2007/01/02

06/12/31 神は約束を実現される T

神は約束を実現される
2006/12/31
ローマの信徒への手紙4:18_25
 改正教育基本法が成立しましたが、国民的な議論が不十分であり拙速であったと思われます。キーワードは個、個人から公、公人へと教育の視点が変わったところにあります。国に奉仕する人材を育成するのが教育の目的とされました。
 安倍首相には戦後体制からの脱却という明確な主張がありましたが、国民に未来への展望を語りかけることをしませんでした。野党は自社対決時代に先祖返りしてしまい、徹底抗戦を叫ぶだけでした。国民の抱く不安は無視されました。
 安倍首相は重要な発言は外国のメディアで語り、国民に対してメッセージを送ることを怠りました。教育基本法改正、憲法改正を持論にしていたのにも拘わらず、首相の国会での答弁は言語明瞭、意味不明の官僚的な答弁に終始しました。
 日本の法制度を根本から変えようとするのならば、国民的な議論の積み重ねが必要ですが、首相は意図的に曖昧路線を取り続けています。国会審議は自社対決時代に先祖返りしました。野党にニューリーダーが出現するのが待たれます。
 民主党は対案を提出したのにも拘わらず、小沢代表の対立軸を造り出す戦術に囚われて時機を逸しました。国民は未来へのビジョンを明確に語れるニューリーダーを求めているからです。国民不在の国会の混乱振りは子供に見せられません。
 改正教育基本法が国家への奉仕を前面に押し立てていますが、政治家、官僚は尊敬に価しません。愛国心を強要しても、愛するに価しない日本の現状がそれを拒否させています。政治家が尊敬に値する国家を建設することが必要です。
 かつて、政治家は全財産を使い果たし、井戸と塀しか残らないと言われた時代がありましたが、現代の政治家には豪邸が残ります。武士は食わねど高楊枝とは言いませんが、国家のために私心を捨てた政治家の出現が待ち望まれます。
 団塊の世代以上には愛国心が強調されると戦前の情景が浮かび上がります。北朝鮮の現状と日本の戦前の社会とが重なって見えるのです。戦前の反動から日教組の自由平等教育は個人を尊重する余り、個人の能力の差を認めませんでした。
 日教組の背景には社会主義がありました。社会主義は平等に貧しくする制度と言えますが、日教組の主張は平等に学力を付けない教育だと言えると思います。運動会で順位を付けさせないために手を繋いでゴールさせるようなものです。
 ゆとり教育は白痴教育とも言えると思います。週休5日制も教員を休ませるためであり、子供のためとは思えません。学校教育では学力を付けることができないから学習塾がはやるのです。多くの点で現代の教育を見直す必要があります。
 しかし、それらがどう教育基本法改正に結びつくのかが理解できないのです。むしろ読み、書き、算盤を徹底的に教え込み、思考力を鍛え、読書の習慣を身に付けさす方が先決です。愛国心、公共心は個人の教養が昇華したものだからです。
 子供は大人の世界の反映です。一国の政治に文化が反映するのですから、日本の文化レベルが低いことが分かります。マスコミ、言論界には政治を批判する能力が欠けています。野党、市民運動が政治的な力を持てないのが日本の課題です。
 唯一の神は『あなたを多くの民の父と定めた』との契約をアブラハムと結ばれましたが、アブラハムは99歳、妻サラは90歳になっていました。アブラハムとサラには子供がいませんでした。サラには月のものがなくなっていました。サラは子供ができる可能性のないので主の使いの言葉を聞き、密かに笑いました。
 しかし、アブラハムは『死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神』を信じました。アブラハムは人間の常識からすればサラとの間に子供が産まれるはずはあり得ないのに、なおも起こりえないことを信じたのです。
 アブラハムが神を信じたのは神が約束を成就してくださるか否かが全く分からないときでした。むしろ、神の約束、サラとの子供が与えられる約束は叶えられないと思われますのに、なおも人間的には根拠のない希望を抱き、信じたのです。
 アブラハムの信仰、無から有を創り出される神への信仰は神に良しされました。神は『あなたの子孫は大きな強い国民になる』と約束なされたように、彼を多くの国民の父となされたのです。アブラハムには約束の子イサクが与えられました。
 主がアブラハムと約束をなされた時には、彼は100歳近くになっており、肉体は既に衰えていました。彼は妻サラの身体も子供が宿せないことも知っていましたが、信仰は弱まりませんでした。神の約束を疑うことはありませんでした。
 アブラハムは既に人間の常識で判断する世界から神の御業を信じる世界へ移っていました。アブラハムは常識の世界に立ち戻ることはなく、神の約束を疑うことはありませんでした。むしろ信仰によって強められ、神を賛美したのです。
 神様はアブラハムの信仰を義とされました。神は約束なされたことを実現させる力を持たれるお方だと信じていたからです。アブラハムは人間の常識からすれば信じられない神の約束に疑問を挟まず、無条件に信じたので義とされたのです。
 『無条件に信じる信仰が義と認められた』という神様の言葉はアブラハムだけに語られたのではなく、彼の信仰を受け継ぐ者、約束の子である私たちにも語られているのです。神に義と認められるのは行いではなく、信仰であるからです。
 私たちの主イエスを死者の中から復活させたお方を信じれば、私たちも義とされるのです。主の十字架での死と甦りは、人間の世界の常識が通じない世界、信仰の世界を私たちに示してくれました。主は死の世界に打ち勝たれたからです。
 主は私たちの罪のために死に渡されました。主の御業が十字架での贖いの死で終われば、罪の赦しがなされたにすぎませんが、死者に命を与え、無から有を創造なさる神が主を甦らされたからこそ、私たちは永遠の生命に与れるのです。
 私たちが義とされるのは神の力を無条件に信じているからです。死者に命を与え、無から有を創造なさる神の力は主イエスを甦らせたことで明らかにされました。私たちに生ける主の御力を具体的に示されたのが復活の出来事なのです。
 クリスマス、イースター、ペンテコステが三大祝祭日ですが、初代教会はイースター、復活の出来事を先ず宣べ伝えました。復活こそ宣教の中心であったのです。復活の事実が恐れ戦く弟子達を奮い立たせ、殉教の道へ邁進させたのです。
 アブラハムは神の約束が成就される保証がなくても信じましたが、私たちには復活の事実が信仰の保証として与えられています。復活の主はトマスに脇腹に手を入れさせましたが、復活の事実は人を『見ないで信じる者』へと変えるのです。
 パウロは信仰の父アブラハムの『死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神』を信じた信仰が神に義とされたと主張しています。アブラハムがなぜ神様に選び出されたのかは分かりませんが、神様からの呼びかけに無条件に従いました。神様は彼に存在していなかった信仰を呼び出されたのです。
 アブラハムの信仰は常識が支配する世界から神の秩序が支配する世界へと彼を導き出したのです。常識の世界ではサラとの間に子供が産まれることは考えられませんが、それでも彼はなお主の御言葉が成就することを堅く信じたのです。
 アブラハムは何故だか彼自身にも分からないのですが、『神は約束したことを実現させる力をお持ちの方』だと確信できたのです。彼に約束の子イサクが与えられ、多くの民の父とされたのは信仰の結果であり原因ではないからです。
 しかし、神様に義とされるのは無条件の信仰なのです。ユダヤ人の信仰では割礼や律法を守れば唯一の神は応えてくださり、守らなければ禍を送られるのです。ユダヤ人の信仰は無条件の信仰から因果応報の信仰へと変わってきたのです。
 パウロは神がアブラハムに信仰を与えられた原点に遡り、無から有を創造なされる神、彼の心に信仰を生まれさせた神に注目しています。信仰は約束が与えられた時に生まれるものであり、成就されたから生まれるものではないからです。
 人間には神を慕う心がありますが、神からの語りかけがなければ信仰は生まれません。人間が慕う神は八百万の神々であり、オリンポスの神々なのです。人間に豊饒をもたらす神々なのです。唯一の神、契約の神とは本質的に違うのです。
 唯一の神はアブラハムを祝福の源とし、総ての民族の父とする契約、アブラハム契約を結ばれました。アブラハムは神が約束を実現なされることを信じましたが、神と契約を結んだ時点では約束が成就、実現する保証はありませんでした。
 神様が求められるのは約束の成就が保証されなくても信じる信仰なのです。私たちは復活、永遠の生命を信じていますが、人間の常識からすれば復活の保証も空手形かも知れません。現代科学の常識からすれば復活はあり得ないからです。
 しかし、主イエスは死者の中から復活させられたのです。このあり得ない事実を確認した弟子達は生まれ変わりました。イエス様の国で栄華を極めることのみを願い、十字架から逃げ去った弟子達は、再び果敢に伝道を始めたのです。
 彼らを変えたのは復活の事実です。初代教会は子なるキリストの復活の事実を宣べ伝えたのです。パウロは父なる神が主を復活させられた事実を信じれば義とされると主張しています。私たちはアブラハムの信仰に与る約束の子だからです。
 私たちがアブラハムと違うのは復活の事実を主が証しなされているからです。私たちには主の復活の事実が明らかにされ、その結果を既に知らされているからです。復活は現代では信じられない事柄ですが、昔は信じられた事柄でした。
 父なる神が主を死に渡され、復活させられたのは私たちに永遠の生命への希望を与えられるためです。信仰を復活という具体的な形で示されたのです。義とされるためには何を信じるべきか、何をなすべきかを復活を通して示されたのです。
 クリスマス、イースター、ペンテコステは信仰の基本です。主の誕生、十字架での死と甦り、聖霊降臨が教会の信仰を支えていますが、復活が信仰の原点です。復活、永遠の生命への望みが代々の信徒達に殉教さえ喜ぶ信仰を与えたのです。
 信仰の問題を話し合う時に必ず問題になるのは復活を信じられるか否かです。日本基督教団の中でも復活はなかったという牧師や信徒がいるぐらいですから、信仰のない人には受け入れられない概念だと思います。自然科学では復活はあり得ないと証明できませんが、学校教育の中では復活はあり得ないのが常識です。
 信仰を告白できない理由の第一に復活を信じられない点が上げられるます、信仰の問題と科学の問題とが混同されているからだと思います。日本人は科学が万能であると教え込まれて育つので、信仰の世界は非科学的だと教わるのです。
 宗教と科学の世界は対立してきました。ガリレオが宗教裁判で地動説を撤回した後に、「それでも地球は回っている」と言った話は有名です。自然科学の発展はニュートン力学が森羅万象を動かす真理だという錯覚を科学者に与えました。
 18世紀には理神論、神の啓示や奇跡を否定し、人間の理性が優先する神学が広がりましたが、現代ではそう信じる人はいません。理神論の根本的な誤りは信仰の世界、心の世界を科学の世界、理性の世界で理解しようとした点にあります。
 科学の世界で表されるのは宇宙のほんの一部にしかすぎません。科学の世界は基本的に人間が知覚できる世界に限っているからです。あくまでも人間の五感が頼りなのです。それに引き替え信仰の世界は人間の五感を超える世界だからです。
 聖霊の力を具体的に感じられる人もいるそうですが、普通の人間からすれば幻聴、幻覚としか思えません。預言者には時間、空間を越えて感じられるものがあるのでしょうが、神様から選ばれた者にのみ与えられる特殊な能力なのでしょう。
 このように私たちの経験の延長線上から考えればあり得ない世界、私たちに経験できない世界だからあり得ないと断定はできません。例えば20世紀の始めまで宇宙に始まりがあるのは荒唐無稽な非科学的な神話の世界の中の話でした。
 アインシュタインは相対性理論により時間、空間が歪むことを明らかにしました。相対性理論は宇宙の始まり、ビッグバンを予測していましたが、彼は最初は先入観に捉われてしまい、ビッグバン理論を議論に価しないと批判しました。
 復活を否定する根拠も肯定する根拠も時代により変化するものかも知れません。アメリカでは学校教育で神の存在を教えられませんが、信じる人が多数だそうです。学校教育では進化論が教えられますが、賛否はほぼ同数だそうです。
 信仰の世界は常識では判断できない世界です。アブラハムからイエス・キリストまで2000年、それから2000年が経ち、信仰は4000年間は保たれてきました。ユダヤから全世界へと広がりました。信仰は時間、空間の壁を越えたのです。
 私たちが経験できる時間はたかだか100年程度でしかありません。経験則に基づく判断に捉われると真理を見逃しかねません。アブラハムが神の約束、まだ見ることのできない世界を信じたような信仰が必要です。信仰は決断だからです。
 教会は旧い契約、旧約の世界の信仰を受け継いでいます。教会の信仰には4000年を超す歴史の積み重ねがあるのです。神を信じる、神から離れる、悔い改めを迫られる、回心するが繰り返されてきましたが、神様が中心の歴史なのです。
 歴史の流れに流されて神様を見失ってしまえば取り返しがつきません。科学は人間の生活を豊かにしましたが、むしろ心を貧しくさせました。物質的な豊かさの中にいながらも満たされない想いを満たしてくれるのは信仰の世界だけです。