2007/01/21

07/01/07 神を知る民として生きる M     

2007年1月7日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
神を知る民として生きる     ホセア書4章1_3節
讃美歌 76,2_152,411
堀眞知子牧師
主暦2007年を迎え、共に礼拝を守れますことを感謝いたします。1?3章まではホセアの結婚生活を通して、神様の御言葉が語られましたが、4?7章には、イスラエルの罪に対する神様の告発が記されています。ホセアは「主の言葉を聞け、イスラエルの人々よ。主はこの国の住民を告発される」という言葉で語り始めます。神様はイスラエルの罪を告発し、その罪の内容を明らかにされます。これは法廷、裁判を意識した言葉です。神様が検察官であり、同時に裁判官でもある法廷です。そして弁護士はいません。本来、御自分の民としてイスラエルを弁護される神様から、イスラエルは訴えられているのです。イスラエルを守って下さる神様に、北イスラエルが背いたからです。一方的に神様が告発され、判決を下します。第1の罪は「誠実さと慈しみにかけていること、神様を知らないこと」でした。第2の罪は「呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫がはびこり、流血に流血が続いていること」でした。第2の罪は、第1の罪がもたらす当然の帰結です。創造主であり、アブラハムを祝福の源として召し出され、イスラエルをエジプトから導き出し、モーセを通して「十戒」を与えられた神様に背いたがゆえに、神様との関係が破壊され、人間関係も破壊され、罪と悪がはびこっています。罪と悪に対する刑罰が語られます。「それゆえ、この地は渇き、そこに住む者は皆、衰え果て、野の獣も空の鳥も海の魚までも一掃される」刑罰は罪と悪に満ちている人間の世界を超え、自然界、動物の命にまで及びます。
北イスラエルの罪と悪は、宗教上の指導者である祭司に責任の一端がありました。イスラエルは他の国々と異なり、神様の民として生きる恵みと責任がありました。ですから宗教的指導者である祭司には、豊かな恵みと共に重い責任がありました。神様は祭司の罪を告発します。「もはや告発するな、もはや争うな。お前の民は、祭司を告発する者のようだ」申命記17章に「あなたの神、主に仕えてそこに立つ祭司あるいは裁判人を無視して、勝手にふるまう者があれば、その者を死刑に処し、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない」と記されています。祭司は神様に仕えている者です。彼らの判決に逆らうことは、神様に逆らうことでした。イスラエルは、神様に仕えている祭司を告発するような民になっていましたが、それは祭司自身にも責任がありました。イスラエルを宗教的に指導しなければならない祭司が、罪と悪に染まっていたのです。そもそも北イスラエルでは、最初の王ヤロブアムが、レビ人でない民の中から一部の者を祭司に任じました。祭司を選ぶ出発点から間違っていたのです。「昼、お前は躓き、夜、預言者もお前と共に躓く。こうして、私はお前の母を沈黙させる」祭司の奉仕は昼間に行われ、預言者は夜、夢の中で神様から啓示を受けたように語りました。ここでは「昼も夜も」つまり、いつも祭司はイスラエルを躓かせ、自分自身も躓いていました。「お前の母」とは、イスラエル国民のことです。宗教的に堕落した祭司の指導を受けている国民には、悲惨な結果がもたらされます。神様はホセアを通して「我が民は知ることを拒んだので沈黙させられる」と語ります。北イスラエル滅亡の原因は、神様を知ることを拒んだことにあります。単に神様を知らなかったからではありません。知らされているにもかかわらず、神様を知ろうとしなかったのです。「お前が知識を退けたので」と語られているように、祭司が神様の知識である律法を退け、神様を知ろうとしなかったのです。神様との契約関係の中に生きることを拒否したのです。結果として神様は「私もお前を退ける」と宣言され、さらに「私もお前の子らを忘れる」と宣言されました。御自身の民であるイスラエルを忘れる、と言われました。「私も」と語られるところに、神様の憤りと怒りが表されています。祭司が神様を知ることを拒否し、律法を忘れたので、神様は祭司はもちろん、イスラエルをも忘れると言われました。
7節以下にも、祭司の罪が記されています。ただ4?6節と異なり、神様は祭司に対して「お前」とは語りかけていません。1対1で語りかけることさえ拒否され「彼ら」というふうに、一般的な言葉遣いになっています。そして「祭司」は単数ではなく複数になっています。祭司は人数において増加しただけではなく、力と富も増加し、罪と悪も増加したのです。人数と力と富が増加することは、もともとは神様の祝福の徴でした。けれども神様の知識である律法を退け、神様を知ろうとせず、神様との契約関係の中に生きることを拒否した祭司達は、勢いを増すにつれて、ますます、神様に対して罪を犯しました。彼らは真の神様に仕えるのではなく、偶像に仕えたのです。カナンの土着の宗教に仕えました。と言って、彼らは主なる神様を、完全に忘れてしまったのではありません。多神教の罪に陥ってしまったのです。主なる神様にも、カナン土着の神々にも、同じように仕えたのです。けれども主なる神様は、モーセを通してはっきりと「あなたには、私をおいて他に神があってはならない」と命じられました。主なる神様もカナン土着の神々も、すべて一緒ということそのものが「十戒」に反することであり、神様を知ろうとしないことでした。神様は「私は彼らの栄光を恥に変える」と宣言されました。祭司は神様に仕える者であり、神様の民イスラエルにおいて、栄光ある務めであり、神様の栄光を現す職でした。けれども偶像にも仕える祭司は、自らの手によって栄光ある務めを恥へと貶めたのです。罪と悪に満ちている祭司達は、イスラエルが献げる贖罪の献げ物を貪っていました。贖罪の献げ物が多ければ多いほど、祭司達は豊かになるので、イスラエルが罪を犯すのを助長していました。神様は「祭司も民も同じようだ」と語られます。祭司が祭司としての務めを放棄し、民の模範となるどころか、同じように罪を犯しているのです。神様は刑罰を下します。神様の刑罰は、祭司達が抱いている望みを打ち砕きます。「私は、彼らを行いに従って罰し、悪行に従って報いる」これは、とても恐ろしい言葉です。もし神様が本当に「行いに従って罰し、悪行に従って報い」られたとしたら、私達は、とても耐えることができません。神様の前に常に正しく、罪も悪も犯さずに生きることは、私達になしえることではありません。罪人でありながらも、神様の憐れみによって生かされている私達に、もし神様が「行いに従って罰し、悪行に従って報い」られたとしたら、それは考えることさえ恐ろしいことです。けれども、ここで神様ははっきりと「行いに従って罰し、悪行に従って報いる」と宣言されました。神様の憐れみさえ受けられないほど、祭司達の罪と悪は極限に達していました。「彼らは食べても飽き足りることがない」あえて仏教的言い方をすれば餓鬼地獄です。「淫行にふけっても、子孫を増やすことができない」子孫が増えていくことが祝福の徴であった時代にあって、それは一族の滅亡を予告する言葉です。また淫行にふけるという言葉は、豊穣や多産を願うカナン土着の宗教、特にバアル信仰を意味しています。刑罰を下す理由として「彼らは淫行を続け、主を捨て、聞き従おうとしなかったからだ」と言われているように、祭司も民も、真なる神様に聞き従うことなく、異教の神々を求めて、彼らに仕えていました。
11?14節には、偶像崇拝の罪が具体的に告発されています。神様は第1に「ぶどう酒と新しい酒は心を奪う」と言われました。お酒そのものが悪いのではありません。心を奪われるような飲み方に問題があります。おそらく異教の神々の宗教的儀式の中で、ぶどう酒や新しい酒が用いられ、飲まれていたのでしょう。酒に酔ってしまうと、正しい判断力、思考力が損なわれます。偶像礼拝が罪であることも忘れ、偶像に対する判断力さえ失ってしまいます。いわば霊的判断力を損なわれてしまうのです。結果としてイスラエルは、真の神様の御心を求めないで、木や枝などに神意を尋ねようとします。淫行の霊、異教の神々の迷信に惑わされて、誤った神の託宣を求めようとします。木や枝に力はありません。自然をも支配される神様を離れ、何の力もない木や枝に頼ろうとします。真なる神様に礼拝をささげないので、山々の頂でいけにえをささげ、丘の上で香をたくことになります。その理由として、神様は「樫、ポプラ、テレビンなどの木陰が快いからだ」と言われます。神殿で厳しい神様の前に立つよりは、自然の中で偶像を礼拝する方が、イスラエルにとって快いからです。いわば人間中心の礼拝なのです。人間中心の礼拝は、宗教の名の下に性的不品行をもたらします。「お前たちの娘は淫行にふけり、嫁も姦淫を行う。娘が淫行にふけっても、嫁が姦淫を行っても、私は咎めはしない。親自身が遊女と共に背き去り、神殿娼婦と共にいけにえをささげているからだ」神様はモーセを通して「姦淫してはならない」と命じられました。性的不品行を厳しく禁じられているにも関わらず、ここでは「娘が淫行にふけっても、嫁が姦淫を行っても、私は咎めはしない」と言われています。それは淫行にふけり、姦淫を行っている女性達の罪の原因が、彼女達と言うよりも、祭司や指導者にあるからです。上に立つ者が偶像礼拝という不品行の罪を犯しているがゆえに、女性達が罪を犯しても、それを罪と感じないのです。咎められるべきは、祭司や指導者たちです。同時に「私は咎めはしない」という言葉の中には、もはやイスラエルに対して無関心とさえ言える、神様の姿勢が現れています。最後に神様は断言されます。「悟りのない民は滅びる」滅びへの道を歩んでいるイスラエルへの宣告です。
北イスラエルに対する告発を語った後、神様はホセアを通して南ユダに語られます。「イスラエルよ、たとえお前が遊女であっても、ユダは罪を犯すな」北イスラエルが異教の神々に仕えていても、南ユダは罪を犯さないように、との警告が発せられます。「ギルガルに赴くな、ベト・アベンに上るな。『主は生きておられる』と言って誓うな」ギルガルとベト・アベンは、北イスラエルとの国境に位置する町でした。北イスラエルの影響を受けやすいので、これらの町へ行かないように警告されています。また「主は生きておられる」と言って誓うなというのは、一方では異教の神々を礼拝しながら、他方では「主は生きておられる」と言って誓う罪を犯すな、という意味です。先にも述べましたように、神様は「あなたには、私をおいて他に神があってはならない」と命じられました。真なる神様は、多神教そのものを許されていません。他の神々をも礼拝することは、唯一なる神様に対する大きな罪なのです。
「まことにイスラエルは、強情な雌牛のように強情だ」という言葉には、神様のため息が聞こえます。イスラエルは神様に対して反抗的であり、強情な雌牛のように御しがたい存在です。「どうして主は、彼らを小羊のように、広い野で養われるだろうか」という言葉には、ホセアのため息が聞こえます。強情な雌牛のようなイスラエルを、神様は小羊のように養われています。小羊のように広い野で養われながら、イスラエルは偶像のとりこになっています。ホセアは17節から、イスラエルをエフライムと語ります。それは北イスラエルの最初の王ヤロブアムがエフライム族出身であったこと、北イスラエルの中でエフライム族が中心的地位を占めていたことによります。偶像の虜になっているイスラエルに対し、神様は「そのままにしておくがよい。彼らは酔いしれたまま、淫行を重ね、恥知らずなふるまいに身を委ねている。欲望の霊は翼の中に彼らを巻き込み、彼らはいけにえのゆえに恥を受ける」と宣告されます。「そのままにしておくがよい」というのは、彼らの自由を認める言葉ではありません。北イスラエルを見捨てた言葉です。そして、欲望の霊が北イスラエルを滅亡へと引き込もうとしているにもかかわらず、北イスラエルに対して、神様は救いの御手を伸ばされないのです。
神様を知らされているにもかかわらず、神様から選ばれているにもかかわらず、強情な雌牛のように神様を知ろうとしない、神様を拒む。そのような民に、神様は200年間、忍耐に忍耐を加えてこられました。けれども今や、神様の忍耐も切れ、北イスラエルは滅亡へと歩みを進めています。これは、2700年以上前の北イスラエルのみではありません。現代のキリスト教会も、絶えず心を傾け、耳を傾け、目を見開き続けて注意しなければならないことです。教会は「イエスは主なり」と告白した者の群れです。父・子・聖霊なる三位一体の神を唯一の神と信じる群れです。唯一なる神様を信じる群れですが、日本に住む私達は、絶えず異教の神々に取り囲まれています。その中にあって、唯一なる神様を信じ続けることは、決してたやすいことではありません。
「イエスは主なり」と告白しながら、他の神々、仏教や神道をも信じることは、もともと不可能なことです。「イエスは主なり」と告白し、洗礼を受けた時から、私達は異教世界の中に遣わされたキリスト者として、証の生活を送る恵みをいただき、同時に責任を委ねられています。私達は異教社会、それも宗教的にきわめて曖昧なと申しますか、曖昧さが寛容さとして好意を持たれる社会の中で、唯一なる神様を信じる群れです。一神教に対する誤解、それも知識人といわれる人々が大きな誤解を持ち、新聞などで誤った知識の下に、一神教を堂々と非難しています。知識人の非難は、間違っているにもかかわらず正論として認められ、日本社会の中で常識になっています。そのような社会の中で、真の神様を知らされたことは、神様の奇しい御業としか言いようがありません。「感謝」という言葉以外、何も出てきません。しかし、それは同時に、神様を知る民として生きる使命を負わされています。神様を知らされた恵みは、神様を知る民として生きる使命を常に伴います。最初に「主暦2007年を迎え」と申しました。正確な歴史から言えば多少のずれはありますが、父なる神様が御独り子イエス様を地上に遣わされて、2007年の時が流れ、教会が生まれて1980年近い時が流れました。主の再臨の日まで続く教会の歴史の中に、この瀬戸キリスト教会が入れられた。それは、真の神様を知る民として生きる群れの中に加えられたことです。新しい年が始まりました。この年も、神様を知る民として生きる歩みを、神様によって整えていただきましょう。そして一人一人が、異教社会の中にあって、主の証人として用いていただけるよう、祈りましょう。