2007/11/27

07/09/23 神の自由な選び T 

神の自由な選び
2007/09/23
ローマの信徒への手紙9:6~13
 中教審がゆとり教育から路線転向をしましたが、ゆとり教育への反省が不十分です。詰め込み教育からの脱却を目指し、落ちこぼれ救済の意味を持たせたゆとり教育は放任主義教育を助長し、教職員による無責任体制を招きました。
 つまずき、落ちこぼれ対策としては能力別クラスを導入すべきでした。特殊学級卒業の知的障害者でも聖書を音読するだけの能力を持つ人は少なくありませんから、訓練次第では読み、書き、算盤を身につけることができるはずです。
 日教組が主導した平等主義教育が教育弱者から教育の機会を奪い、能力のある者からも能力に応じた教育を受ける機会を奪ったのです。私学の隆盛は人間の能力には差があるという常識が通じない公教育に対する父兄の不信任状です。
 平等教育を前提とした現在の公教育のシステムは既に崩壊しています。競争社会を生き抜くためには自己努力が必要ですが、読み、書き、算盤ができなければ自己研鑽の機会すら生かせませんから、教育のルネッサンスが必要です。
 一方、能力のある者の能力を発展、展開させる教育も必要です。幼少時の教育が子供の将来を左右させますから、低レベルの生徒に合わせた教育は高レベルの生徒から学習意欲を奪い去るだけです。エリート教育も必要なのです。
 日本では建前としては平等教育、本音ではエリート教育が望まれていますが、エリート教育を受けられるのは高所得層に限られています。受験地獄を生んだ背景には子供に残せるのは教育だけだという父兄の気持ちが表れていました。
 一億総中流の高度成長期には教育格差は一部の人たちだけの問題でしたが、格差社会は教育格差を固定化しかねない状況を呈してきました。私立名門校ではなく公立校でも能力に応じたエリート教育を受けられる環境が必要です。
 義務教育課程から選別教育をする必要があります。能力に応じた学力、少なくとも社会生活に不自由しないだけの読み、書き、算盤を習熟させることが必要です。独学でも高等教育を受けられるだけの基礎学力の取得が期待されます。
 インターネット、図書館が普及した現在では基礎学力さえあればどのような知識も身につけられます。独学でも一流大学に入学することも可能です。奨学金、進学ローンを活用すれば、負け組の子弟でも一流大学を卒業できます。
 意欲と才能さえあればジャパンドリームも可能な社会になりましたが、基礎学力がなければ不可能です。読み、書き、算盤には反復練習が必要ですが、それが無視されたから、大学生にさえ日本語の補習が必要になってきたのです。
 ゆとり教育、総合学習は土曜日、夏休みなどに課外学習として行うべきです。総合学習の時間に英語を教えているのを追認するなどはもってのほかです。日本語さえ満足に教えられない教師に英語を教えられるわけがないからです。
 英語の専門教育を受けていない教師が英語を教えるのは危険です。間違った英語を教えるよりも教えない方がましだからです。英語の時間の新設は泥縄式以外のなにものでもありません。むしろ古文の素読を教えた方がましです。
 パウロはイスラエル民族、ユダヤ人を神の民とされた神の約束が無効にされた訳ではないことを論証しようとしています。パウロはイスラエル民族の父祖アブラハムから始まる神の民、イスラエル民族、ユダヤ人は血統に従うのではなく、神の約束に従っていることを旧約聖書、創世記に基づき論証しています。
 アブラハムには二人の子供がありました。女奴隷ハガルの子、肉による子供、イシュマエルと正妻サラの子、約束の子、イサクでした。アブラハムは正妻サラが年をとり、子供が産めない体になったのでイシュマエルを跡継ぎにしようとしましたが、神は年老いたサラに約束の言葉、『来年の今頃に、私は来る。そして、サラには男の子が生まれる』を与えられました。アブラハム、サラの夫婦には信じられない神の約束でしたが、約束の子、イサクが与えられました。
 サラは女奴隷の子、イシュマエルがイサクをからかったのを怒り、アブラハムにハガル、イシュマエル母子を追放させようとしました。悩み苦しんでいるアブラハムに主は『イシュマエルも一つの国民の父とする』と約束されました。イサクの子孫がユダヤ人であり、イシュマエルの子孫がアラブ人になりました。
 イサクの妻リベカが双子を身ごもった場合にも神の選びが働きました。リベカの子供たちが生まる前に『兄は弟に使えるであろう』と主はリベカに告げられました。子供たちがまだリベカの胎内にいる時ですから、善いことも悪いこともしていないのですが、神はヤコブを選ばれエサウを捨てられたのです。イサク、ヤコブの子孫がユダヤ人であり、エサウの子孫はエドム人ですから、ユダヤ人は唯一の神ヤーウェをアブラハム、イサク、ヤコブの神と呼ぶのです。
 神がなぜアブラハム、イサク、ヤコブを選ばれたのかは人間の常識からすれば理解できませんが、神には神の想いがあり、人間には人間の想いしかないのです。神の選びはユダヤ人の父祖アブラハムから始まり、現在のユダヤ人に至るという確信がユダヤ人の誇りの源です。割礼、律法は神の選びの徴なのです。
 ユダヤ人は血統に拘る民族でした。マタイによる福音書にはアブラハムから、ルカによる福音書にはアダムからイエスに至る系図が書かれており、旧約聖書にはイスラエル民族の各氏族の系図が載せられています。家系図がない人は民の一員として認めらませんでしたから、家系図が神の選びの流れを表しました。
 パウロが論証したブラハム、イサク、ヤコブに対する神の自由な選びはユダヤ人を納得させるものでした。ユダヤ人はアブラハムの子孫であるアラブ人、エドム人を神の選びに与った民とは考えてもいなかったからです。神に選ばれた民、ユダヤ人は神の自由な選びを当然だと思っていましたが、異邦人には納得しがたい論理でした。神の選びが人間の行いに左右されないとすれば、アブラハムの祝福を受け継がない異邦人がいかに努力しても救われないからです。
 しかし、パウロはアブラハムから始まる神の選びの歴史が既にユダヤ人から離れ、異邦人へ移されている現状を指し示しているようにも感じられます。神の計画が人の行いにはよらず、神の御旨により進められるからです。パウロの神の自由な選びという表現は割礼、律法だけではなく、ユダヤ人としての氏素性も救いの条件とは認めていないからです。人間の歴史は唯一の神の御旨が表されたものであり、歴史は神の計画、神の摂理が地上に標した軌跡だからです。
 神の救いの計画はアブラハムを選ばれたところから始まりますが、神がなぜアブラハムを選ばれたかは分かりません。あくまでも神の一方的な選びによるからです。イサク、ヤコブが選ばれた理由も分かりません。神の選びの基準は人間とは異なるからですが、神の救いの歴史の始まりであることは分かります。
 神の歴史は天地創造から始まりました。アダムとエバが禁断の木の実を食べた罪によりエデンの園から追放されましたが、人間は地上で増え続けました。神は人間と四つの契約を結ばれました。第一はノア契約です。罪を犯し続ける人間がノアの洪水により滅ぼされましたが、神は再び人間を滅ぼさないと約束されました。その徴が洪水の後の虹です。第二がアブラハム契約です。その徴は割礼です。神はアブラハムを召し出し、『祝福の源』とされました。アブラハムは主の召しに従い、生まれ故郷ハランから約束の地カナンを目指して旅立ちましたが、ユダヤ人が約束の地カナンに入れたのは800年後、出エジプトの旅の後です。アブラハムへの約束をモーセに率いられた子孫が成就させました。
 第三の契約はシナイ山で交わされたシナイ契約、『唯一の神がイスラエル民族、ユダヤ人の神となるから、ユダヤ人は神の律法を守る』です。ユダヤ人に割礼、律法の遵守が義務づけられました。神との契約ですから、民の一人でも契約を守らなければ共同体が神から裁かれ、処罰されました。民から悪を取り除くことが民の義務ですから、神の名を汚す者は石打の刑により殺されました。
 第四の契約はイエス・キリストによる新しい契約です。主イエスはアブラハムの子孫、ダビデ王の子孫でしたから、アブラハムへの約束、『祝福の源』の約束を受け継いでいましたが、割礼、律法を超える救い、『福音』をこの世にもたらされました。主は主にユダヤ人に福音を宣べ伝えられましたが、ユダヤ人だけを救われるために十字架に付かれたのではありません。福音はユダヤ人、異邦人を区別しません。福音は全人類の救いのためにもたらされたからです。
 新しい契約、福音の徴は十字架と復活です。主は総ての人の罪を贖うために犠牲の子羊になられたのです。神の子は贖罪のための血を一回だけ十字架の上に流されたのです。この血により人間の罪を主は贖われた、肩代わりなされたのです。主の血は全世界のあらゆる民族、総ての人々のために流されたのです。
 主は三日目に甦られました。復活なされた主に弟子たち、女たちは会うことができました。十字架から逃げ去った弟子たちは復活の主に出会い、信仰を取り戻したのです。主の十字架での死は弟子たちには大きな躓きになりました。主がローマ人、異邦人の手で十字架に付けられるとは思ってもいなかったからです。彼らが期待していたのはこの世の王、ダビデ王の再来であったからです。
 主が復活なされた事実は人々に甦りの生命、永遠の生命に至る道を確信させました。復活はギリシア人には野蛮人の迷信にすぎませんでしたし、ユダヤ教サドカイ派でもあり得ないことでした。復活を信じるファリサイ派にしても受け入れられませんでした。生前の主から甦りの生命を知らされていた弟子たちにも信じられないことでした。弟子たちは復活なされた主に出会うまでは復活を信じられませんでしたが、復活の事実に圧倒されたのです。『十字架の言は滅び行く者には愚かであるが、救いに与る私たちには神の力である』からです。
 第五の契約といえるのはパウロが復活の主から異邦人伝道者として召し出され、世界宣教命令のために派遣されたことです。主も使徒たちもユダヤ人伝道を優先されました。ペンテコステ、聖霊降臨日に悔い改め、洗礼を受けたのはユダヤ人、異邦人改宗者ですから、教会は割礼、律法から自由ではありませんでした。初代教会における日々の配分に対する苦情はギリシャ語を話すディアスポラ、離散のユダヤ人からヘブライ語を話すユダヤ人に対して起こされたものですから、執事もユダヤ人の間の苦情を処理するために任命されたのです。
 ペテロによるローマの百人隊長コルネリウスの回心も例外的なことでしたが、パウロの異邦人伝道をエルサレム使徒会議で認めさるための力になりました。エルサレム教会は異邦人に対し、偶像に献げられたものと、血と、締め殺された動物の肉と、みだらな行いとを慎むことを避けることだけを求めたからです。
 パウロは信仰による義を主張し、行いによる義、割礼、律法からの自由を主張しました。ユダヤ人教会は割礼、律法からの自由を受け入れることができず、エルサレム陥落と共に地上から消え去りましたが、異邦人教会はローマ帝国内に広がりました。4世紀末にはローマの国教になりました。アリウス派とアタナシウス派との抗争ではアタナシウス派が勝利し、三位一体の教理、カトリック教会が勝利しました。16世紀にはルターによる宗教改革が起き、プロテスタント教会が『聖書のみ、信仰のみ、万人祭司』の三原則を確立しました。
 使徒パウロが発見した信仰による義の世界はユダヤ人の行いによる義、割礼、律法の世界から福音を解き放ち、キリスト教を世界宗教にしました。ルターの信仰による義の再発見がプロテスタント教会を生みました。神の選び、召しはその時代の人間の常識を越えていましたが、アブラハムからおよそ4000年間、世界戦争が起きた時にも、神の選びが人間から離れたことはありませんでした。
 神を人間の想いで理解しようとすれば不信仰に陥ります。アダムは神のようになろうとして禁断の木の実を食べました。これが原罪です。義人ヨブはサタンから理由のない苦しみを与えられ、信仰を試されました。友人は因果応報の考えからヨブに罪があると主張しましたが、無罪を主張し続けました。やがて神と直接問答をすることを求め続けましたが、創造主である神の想いは被造物である人間の知識を超えていることを指摘され、塵灰の中に崩れ落ちました。
 人間には神の経綸、計画を理解できないことが意外と理解されていません。18世紀頃、理性により神を解明できるという理神論が盛んになりましたが、ニュートン力学が宇宙の森羅万象を解明できると信じられていたからです。20世紀に入ると私たちが日常経験する世界にはニュートン力学を適用できますが、素粒子、宇宙には量子力学、相対性理論が適用されることが分かりました。
 私たちが知っていることは宇宙のほんの一部でしかありませんから、宇宙を創造なされた方を理解しようとする方が無理なのです。神のなされた奇跡を人間の知識で判断することの方がむしろ不自然なのです。分からないことは分からないのですから、無理に分かろうとする必要はないのです。神の計画の中に生かされていることを素朴に感謝するのが信仰なのです。しかし、無気力な人生は送るのは信仰に反します。福音を宣べ伝えるのが信仰者の勤めだからです。

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