2007/11/27

07/09/09 主の御名によって歩む M 

 2007年9月9日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
主の御名によって歩む     ミカ書4章4-8節
讃美歌 54,525,502
堀眞知子牧師
ハランにとどまっていたアブラハムに、神様は「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」と命じられ、同時に「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」と約束されました。彼は神様の御言葉に従って、カナン地方へと向かいました。カナンにはカナン人が住んでいたにもかかわらず、神様は75歳にして子供のいないアブラハムに「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束されました。その後、イスラエルはエジプトでの奴隷生活、出エジプト、荒れ野の40年の旅の後にカナンに入国し、アブラハムへの約束から約750年後、土地を与えられました。王国も建てましたが、それは南北に分かれ、ミカが今日の御言葉を語った時代、北イスラエルはアッシリアによって滅亡し、南ユダも攻撃を受けようとしていました。それはイスラエルが、神様の掟と契約に対して忠実ではなかったからです。神様の契約の民として、ふさわしい歩みをしなかったからです。1-3章で、律法に背き、弱者を虐げている富裕な民や政治的・宗教的指導者の罪を告発し、厳しい裁きを語られた神様は、4-5章で「終わりの日の約束」について語られます。イスラエルは契約に忠実ではありませんでしたが、神様は契約を誠実に守られ、御自分の定められた時と方法によって、その御業を明らかにされます。
1-3節は、イザヤ書2章2-4節と細かい表現を除けば、同じ内容が記されています。以前に申しましたように、ミカとイザヤは、時代も国も重なっています。おそらく神様が、同じ御言葉をもって2人の預言者に臨んだと考えられます。ミカは語ります。「終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい、多くの国々が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私達に道を示される。私達はその道を歩もう』と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」「終わりの日」それは特定されない未来です。語ったミカ自身も、それがいつなのかは分かりません。けれども、終わりの日に何が起こるかを、ミカははっきりと示されました。彼は、神様の臨在を象徴しているエルサレム神殿が建つ、シオンの丘が隆起する幻を見ました。他のどの山々よりも高くそびえ立つのを見ました。またイスラエルだけではなく、諸国の民が大きな河の流れとなって、エルサレム神殿に向かうのを見ました。異邦人が真なる神様を求め、真なる神様の御言葉を信じ、真なる神様の示される道に従って歩もうとして、エルサレム神殿に集まる。そのような時が来ることを示されました。神様の教えがエルサレムから全世界に語られ、世界中のすべての人々が真なる神様を信じた時、神様の裁きが下ります。それは罰を下すのではなく、裁きによって平和が訪れます。遠くの国々の問題も、国と国の争いも、神様の裁きに服します。主権者である神様の裁きに、すべての国々が、すべての人々が従う時が訪れます。剣が鋤となり、槍が鎌となって、武力による争いがなくなります。
平和が訪れた時「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もない」と神様は約束されました。列王記上5章に「ソロモンの在世中、ユダとイスラエルの人々は、ダンからベエル・シェバに至るまで、どこでもそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下で安らかに暮らした」と記されていましたが、終わりの日にはイスラエルだけではなく、全世界に平和が訪れます。パレスチナにおいて、ぶどうといちじくは一般的に栽培されていた果樹でした。創世記9章に、箱舟から出たノアがぶどう畑を作ったことが記されていました。ぶどうは、春には新芽が出て葉が茂り、初夏に花が咲き、秋には実が熟しました。いちじくは、初夏に新しい枝が伸び、そこに花芽が発達し、ぶどうと同じように秋には実が熟しました。日差しの厳しいパレスチナにおいて、夏に木陰を作るぶどうといちじくの木の下は、人々の憩いの場でもありました。「自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座」るということは、神様から与えられた嗣業の地が守られていることであり、豊かな実りが与えられていることでした。ミカが預言者として召されて約8年後、紀元前722年、北イスラエルはアッシリアによって滅亡し、南ユダも攻撃を受けようとしていました。平和とは、ほど遠い現実がありました。200年前に南北に分裂し、北イスラエルとは対立していた時代もあったとはいえ、同じイスラエル民族でした。北イスラエルがアッシリアによって滅ぼされたことは、南ユダに暗い影を落としていました。「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もない」という神様の約束は、イスラエルにとっては信じがたいものでした。北イスラエルは、すでに嗣業の地を失い、民はアッシリアへ連行されました。イスラエルの歴史は約束の地カナンを得るための戦い、約束の地カナンを守るために周辺諸国との戦いの連続でした。最初に述べましたように、神様はアブラハムに「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束されましたが、実際に土地を与えられたのは750年後でした。カナンの7つの民族を滅ぼした末に、与えられた土地でした。カナン定住後も、アンモンやモアブやミディアンの攻撃を受けました。特にペリシテとの戦いは、ダビデの時代まで続きました。ダビデが周辺諸国を制圧した後は、彼の息子達の争いがありました。争いがなく「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座」っていたのは、ソロモンが治めていた40年位の間でした。ソロモンの死後、南北に分かれる争いがあり、その後も両国の争いは続き、周辺諸国のアラムやシリアとの戦いもありました。イスラエルは国の内外において、絶えず戦っていました。ですから「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もない」と万軍の主の口が語られても、イスラエルは即座に信じることはできませんでした。
信じられないイスラエルに向かって、ミカは語ります。「どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。我々は、とこしえに、我らの神、主の御名によって歩む」このミカの言葉は、一見すると「もろもろの民は大河のようにそこに向かい、多くの国々が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私達に道を示される。私達はその道を歩もう』と」という約束と相反する内容に受け取れます。けれども諸国民が、真なる神様の御許に集められ、その御言葉に従って歩むなら、神様はただ御一人です。ミカは、ここで「我々は、とこしえに、我らの神、主の御名によって歩もう」と呼び掛けているのです。イスラエルはもちろん、異邦人も主の御名によって歩みます。「主の御名によって歩む」それは自分の思いではなく、神様の御心に従って歩むことです。神様の御心に従って歩もう、とミカはすべての人々に呼び掛けています。
終わりの日が来れば、どのような世界が開かれるのか。神様は約束されます。「私は足の萎えた者を集め、追いやられた者を呼び寄せる。私は彼らを災いに遭わせた。しかし、私は足の萎えた者を、残りの民としていたわり、遠く連れ去られた者を強い国とする。シオンの山で、今よりとこしえに、主が彼らの上に王となられる。羊の群れを見張る塔よ、娘シオンの砦よ、かつてあった主権が、娘エルサレムの王権が、お前のもとに再び返って来る」ここで「足の萎えた者」とは、身体障害者ではありません。他国に追いやられ、自分の足でシオンに帰る力のない者です。「私は彼らを災いに遭わせた」と語られているように、神様がイスラエルに災いをもたらしました。それは神様の契約に、イスラエルが忠実ではなかったからです。罰として、神様がイスラエルを嗣業の地カナンから他国へ追いやり、離散の民としました。けれども終わりの日に、神様は離散の民を呼び寄せます。自分の足でシオンに帰る力のない者を、残りの民として神様が救いの御手を差し伸べられます。残りの民とは、国家的・民族的危機の中にあって生き残った民、神様が生き残りの道を開いて下さった人々です。残りの民によって、新しい世界が再建されます。彼らは足の萎えた者であり、力のない者であり、いわば社会的弱者です。神様は社会的弱者によって強い国を造られます。それは人間の力ではないことを意味しています。神様の御力によって、強い民とされ、神様が彼らの王となられます。イスラエルは、しばしば羊にたとえられます。羊の群れであるイスラエルを、神様が守って下さいます。そしてシオンの丘に、イスラエルが再建されます。
ミカは「終わりの日の約束」について語ると共に、イスラエルが経験しなければならないバビロン捕囚と、そして矛盾するようですが、捕囚がもたらす救いについても語ります。「今、なぜお前は泣き叫ぶのか。王はお前の中から絶たれ、参議達も滅び去ったのか。お前は子を産む女のように、陣痛に取りつかれているのか。娘シオンよ、子を産む女のように、もだえて押し出せ。今、お前は町を出て、野に宿らねばならない。だが、バビロンにたどりつけば、そこで救われる。その地で、主がお前を敵の手から贖われる」バビロン捕囚は、この預言から約130年後のできごとですが、確実に起こる事実として語られています。紀元前586年、南ユダはパビロニアによって滅ぼされ、貧しい農民を除いて、民はバビロンへと連行されます。王も参議もいない、南ユダを治める指導者がいなければ、国として立ちゆくことはできません。その苦しみは、陣痛に苦しむ産婦のようでした。南ユダの苦しみは続きます。国を失った民としてエルサレムを出て、野宿をしなければなりません。約束の地をはるかに離れたバビロンで、捕囚の民として暮らさなければなりません。けれども神様は「バビロンにたどりつけば、そこで救われる。その地で、主がお前を敵の手から贖われる」と約束されました。国の滅亡、異国での捕囚生活は、人間に絶望をもたらしますが、神様は絶望の中にあって希望を与えられます。イスラエルにとって苦難の地が、神様によって救いの地へと変えられ、イスラエルは敵であるバビロニアの手から、神様によって贖われるのです。
ミカの時代、南ユダはアッシリアやエジプトから攻撃を受けようとしていました。将来的にはバビロニアによって滅ぼされます。南ユダに対する諸国の目が語られます。「今、多くの国々の民がお前に敵対して集まり『シオンを汚し、この目で眺めよう』と、言っている」諸国が南ユダに敵対し、攻撃を仕掛けようとしていました。けれどもミカは語ります。「だが、彼らは主の思いを知らず、その謀を悟らない。主が彼らを麦束のように、打ち場に集められたことを。娘シオンよ、立って、脱穀せよ。私はお前の角を鉄とし、お前のひづめを銅として、多くの国々を打ち砕かせる。お前は不正に得た彼らの富を、主に、蓄えた富を、全世界の主にささげる」神様はエルサレムを破壊させるために、諸国民を集めているのではありません。むしろ諸国民をエルサレムに集めることは、麦束を打ち場に集めるようなものでした。彼らを裁くために、エルサレムに集められました。神様の民であるイスラエルは、エルサレムに集められた諸国民を、打ち場の麦束のように脱穀します。動物が戦う時に自らの武器とする角やひづめが鉄や銅となる、それはイスラエルの攻撃力の強さを意味します。そしてイスラエルが滅ぼした国々の富が、すべて真なる神様にささげられる時が来ます。主なる神様はイスラエルだけの神ではなく、全世界の神となり、世界中の人々が神様を礼拝する時が来ます。
イエス様は伝道生活を始めるにあたり「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。十字架の死によって、私達の罪を贖い、流された血によって新しい契約を立てて下さいました。御復活によって永遠の生命、神様との契約の中に生きる生命を与えて下さいました。そして復活された後、弟子達に「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と命じられました。さらに復活の主イエスが天に上げられた時、御使いは弟子達に「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じありさまで、またおいでになる」と言いました。イエス様によって、神の国は来ましたが、完成するのは主イエスの再臨の時です。私達キリスト者は「すでに」神の国は来たが「いまだ」完成していない時の中に生かされています。先にも述べましたように「終わりの日」それは特定されない未来です。キリスト者にも、いやイエス様御自身にも、それがいつなのかは分かりません。けれども、終わりの日に何が起こるかを、私達はミカ以上にはっきりと示されています。主イエスが再び来られる日であり、主イエスによる裁きが行われる日であり、私達キリスト者が肉をもって復活する日です。
その日までキリスト者が、教会が、いかに歩むべきか。いや、歩ませていただくのか。ミカを通して語られたように、私達には「主の御名によって歩む」道が備えられています。「主の御名によって歩む」それは「イエスは主なり」という信仰告白に基づいて生きる生活です。他の何ものをも神として崇めない。主イエスを通して明らかにされた父・子・聖霊なる三位一体の神を唯一の神様と信じて生きる生活です。現実がいかに困難であろうとも、共にいます神様を信じ、絶望の中にあって、なお希望を失わない生き方です。この世の価値観に囚われず、与えられた賜物に感謝して生きる生活です。賜物は、必ずしも私達にとって良いものばかりではありません。人間はできれば健康で、家族に囲まれて、ある程度の経済力がある生活を望みますが、神様が与えられる賜物は、時として病であり、障害であり、家族との別れであり、貧しい生活です。けれども、人間の目から見れば困難と悩みと絶望の中にもなお、いやその中にこそ、神様の御手が働かれ、御業が現されます。私達の思いや願いではなく、神様の御心が明らかにされ、神様の御業がなされていきます。「主の御名によって歩む」道は、容易な道ではありません。しかし、神様がアブラハムに約束されたように、私達異邦人も信仰によって、祝福に入ることが赦されました。神様との契約関係の中に生かされている。神様が共にいて下さる。これに優る力、喜びは存在しません。すべてを失っても、なお真なる神様が共におられる。その恵みに感謝し、希望と共に「主の御名によって歩」ませていただきましょう。