人芸に頼るのではなく、第三者機関による同意の確認、情報の公開が必要です。角を矯めて牛を殺しては意味がありませんから、迅速に対応できるシステム構築が必要です。
 『唯一の神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束された』のは、モーセが律法を授けられる500年以上も前に成された神との契約においてです。律法が存在しない時に交わされた契約は律法の遵守を前提としていません。
 主がなぜアブラハムを召し出されたのか、アブラハムがなぜ主の召しに従い、総てを捨てて約束の地カナンを目指して旅立ったのかは分かりませんが、主はアブラハムの信仰を良しとなされ、信仰による義に基づく契約を結ばれたのです。
 パウロは人間が律法を守りきるのは不可能であることに気付いていました。彼は氏素性の正しいユダヤ人であり、ファリサイ派のラビでした。律法を厳格に守ろうと努力してきましたが、守りきれない自分の姿に気付かされたからです。
 律法を厳格に守ることが救いの条件であるとすれば、律法を守りきれない人間は救いに与れないことになります。律法が救いの条件である限り、主がアブラハムと交わした契約、彼の子孫に世界を受け継がす約束は無効とされるからです。
 律法は人間に罪の基準を与えたのですから、律法がなければ人間は罪を意識することはできません。律法が存在しなければ律法に違反した罪を指摘されることもありません。律法は罪を問い質すだけで、解決する力を与えてはくれません。
 主の約束は怒りを引き起こす律法に基づくものではなく、平安をもたらす主の恵みに基づくものなのです。『主の恵みに応える信仰によってこそ世界を受け継ぐ者』とされるのです。主の恵みによって主の約束に与れる者とされるのです。
 アブラハムの血を引く子孫、律法に頼るユダヤ人だけではなく、彼の信仰に従う者、異邦人も主の愛と恵みにより確実にアブラハム契約に与れるのです。アブラハムはユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者、私たち総ての父となるのです。
 『私はあなたを多くの民の父と定めた』と旧約聖書に書かれているように、主はアブラハムを主の民の父と定められたのです。アブラハム契約はその500年後に主がモーセとの間で交わされたシナイ契約、律法よりも優先されるのです。
 アブラハムは『死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神』を無条件で信じていたのです。アブラハム契約は主の恵みとそれに応える信仰により成り立っているのです。律法を守ることが救いの条件ではないのです。
 生ける主が求められるのは主を無条件で信じる信仰なのです。ユダヤ人が律法を救いの条件としたのは主の御心から出たことではありません。彼らは律法を守る者を主は救わなければならないと決め付け、律法を取引条件にしたのです。
 ユダヤ人は律法が信仰の手段として授けられたのにも拘わらず、信仰の目的としてしまいました。主の愛と恵みに応答するよりも、律法を守り抜くことに熱心でした。彼らは生ける主ではなく律法を中心にした信仰生活を送っていたのです。
 一方、パウロはアブラハム契約は信仰によってのみ成就されることを明らかにしました。異邦人信徒だけではなく律法に拘り続けるユダヤ人信徒もアブラハムの信仰、主に総てを委ねる信仰を受け継ぐ限り世界を受け継ぐ者とされるのです。
 パウロはローマの信徒へアブラハムの信仰を受け継ぐ子孫の一人として手紙を書き送っているのです。ローマの教会にはローマ帝国内の様々な地域から様々な民族の人々が集まっていました。アブラハムの血に繋がらない人々、異邦人が多くいましたが、皆アブラハムの信仰を受け継ぐ子孫なのです。兄弟姉妹なのです。
 律法の世界は罪の基準を示しただけであり、それを守る力を人間に与えたのではありません。人間の歩むべき方向を示しただけであり、歩む力を与えたわけではないからです。罪と知りながらも罪に陥ってしまう悪循環に陥っているのです。
 人間には罪を克服する力が与えられていませんので、罪に対する科を意識させられるだけの人生になってしまいます。罪を突きつけられるだけの人生には救いがなく、平安がありません。律法は人間に怒りを招くだけのものなのです。
 一方、信仰の世界には唯一の神から人間に与えられた約束があります。神と交わされた契約は主の一方的な愛と恵みにより与えられたものです。神の片務契約なのです。契約を実行する責任は神の側にあり、人間の側にはないからです。
 神様の愛には条件はないのです。むしろ神様の方が独り子であるイエス様を地上に遣わされ、人間と神様との仲を取り持たれたのです。神様の愛と恵みは総ての人々に注がれているのですが、それに気付く人と気付かない人とがいるのです。
 神様に愛されていることを実感できる人は神様に対する信仰を持つごとができます。生ける主を信じる信仰には条件が付きません。律法のような戒め、戒律は存在しないのです。信仰の世界は私たちの努力や精進、功績とは無関係なのです。
 主イエス・キリストに対する信仰は初代教会の信仰告白『イエスは主である』に端的に表されています。具体的に言えば、『クリスマス』、『イースター』『受難節』、『ペンテコステ』『聖霊降臨日』を信じることではないかと思われます。
 時代と共に信仰告白は複雑になってきますが、信仰告白は単純であるべきです。クリスマスは神様の独り子、主イエス・キリストがこの世に遣わされた事実を確信し、祝う日なのです。救い主の誕生を祝う素朴な想いが結実した日なのです。
 イースターは主が総ての人の罪を贖うために十字架に架かって死んで下さった事実を確信し、主の十字架での苦難に共に与る日なのです。主が三日後に甦られた事実を確信し、主が天から地上に聖霊を下される日を待ち望む日なのです。
 ペンテコステは主が約束なされた聖霊が下ってきた日です。地上に残された主の弟子達に聖霊が下り、教会が誕生したのです。主が弟子達に与えられた世界宣教命令は教会に委ねられたのです。地上における主の教会の誕生日なのです。
 唯一の神がアブラハムと交わされた契約は2000年後にイエス様が地上に遣わされたことで成就、実現したのです。イエス様の十字架での贖いの死と甦りにより、私たちは罪を許された者として主の前に立つことが赦されているのです。
 主の肢体である教会は世界中に展開しています。教会のない国はないといっても良いぐらいです。アブラハム契約から2000年、イエス様の十字架での死、復活、教会の誕生から2000年が経ちましたが、福音はさらに前進し続けています。
 救いの御業はアブラハム契約から具体な形を取り始めました。唯一の神がアブラハムを祝福の源とされ、子孫の繁栄を約束なされたからです。シナイ契約で律法が授けられましたが、十字架での贖いの死により律法は無効とされたのです。
 人間の救いの歴史は神様との約束、契約の歴史です。古い契約、旧約聖書があるから新しい契約、新約聖書があるのです。教会が旧新約聖書を正典としているのは救いの御業が天地創造から始まっているからです。人間の歴史は神様と人間とが協力して造り上げた歴史なのです。神様は人間に自由を与えられたからです。
 教会は主の肢体であると共に人間の集まりです。主は福音を教会に委ねましたが、教会の歴史は必ずしも主の委託に応えるものではありませんでした。主の愛と恵みに総てを委ねきれない人間の弱さが教会に律法主義を持ち込ませました。
 カトリック教会の伝統に固執する体制に対し抗議、プロテストした信徒により次々とプロテスタント教会が形成されました。宗教改革の三原則は「信仰のみ、聖書のみ、万人祭司」ですが、教会の伝統よりも信仰が重視されたからです。
 しかし、宗教改革は信仰覚醒運動、リバイバル運動ともいえるのです。宗教改革者マルチン・ルターはローマの信徒への手紙から信仰義認の教理を再発見したのです。カトリック教会が忘れていたパウロの信仰、信仰のみへ回帰したのです。
 パウロはアブラハム契約、唯一の神の祝福に与れるのは彼の肉による子孫、ユダヤ人ではなく信仰による子孫、教会の信徒であると主張しました。教会は2000年の時代を経て全世界に広がりましたが、総ての教会の信徒は兄弟姉妹なのです。
 教会の2000年の歴史を救いの歴史と考えやすいのですが、それに先立つ2000年も前に神様はアブラハムを祝福して、彼を祝福の源とする契約を結ばれているのです。少なくとも4000年の歴史の積み重ねの上に教会は立っているのです。
 律法はシナイ契約からイエス様の誕生までの1500年の間、唯一の神に対する信仰を守り続けてきましたが、イエス様の誕生でその意味を失いました。私たちはクリスマスから既に神の国がこの地上に実現された世界の中を生きています。
 クリスマスが何時であったかは余り大きな意味を持ちません。日本人がイメージするようなホワイトクリスマスはヨーロッパの習慣です。ユダヤには雪は降りませんが、羊飼いがたき火をしているイメージは現実に近いかも知れません。
 いずれにしろ、イエス様は英雄伝とは無縁な御方ですが、世界の歴史を質的に変えられたのです。イエス様の誕生前はBC.紀元前と表され、誕生後をAD.紀元後と表されるのは、イエス様を中心にした歴史の転換を象徴的に表すためです。
 キリスト者はアブラハムの祝福に与り、世界を受け継ぐ者とされているのです。神様との契約は主の一方的な愛と恵みにより一方的に取り交わされたものです。人間側の事情で破棄されるものではありません。あくまでも片務契約なのです。
 しかし、キリスト者には救いの条件ではないにしても、主の愛と恵みに応答する義務が生じます。罪を赦された者としての喜びを人々に伝える義務があります。教会員として主の世界宣教命令に応える義務と奉仕する喜びが生じるのです。
 私たちは天地創造からアブラハムの祝福、イエス様の誕生、教会の誕生に連なる救いの歴史の中を生きていますが、神の国が未だ実現しない現在を生きています。教会は主の再臨を待ち望みながら、主の日に備えて地上を歩んでいるのです。
 クリスマスに救いの歴史が書き換えられたのですが、過去の契約が無効にされたのではありません。救いの歴史は連綿と続いているからです。私たちはユダヤとは空間的にも時間的にも隔てられていますが、救いの歴史の中に加えられているのです。むしろユダヤを起点とした救いの歴史が全世界に展開してきたのです。
 私たちは教会に連なる者として救いの契約、約束の中にいます。私たちの信仰がいかに動揺したとしても、主がなされた救いの約束は微塵も揺らがないのです。『主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る』からです。