2007/11/27

07/09/16 同胞のためならば見捨て去られても良い T

同胞のためならば見捨て去られても良い
2007/09/16
ローマの信徒への手紙9:1~5
 9月10日は世界自殺予防デーです。今年から9月10日からの一週間が自殺予防週間と定められました。日本における自殺者数はバブル崩壊に伴い急増し、2万5千から3万人を超えるようになり、現在も3万人を超しています。
 バブル崩壊により中年男性の自殺者が急増しました。倒産、リストラによる経済的な原因によるものですが、雇用状況が改善しても労働強化による30代の自殺が増えています。自殺者の多くは鬱病にかかっていたと推測されています。
 世間では「死ぬと言っている人間は自殺しない」と言われていますが、多くの自殺者は自殺する前に周囲の人に「死にたい」と言っているそうです。社会は自殺者に対して関心を払いませんでしたが、自殺を防げる場合もあります。
 北欧の社会ぐるみで自殺対策に取り組み、自殺者数を減らした経験からすれば、日本も自殺対策を進める必要があります。東神大時代に生命の電話に関わったことがありますが、民間のNPO法人などが地道な活動を積み重ねています。
 しかし、行政の関心は薄かったのですが、10年間も3万人の大台を超し続ける現状に危機感を抱いたようです。自殺希望者への相談窓口を拡げ、自殺者への理解を訴えていますが、現実に自殺しそうな人に対する対応が分かりません。
 私たちに考えられる手段の第一は精神科の受診を進めることでしょう。自殺者の多くは鬱病ですから専門的な治療が必要です。鬱病に励ましが禁物なのは常識ですが、励ましの言葉をかけてしまいますますから、素人療法は危険です。
 患者の視点から見れば、鬱病は脳の病気であり、心の病気です。ストレスに心が耐えられなくなり、脳の機能が侵されてしまうからです。鬱病は心の風邪とも言われるように誰もが罹る病気ですから、早期発見、早期治療が肝要です。
 脳が正常に機能しないのですから、薬により脳の機能を正常に戻さない限り何をしても無駄です。現在では入院を選択肢に入れながらも、外来通院による薬物治療、投薬も可能です。脳の機能が回復すれば全く違う世界が開けます。
 私は6年前に抗うつ剤パキシルに出会いました。脳の機能が質的に改善しました。寝たり起きたりの生活、毎週2~3回も点滴に通う生活が劇的に変わったからです。毎日の生活が規則正しくなり、1000冊を超える本を読破しました。
 脳の機能が改善されるにつれて肉体も改善されてきました。幽霊のような生気のない姿から現在のような気力に溢れた姿に変わりました。脳が生命の源であることを実感させられました。錠剤一個により人生が変えられたのです。
 私にはアルコール依存は鬱病の症状の一つのように思えます。脳にアルコールの薬理作用が刷り込まれるからです。半年間ぐらいの断酒なら何回も実行しましたが、鬱になると体がアルコールを求め、再飲酒をしてしまうからです。
 主治医は「病が飲ます」と庇ってくれましたが、その言葉に甘えてしまいました。抗鬱剤はアルコールを飲んでいる限り効きませんから、断酒ができなければ治療は難しいと思います。鬱病、薬物依存、自殺は相関関係が深いのです。
 パウロはユダヤ人同胞の多くがキリストの新しい契約から漏れている現状を心から嘆いています。唯一の神はユダヤ人との間に四つの契約を結ばれました。第一の契約はノアの洪水の後のノア契約です。天に架かった虹は人間を滅ばさないという約束でした。第二の契約はアブラハム契約です。その徴は割礼でした。第三の契約はシナイ契約です。モーセを通して律法が与えられました。第四の契約は主の十字架による新しい契約です。罪の贖いと甦りの命への約束ですが、主が選び分かたれた民、ユダヤ人は主の新しい契約を拒否したのです。
 パウロはユダヤ人同胞の救いを誰よりも願っています。彼はかつてユダヤ教の教師ラビでしたから同胞の救いに命を賭けていたのです。復活の主により回心させられた後でも彼の想いは変わりませんでした。パウロがユダヤ人を拒否したのではなく、ユダヤ人が彼を拒否したのです。パウロが異邦人伝道者とされたのは神の選びですが、ユダヤ人への伝道の夢を捨てたのではありません。
 教会の歴史を考えればパウロが異邦人伝道者として召し出されたから主の福音が異邦人へ伝わり、ヨーロッパに教会が建てられ、主の世界宣教命令が実現したのです。パウロの「信仰により救われる」、信仰義認の教理がキリスト教を世界宗教に発展させたのですが、ユダヤ人同胞の救いも忘れてはいません。主はアブラハムを選ばれ、アブラハムの子孫、ユダヤ人を選ばれたからです。
 パウロはユダヤ人同胞のためならばキリストから離れ、神から見捨て去られても良いと思っているくらいなのです。イスラエルの民、ユダヤ人には『神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束』が与えられているからです。パウロにはアブラハムの子孫は彼の信仰を受け継ぐ者であると思いながらも、肉による血縁関係も無視できないのです。神の選びは血縁関係に囚われないのを彼自身も理解しているのですが、ユダヤ人への選びも確信しているからです。
 神がアブラハムを選ばれたのは人間の想いを超えた神の憐れみです。アブラハム側には神に選ばれる理由はないからです。イサクの双子の子供から弟ヤコブが主に選ばれ、兄エサウが捨てられたのは神の自由な選びによる神の計画だからです。しかしパウロは神の計画によりユダヤ人が神に選ばれ、神に捨てられたとは思われないのです。彼はユダヤ人への選びを探し求めているからです。
 パウロの思考はキリストがアブラハムの子孫、ユダヤ人である点に飛躍します。神の救いの歴史はアブラハムから始まりました。ユダヤ人は唯一の神を信じたのです。神に選ばれた徴として割礼、律法が与えられました。アブラハムからキリストまでの2000年間、多神教の世界、豊饒の神々が生きている世界の中でユダヤ人は一神教の世界、唯一の神ヤーウェへの信仰を守り通したのです。
 神はユダヤ人を救い主メシア、キリストの到来に備えておられましたが、ユダヤ人は御子を十字架に架けてしまいました。ユダヤ人は神の愛を拒絶したのです。神がユダヤ人を捨てられたのではなく、ユダヤ人が神を捨てたのです。ユダヤ人が主の愛に背いた事実を嘆く彼の想いは、神の痛みでもあるのです。
 しかし歴史を支配なされる主は、ユダヤ人の背信をむしろ救いの御業、主の十字架、復活に結実なされたのです。ユダヤ人への選びは主の十字架をもたらしましたが、多くのユダヤ人が救いの御業から漏れているのが悲劇なのです。
 パウロのユダヤ人同胞を思う気持ちはユダヤ人には理解されませんでした。パウロの伝道を妨げたのは異邦人ではなくユダヤ人だったからです。ローマはコスモポリタンな国、民族、宗教に囚われない国でした。多神教、多文化、多言語国家でしたから、一神教であるキリスト教に違和感を覚えていましたが、ローマ法はパウロ、初代教会の伝道活動をユダヤ人の迫害から保護しました。
 パウロの伝道の対象はユダヤ人同胞から異邦人に変わりましたが、ユダヤ人の救いは彼の生涯の課題でした。紀元70年にエルサレムが陥落し、ユダヤ人教会は地上から消え去りました。イスラエル共和国が1948年に建国されましたが、主イエスをメシアとして認めないユダヤ教徒はメシアの再臨を待ち望んでいるそうです。彼らが待ち望むメシアはダビデ王の再臨、この世の王のようです。
 ユダヤ人はパウロが望んだようには回心しませんでしたが、ユダヤ人の救いを考え続けた彼の思考は信仰による義、パウロ神学に結実しました。異邦人には律法、割礼からの自由が必要であり、ユダヤ人には神に選ばれた民としての自覚が必要であったからですが、ユダヤ人の多くには理解されませんでした。 ユダヤ人が主の福音を否んだために福音は異邦人に宣べ伝えられましたが、異邦人からユダヤ人へ福音が宣べ伝えられる時がくるとパウロは考えていました。パウロは終わりの日には総ての人、ユダヤ人、異邦人も救われると考えていました。パウロはある者は神に救われ、ある者は拒絶されるかのように議論を進めていますが、神の意志によれば総ての人が救われねばならないのです。
 パウロは神が主権者、創造主であり、人間は被造物に過ぎないことを強調していますが、ユダヤ人は律法を守りさえすれば救われると信じ、やがて律法を守る者を神は救わねばならないと思い上がるようになりました。ユダヤ人が唯一の神と交わした契約は「主はユダヤ人の神となるから、ユダヤ人は律法を守らなければならない」という一方的なものでしたから、契約の主体はあくまでも主にあります。契約を実行するかしないかは主のみが判断なさることです。
 ユダヤ人の律法に対する思い上がりは、人間が陥りやすい罠でもあります。律法主義、行いによる義は「これだけ努力をしたから、神はそれに応えるべきである」という人間の思い上がりを表しているからです。私たちの心の片隅には律法主義が息づいています。むしろ信仰義認、信仰による義、「救われるためには何もしなくても良い」は私たちを戸惑わせるのではないでしょうか。
 ファリサイ派のラビであったパウロは誰よりも律法に厳格な生き方をしてきました。キリスト者を気が狂ったように迫害をしたのです。パウロは律法においては欠けのない者でしたが、救いを体験することはできませんでした。ダマスコの途上で復活の主に出会い、回心を体験したから救いを実感できたのです。
 復活の主は突然パウロに語りかけられたのです。それは主から与えられた一方的な恵みでした。主に敵対していたパウロさえ主は救われたのです。パウロは「救われるためにはなんにもしなかった」のですが主は彼を救われたのです。
 キリストを迫害する者がキリストを宣べ伝える者へと変えられたのは主の愛です。救われるのに値しない者が救われたのは奇跡でした。パウロの身に起きた奇跡がユダヤ人、異邦人、さらに総ての人に起きると彼は確信したのです。
 パウロの神に見捨て去れてもよいという決意、アナセマは恐ろしい意味を持つ言葉です。例えば異教徒の町が占領されれば総てのものが汚れていると見なされ、完全に消滅し尽くされるのです。真の礼拝から人を誘惑しようとするならば神から見捨て去られ、憐れまれ、惜しまれることなく抹殺されるのです。
 パウロが全生涯を通して証しようとしたのはキリストの愛です。神の愛から誰も引き離されることはないという事実ですが、パウロはユダヤ人同胞が救われるためならば、神から見捨て去られても良いと告白しているのです。総ての人が救われるのを信じながらも、神から見捨て去られる覚悟をしているのです。
 私たちが住んでいる日本は信教の自由が保障されている点では2000年前のローマに似ています。キリスト教徒は人口の1%未満ですから初代教会の時代とほぼ同じでしょう。同胞である日本人も福音に触れる機会はあっても、無視し続ける人がほとんどです。信徒の家庭でもクリスチャンホームはごく少数です。
 多くの信徒の願いは家族伝道です。配偶者、子供の救いを願うのは同じです。家族のためならば神から見捨て去られても良いと思う気持ちも同じでしょう。私たちには神の選びは分かりませんが、パウロの終わりの日には総ての人が救われるという確信は私たちの心に平安をもたらします。主の教会、キリスト者を迫害したパウロ、熱心なユダヤ教徒であるパウロさえ主は救われたからです。
 しかし私たちが家族に願うのは終わりの日ではなく、現在の救いです。家族伝道が難しいのは共通の悩みです。今年の夏期伝生は二人とも四代目のクリスチャンでしたが、二人に共通していたのは日曜日に教会に連れて行かされるのが苦痛であったことでした。教会に行くのが義務でなくなったら教会を離れたのですが、成人してから教会に自覚的に通うようになったようでした。富田神学生のお母さんはお父さんとお父さんの親族をクリスチャンにしたそうです。
 文明開化のために日本に文明を伝えたのは雇われ外人でしたが、彼らはクリスチャンでしたし、宣教師が多く含まれていました。和魂洋才が明治政府の基本方針でしたが、日本にも教会が建てられました。先の戦争中はキリスト教は弾圧されましたが、戦後アメリカ軍と共にアメリカから宣教師、教会設立資金が送られてきました。キリスト教ブームが起きましたが、徒花に終わりました。
 教会の信仰ではなく個人の信仰が重視されたから信仰の継承がされなかったのかも知れません。信仰の家族による積み重ねが見られないのが日本の教会の欠点です。赤ちゃんの時から信仰に触れさすのが家族伝道の基本です。教会学校育ちの人間は例えイエス様を信じなくても、神は一人だと連想するからです。
 教会に通った経験は子供の頭に刷り込まれます。何かの機会に再び教会に召された例をしばしば聞かされます。特に艱難、試練に出会った時に教会へ足を運ぶ人は少なくありません。順調な人生が続いていても空しさを覚える人も少なくありません。『あなたの若い日にあなたの創り主を覚える』のが最善です。
 信仰は四代以上継承されなくては身に付かないのかも知れません。戦後60年しか経たない日本の教会が未成熟なのも仕方がありませんが、着実に伝道を積み重ねるしかありません。日本の教会はまだ初代教会のレベルですが、初代教会から世界宣教命令が実現されたように、日本の伝道も前進されるでしょう。

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