2007/11/27

07/10/07 イスラエルを治める者 T 

 2007年10月7日 瀬戸キリスト教会聖日礼拝
イスラエルを治める者     ミカ書5章1-5節
 讃美歌 84,Ⅱ25,161
堀眞知子牧師
イエス様がお生まれになった時、東方の占星術の学者達がエルサレムに来て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私達は東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と尋ねた時、ヘロデ王は祭司長や律法学者を皆集めて、メシア(救い主)はどこに生まれることになっているのかと問いただしました。彼らは「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者達の中で、決して一番小さいものではない。お前から指導者が現れ、私の民イスラエルの牧者となるからである』」と、今日の1節を引用して答えました。ですから私達キリスト者は、このミカの預言を「メシア誕生の預言」「喜ばしい訪れ」として聞きます。けれどもミカが、この預言を語った時、北イスラエルは滅亡し、南ユダは信仰的に堕落していました。南ユダの王ヒゼキヤは、ミカやイザヤの預言によって、神様に立ち帰りましたが、その後のマナセやアモンの時代は最悪でした。特にマナセは12歳で王となって55年間、王位にあり、神様の目に悪とされることをことごとく行いました。
4章14節は、口語訳聖書では5章1節として編集されています。この方が、ミカの預言の流れに合っていると考えられます。ミカは語ります。「今、身を裂いて悲しめ、戦うべき娘シオンよ。敵は我々を包囲した。彼らはイスラエルを治める者の頬を杖で打つ」ミカは以前にも申しましたように、紀元前730年頃に預言者として召され、ヒゼキヤが王であった699年頃まで、南ユダで活動しました。ミカは100年以上未来のこと、バビロニアとの戦いを語っています。「娘シオン」とはエルサレムのことです。「敵は我々を包囲した」と語られているように紀元前588年、エルサレムはバビロニアによって包囲されました。バビロニアと戦うべきエルサレムに対し、ミカは「身を裂いて悲しめ」と命じます。「身を裂いて悲しむ」というのは異教の習慣です。預言者エリヤがカルメル山で、バアルの預言者450人と戦った時、何も応えてくれないバアルの神に対し、彼らは剣や槍で体を傷つけ、血を流しながら狂ったように叫び続けました。真の神様から離れ、信仰的に堕落し、異教の習慣に陥ってしまったエルサレムに、ミカは「身を裂いて悲しめ」と皮肉を込めて命じます。「彼らはイスラエルを治める者の頬を杖で打つ」とミカが預言したように、包囲は足かけ3年にわたり、ついにエルサレムの食糧が尽き、都の一角が破られ、ゼデキヤ王は逃走しましたが、バビロニア軍によって捕らえられ、彼の目の前で王子達は殺され、彼自身は両眼をつぶされた上、バビロンに連れて行かれました。紀元前586年、エルサレムはバビロニアによって、神殿を初めとして家屋は焼き払われ、城壁は取り壊され、貧しい民を除いて、住民はバビロンへ連れ去られました。バビロン捕囚の時代が始まります。
信仰的堕落、南ユダ王国の滅亡、バビロン捕囚という民族の危機、そのような未来を、ミカは神様によって示されつつも、同時に神様によって約束を語ります。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、私のために、イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」ユダ族の中のエフラタ氏族の嗣業の地であるベツレヘム。それは創世記35章に「ラケルは死んで、エフラタ、すなわち今日のベツレヘムへ向かう道の傍らに葬られた」と記されていたように、ヤコブの妻ラケルがベニヤミンを産み、最期の息を引き取った場所の近くです。またモアブの女性ルツが、姑ナオミと共に帰った土地であり、そこでボアズと結婚しました。ベツレヘムの長老達はボアズに「あなたが家に迎え入れる婦人を、どうか、主がイスラエルの家を建てたラケルとレアの2人のようにして下さるように。あなたがエフラタで富を増し、ベツレヘムで名をあげられるように。主がこの若い婦人によってあなたに子宝をお与えになり、御家庭が恵まれるように」と言って、祝福しました。そしてダビデは、ルツの曾孫として生まれました。ダビデの出身地ではありましたが、ベツレヘムは大きな町ではありませんでした。ミカは「お前はユダの氏族の中でいと小さき者」と語っています。ベツレヘムは、ユダ族の嗣業地の中では小さな町にしかすぎないが、そこから「私のために、イスラエルを治める者が出る」と神様は言われました。イスラエルのためではありません。神様御自身のために、イスラエルを治める者が出る、と神様は言われたのです。それは神様の御心に従って、イスラエルを治める者です。第2のダビデ、新しいダビデの「出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」と語られています。神様の救いの御業は最初から、天地万物の創造以前から、御計画の中にありました。
ベツレヘムという小さな町から、イスラエルを治める者、救い主が誕生する、という約束が神様から与えられました。救い主は誕生するのですが「産婦が子を産む時まで」と語られているように、救い主が出現するまで、神様はイスラエルを捨ておかれます。イスラエルの苦難の時代は続きます。けれども救い主が出現された時「彼の兄弟の残りの者は、イスラエルの子らのもとに帰って来る」と語られているように、イスラエル民族だけではなく、異邦人も含む、すべての者が救われます。救い主は神様の力、神様の御名の威厳をもって世に立ち、群れである新しいイスラエルを養われます。救い主の養いによって、イスラエルは安らかに住むことができます。救い主は大いなる者として、その力は地の果てにまで及び、平和をもたらします。「彼こそ、まさしく平和である」と語られているように、救い主こそ、平和の源です。
救い主がもたらす世界が、どのようなものであるかについて、ミカは当時のイスラエルの敵である、アッシリアを通して語ります。紀元前722年に北イスラエルを滅ぼし、今や南ユダも滅ぼそうとしているアッシリア。ミカは語ります。「アッシリアが我々の国を襲い、我々の城郭を踏みにじろうとしても、我々は彼らに立ち向かい、7人の牧者、8人の君主を立てる。彼らは剣をもってアッシリアの国を、抜き身の剣をもってニムロドの国を牧す。アッシリアが我々の国土を襲い、我々の領土を踏みにじろうとしても、彼らが我々を救ってくれる」アッシリアが南ユダを攻撃する。城郭が踏みにじろうとされる。国土が襲われ、領土が踏みにじろうとされる。けれども救い主の力によって、イスラエルは「7人の牧者、8人の君主」と記されているような、力ある指導者を立てて、アッシリアに立ち向かうことができる。イスラエルの指導者は、剣をもってアッシリアを征服し、さらにアッシリアを支配し、イスラエルを救ってくれる。列王記下19章に記されていたように、紀元前701年、エルサレムはアッシリアに包囲されました。その時、神様の御使いが現れ、アッシリアの陣営で185000人が、神様によって撃たれました。実際に何が起こったのかは分かりませんが、エルサレムは神様によって救われました。けれども「剣をもってアッシリアの国を、抜き身の剣をもってニムロドの国を牧す」にまでは至りませんでした。このミカの預言は、新しいイスラエルによって成就されることです。
さらにミカは「ヤコブの残りの者」の使命を2つのたとえで語ります。「残りの者」とは以前にも申しましたように、民族的危機の中にあって、生き残った者です。彼らは悲惨な経験をせざるを得ませんでしたが、逆に復興のための基となる存在であり、神様が御自身の御計画のために、彼らを用いられるのです。第1に「ヤコブの残りの者は、多くの民のただ中にいて、主から降りる露のよう、草の上に降る雨のようだ。彼らは人の力に望みをおかず、人の子らを頼りとしない」と、彼らを露と雨にたとえました。雨期と乾期がはっきりと分かれ、水が豊かではないパレスチナ地方において、露と雨は神様の恵みでした。人間の力では、どうしようもないものでした。神様の力と恵みに頼るほかありませんでした。ヤコブの残りの者は、人間の力に頼らず、神様の御力に頼り、神様に望みをおきました。第2に「ヤコブの残りの者は、諸国の間、多くの民のただ中にいて、森の獣の中にいる獅子、羊の群れの中にいる若獅子のようだ。彼が進み出れば、必ず踏みつけ、引き裂けば、救いうるものはない。お前に敵する者に向かって、お前の手を上げれば、敵はすべて倒される」と、彼らを獅子にたとえました。獅子は強さの象徴でした。羊を襲い、時には人間をも襲いました。神様に敵対する者に対し、ヤコブの残りの者は獅子の強さをもって戦い、彼らを一人残らず倒します。
ミカは4章6節と同じように「その日が来れば、と主は言われる」と語ります。「その日」とは終わりの日です。前回も申しましたように「終わりの日」それは特定されない未来です。語ったミカ自身も、それがいつなのかは分かりません。けれども4章と同じように、終わりの日に何が起こるかを、ミカははっきりと示されました。「私はお前の中から軍馬を絶ち、戦車を滅ぼす。私はお前の国の町々を絶ち、砦をことごとく撃ち壊す。私はお前の手から呪文を絶ち、魔術師はお前の中から姿を消す。私はお前の偶像を絶ち、お前の中から石柱を絶つ。お前はもはや自分の手で造ったものに、ひれ伏すことはない。私はお前の中からアシェラ像を引き抜き、町々を破壊する」ヤコブの残りの者が、神様に敵対する者を獅子のように倒すだけではなく、神様が御自身の民や国の中からも、多くのものを断ち、滅ぼし、打ち壊し、破壊します。神様は第1に、軍馬や戦車を滅ぼします。これは軍事力に頼るのではなく、神様に信頼すべきことを現しています。第2に、不正が行われている町々と、その町を敵から守っている砦を打ち壊されます。これは自らの正しさを求めるのではなく、神様の義を求め、神様の守りに望みをおくべきことを現しています。第3に、呪文や魔術師や偶像や石柱を絶ち、アシェラ像を引き抜き、偶像礼拝の罪を犯している町々を破壊します。神様は「十戒」において「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」と命じられました。さらに約束の地カナンに入るにあたり、モーセを通して「あなたが、あなたの神、主の与えられる土地に入ったならば、その国々のいとうべき習慣を見習ってはならない。あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない」と命じられました。異教の神々を礼拝すること、その習慣を取り入れること、偶像礼拝の罪を犯すことを厳しく戒められました。この戒めを守るように、そして「終わりの日」には、救い主の支配のもとにある新しいイスラエルが、神様によって造り替えられることが明らかにされています。
最後に神様は、ミカを通して「また、怒りと憤りをもって、聞き従わない国々に復讐を行う」と言われました。ヤコブの残りの者に対する祝福、神様の民への裁きが語られた後、神様の御言葉に聞き従わない国々に対し「怒りと憤りをもって復讐を行う」と宣言されました。あらゆる手段をもって、神様はイスラエルと異邦人を招かれますが、最後まで聞き従わない国々には、きわめて厳しい裁きが下されます。けれども、この宣言は同時に、異邦の国々の中にも、神様の御言葉に聞き従う民が存在することを暗示しています。
最初に、イエス様がお生まれになった時、東方の占星術の学者達がエルサレムに来て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねた時、祭司長や律法学者は「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者達の中で、決して一番小さいものではない。お前から指導者が現れ、私の民イスラエルの牧者となるからである』」と、今日の1節を引用して答えた、と申しました。マタイによる福音書に記されている引用は、ミカ書とは異なる部分があります。ミカ書では「お前はユダの氏族の中でいと小さき者」と語られていますが、マタイでは「お前はユダの指導者達の中で、決して一番小さいものではない」と語られています。それはマタイが、主イエス・キリストを知らされた者として、ミカ書の「いと小さき者」を「決して一番小さいものではない」と解釈したのです。ミカが語った時よりも、深い神様の御計画と御業を見させていただいた者として、マタイはミカ書を読み、語りました。
私達キリスト者には、旧約聖書に記されていること、当時の預言者が語ったことを、主イエス・キリストを通して読み取る世界が与えられています。もちろん預言者は、神様に命じられたことを語りましたが、彼らは主イエス・キリストを知ることができませんでした。そういう意味で、旧約時代の預言者には限界がありました。一方、私達キリスト者は、神様によって、その限界を超えさせていただきました。主イエス・キリストによって明らかにされた世界を見させていただき、新しいイスラエルとして召し出されています。第2のダビデはイエス様であること、イエス様は天地万物が創造される以前から、父なる神様と共におられたこと、イエス様によって、民族としてのイスラエルと異邦人という垣根を超えさせていただいたこと、イエス様こそ、新しいイスラエルである教会を養われる御方であり、その御力が地の果てまで及ぶこと、イエス様こそ平和の君であることを知らされています。「イスラエルを治める者」それは民族としてのイスラエルを治める者ではなく、信仰による新しいイスラエル、キリスト者、主の教会を治める者であり、その御方こそ主イエス・キリストであることを知らされています。ミカが神様の命令によって南ユダに、イスラエルに語りながらも、知ることのできなかった真実を、私達は知らされました。先週、私達は伝道開始記念礼拝を守らせていただき、伝道を開始する時を備え、15年の歩みを導いて下さった神様に感謝しました。この恵みに感謝すると共に、信仰による新しいイスラエルを治められる御方、主イエス・キリストに信頼し、主イエス・キリストに養われる群れとして、さらに伝道の使命を委ねられた群れとして、瀬戸キリスト教会の歩みを整えていただきましょう。