2007/01/02

06/12/24 平和の君、イエス・キリスト M     

2006年12月24日 瀬戸キリスト教会クリスマス礼拝
平和の君、イエス・キリスト     イザヤ書11章1_10節
讃美歌 106,114,?115
堀眞知子牧師
クリスマスおめでとうございます。香美教会集会所としてこの地に立てられて15回目、瀬戸キリスト伝道所として開設して10回目のクリスマス礼拝を守れますことを、神様に感謝いたします。昨年に引き続いてイザヤ書から、共に御言葉をお聴きしたいと思います。昨年も申しましたが、イザヤ書は旧約聖書の中で詩編の次に長い書巻です。イザヤは紀元前8世紀後半、南ユダ王国で活動した預言者です。イザヤ書は預言者イザヤの言葉として記されていますが、彼自身の預言は1?39章に記されていて「第1イザヤ」と呼ばれています。40?55章は「第2イザヤ」56?66章は「第3イザヤ」と呼ばれ、200年くらい後の預言者達によって語られた預言です。新約聖書でも多く引用されており、特に53章は「苦難の僕の歌」として、主イエス・キリストを指し示していると解釈するのが、キリスト教会の信仰です。
昨年、共に耳を傾けました9章は、紀元前734?733年、北イスラエルの王ペカの時代、アッシリアの王ティグラト・ピレセルが攻めて来て、ガリラヤ、ナフタリの全地方を占領し、その住民を捕囚としてアッシリアに連れ去った時に、語られた預言です。今日の箇所は、それから20年ほど後のことと考えられます。紀元前722年にサマリアは陥落し、北イスラエルはアッシリアによって滅ぼされ、イスラエル10部族は捕囚の地に連れ去られ、ユダ族とベニヤミン族からなる、南ユダ王国だけが残されていました。残されてはいましたが、アッシリアの脅威は南ユダ王国を悩ましていました。その中で紀元前728年に王となったヒゼキヤは、アッシリアに対する反逆の準備を始めていました。7章14節においてイザヤは「私の主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」と語りました。これは「インマヌエル(神は我々と共におられる)預言」と呼ばれています。9章も、そして今日の11章も、その「インマヌエル預言」「メシア(救い主、油注がれた者)預言」の枠の中に位置づけられています。
イザヤは語ります。「エッサイの株から一つの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」エッサイは、紀元前1000年頃、イスラエル統一王国を築いたダビデ王の父親です。エッサイは、サウルが王であった時代、ベツレヘムで羊飼いの仕事をしていました。イザヤは「ダビデの株」とは言わずに「エッサイの株」と言いました。イスラエル統一王国を想起させるダビデではなく、一介の羊飼いにしかすぎなかったエッサイの名前を挙げています。それはサウルがダビデを「エッサイの子」と呼ぶ時、そこには見下す思いを込めていました。またダビデの子であるソロモンの子レハブアムが、イスラエルの民に重い軛を負わせたがために、イスラエル10部族はヤロブアムを中心にして結束し「エッサイの子と共にする嗣業はない」と言って、王国は南北に分裂することになりました。「エッサイの子」という呼び方には、軽蔑の意味が込められていました。力もなく、栄光もなく、人々から蔑まれている存在です。「エッサイの株」この「株」という言葉も、聖書では3箇所しか使われていない言葉です。これは木をきれいに切り取った後の、年輪が美しく見える切り株ではありません。切り取られ、根を張る力もない腐れかけた切り株です。今にも腐れ果てて、土に帰りそうな切り株。そこから、一つの芽が萌えいでます。この「芽」という言葉も、別の箇所では「ムチ」と訳されている言葉です。ムチになるくらいですから、太くて大きな芽ではありません。小さな細い芽です。10章の最後に「見よ、万軍の主なる神は、斧をもって、枝を切り落とされる。そびえ立つ木も切り倒され、高い木も倒される。主は森の茂みを鉄の斧で断ち、レバノンの大木を切り倒される」と記されています。南ユダ王国の罪により、神様によって完全に切り倒され、土に帰りそうな切り株。人からも見捨てられ、使いようのない、価値のない切り株から、これまた小さくて細い、ムチにしかならないような芽が萌え出でました。弱々しい芽ですが、それは若枝へと育ちます。新しい生命をみなぎらせ、やがて緑豊かな葉を繁らせる、丈夫な若枝へと成長していきます。
しかも、その若枝に神様の霊がとどまります。イザヤは「知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊」と語ります。物事を判断する知恵、物事の真実を見抜く力、深く考え、かつ実際に行動する力。そして何よりも神様を知る力。神様を知るとは、単に知識として知るのではなく、人格的に交わること、神様に深い信頼を置くことを意味しています。神様に深い信頼を置いた者として、神様を畏れ敬い、信仰が育まれます。箴言1章7節に「主を畏れることは知恵の初め」と記されているように、イスラエルにおいて王位に就く者には、他の国々と異なり、神様を知り、畏れ敬うことが最も重要な資質でした。イザヤは、イスラエルの王として必要なものすべてを満たしている、一人の王を見ています。その王は、神様を畏れ敬う霊に満たされています。神様の霊がとどまっているがゆえに、人間の目に見えるものや耳に聞こえてくるものに惑わされることがありません。人間の外見に惑わされることはなく、表面的な印象によって左右されることもありません。イザヤは「目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる」と語ります。その王は、社会的に弱い立場におかれている人のために、社会的な不正をただし、正義と公平を保ちます。不正を行う者、悪を行う者、神様に逆らう者に対しては、死刑の判決を下します。軍事力や政治的な力ではなく、御言葉によって正義と公平を保ち、正義と真実を身に帯びた者として判決を下し、すべての悪を取り除かれます。
その王が来られた結果として、人間の平和だけではなく、神様によって創造されたすべてのものに、平和がもたらされます。イザヤは語ります。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる」創世記1章29,30節に「神は言われた。『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう』そのようになった」と記されているように、神様が天地万物を創造された時、すべての動物は草食獣でした。動物が人に害を及ぼすということもありませんでした。イザヤは王が来られる時、神様が最初に創造された、調和ある平和な世界を見ました。「私の聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる」動物同士が殺し合うこともなく、毒蛇や蝮が無害であることは、同時に人間社会の平和を表しています。最初の人間アダムの犯した罪により、神様と人間の関係だけではなく、人間と人間、人間と他の生物との間にも、争いが生まれました。罪に満ちた人間社会が、自然界にも悪い影響を与えました。けれども、神様を知る知識の霊に満たされた王が来られて、神様を畏れることを喜びつつ、裁きと統治を行う時、神様への信頼と賛美が大地を覆います。神様が創造の御業を終えて、すべてを御覧になられた時「見よ、それはきわめて良かった」と記されているような世界が回復されます。
イザヤは、その王が来られた時の世界について語ります。「その日が来れば、エッサイの根は、すべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く」王はエッサイの根という、貧しく弱くみすぼらしい姿で来られるが、その王がすべての民の旗印として立てられ、新しい栄光が現されます。この、イザヤが語った王こそ「平和の君、イエス・キリスト」その御方です。もちろんイザヤは、イエス・キリストという御方について、具体的なことは何も知りません。いや、より正確に言えば、具体的なことについて神様から何も知らされていません。具体的なことは知らされないままに、彼はイエス様がお生まれになる700年も前に、神様によって「メシア預言」を語らされました。やがて救い主が来られる。その御方が来られると、全地は神様を知る知識によって満たされ、まことの平和が来るという、神様の約束を語りました。切り取られ、根を張る力もなく、今にも腐れ果てて、土に帰りそうな切り株から、一つの小さな細い芽が萌えいでます。弱々しい芽は若枝へと育ち、新しい生命をみなぎらせ、やがて緑豊かな葉を繁らせる、丈夫な若枝へと成長していきます。その若枝に神様の霊がとどまります。若枝こそ、救い主イエス・キリストです。神様を知る知識の霊に満たされた救い主が来られて、大地は神様を知る知識で満たされます。すべての者が、まことの神様を知るようになります。
ここで『一つの孤独な生涯』と題された、作者不詳の詩を引用いたします。「世に知られぬ村に、ユダヤ人を両親として生まれた一人の男がいた。母親は百姓女であった。彼は別の、これまた世に知られぬ村で育っていった。彼は30になるまで大工の小屋で働いていた。それから旅回りの説教師となって3年を過ごした。一冊の本も書かず、決まった仕事場もなく、自分の家もなかった。家族を持ったことはなく、大学に行ったこともなかった。大きな町に足を踏み入れたことがなく、自分の生まれた村から200マイル以上外に出たことはなかった。偉大な人物に普通はつきものの目を見張らせるようなことは何一つやらなかった。人に見せる紹介状なぞなかったから、自分を見てもらうことがただ一つの頼りであった。裸一貫、もって生まれた力以外に、この世との関わりをもつものは何もなかった。ほどなく世間は彼に敵対し始めた。友人達は皆逃げ去った。その一人は彼を裏切った。彼は敵の手に渡され、まねごとの裁判に引きずり出された。彼は十字架に釘付けされ、2人の盗人の間に立たされた。彼が死の寸前にある時、処刑者達は彼が地上で持っていた唯一の財産、すなわち彼の上衣を、くじで引いていた。彼が死ぬと、その死体は下ろされて、借り物の墓に横たえられた。ある友人のせめてものはなむけであった。長い19の世紀が過ぎ去っていった。今日、彼は人類の中心であり、前進する隊列の先頭に立っている。かつて進軍したすべての軍隊、かつて建設されたすべての海軍、かつて開催されたすべての会議、かつて統治したすべての王達??これらをことごとく合わせて一つにしても、人類の生活に与えた影響力において、あの孤独な生涯にとうてい及びもつかなかった、と言っても決して誤りではないだろう」イエス様の御生涯と、イエス様が2000年の間に世界に現された御業が、この詩に表されています。
力もなく、栄光もなく、人々から蔑まれている存在であった「エッサイの株」から、イエス様はお生まれになりました。当時の人々の目には、根を張る力もなく、今にも腐れ果てて土に帰りそうな切り株から萌えいでた、一つの弱々しい芽にしかすぎませんでした。長い間「救い主誕生」を待ち望んでいた、ユダヤの人々が期待するようなものは、何もありませんでした。イエス様がお生まれになった時のことは、ルカによる福音書2章1?20節、マタイによる福音書2章1?12節に記されています。かつてはダビデの町として輝いていたベツレヘムも、イエス様がお生まれになった頃は、ローマ帝国の支配の下にある、ユダヤの小さな町にしか過ぎませんでした。しかもイエス様の地上における母マリアと父ヨセフは、住民登録のためにガリラヤのナザレから、ベツレヘムに上って来ていましたが、泊まる宿屋さえありませんでした。旅先で生まれた幼子イエス様は、飼い葉桶の中に寝かされていました。この世的な権力は、何もありませんでした。けれども、神様の霊がとどまっていました。天使の御告げによって、イエス様の下へと駆けつけてきた羊飼い達。星に導かれて、はるばると旅をしてきた東方の占星術の学者達。彼らが見たのは、飼い葉桶に寝かされている生まれたばかりの幼子でした。父ヨセフと母マリアは、ユダヤのどこにでもいる平凡な若い夫婦でした。人間の目で見れば、この世的な常識で見れば「この幼子が救い主」ということは、疑わざるをえない状況です。しかし彼らは、そこにとどまっている神様の霊によって「この御方こそ、救い主である」と信じたのです。羊飼い達はイエス様に出会い、幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせました。そして彼らは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神様をあがめ、賛美しながら帰って行きました。占星術の学者達は、ひれ伏してイエス様を拝み、贈り物を献げました。
2000年前「平和の君、イエス・キリスト」は、ベツレヘムにお生まれになりました。けれどもいまだに、世界には争いが絶えません。イザヤを通して語られた世界は、現実のものとして来ていません。なぜでしょうか。それは世界中の人々が「平和の君、イエス・キリスト」を知る時が、まだ来ていないからです。「大地は主を知る知識で満たされる」時が、まだ来ていないからです。世界中の人々が「平和の君、イエス・キリスト」を知り、私の救い主として信じた時、イザヤを通して語られた世界が、神様によってもたらされます。キリスト者が1%にも満たない日本でも、多くの人々がクリスマスを祝うようになりました。クリスマスがイエス・キリストの御誕生を記念する日であることも、多くの人々が知っています。けれども、本当の意味では、イエス様のことを知らないのです。私の救い主として信じていないのです。今日「イエスは主なり」と信じていない方も、この場におられます。私達は、一日も早く、世界中の人々が、そして誰よりもあなたが「イエスは主なり」と信じ、告白する日を待ち望み、祈っています。「平和の君、イエス・キリスト」の旗印の下で、世界中の人々が一つとなり、まことの平和がもたらされる日の来ることを祈っています。

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